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お稲荷様は、甘いものにうるさい  作者: 櫻木サヱ


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8/12

祖母の味は、ここにある

朝、店の戸を開けた瞬間、千代は一度だけ立ち止まった。


空気が、少し違う。

冷たいのに、刺さらない。

昨日までの朝とは、どこか質が変わっていた。


「気のせいじゃないぞ」


背後で、お稲荷様が言う。


「……神社の空気、持ってきました?」


「馬鹿を言え。

お主が、昨日置いてきたんだ」


千代は、ゆっくりと厨房に入る。

釜に水を張り、小豆を入れる。

米を洗いながら、ふと手が止まった。


「……祖母なら、今日どうしてたかな」


それは、初めて浮かんだ問いだった。

今までは「教わった通り」にしか考えていなかった。


「聞いてみればよい」


お稲荷様は、あっさり言う。


「え?」


「ここにおる」


千代は、思わず周囲を見回した。

誰もいない。


「……からかわないでください」


「からかってはおらん」


お稲荷様は、作業台を軽く叩く。


「祖母の味は、記憶の中ではなく、

お主の手の中に残っておる」


千代は、指先を見つめた。

餡を練り、米を寄せ、形を整えてきた手。


「……でも」


「違ってきているのが、不安か?」


図星だった。


「祖母のおはぎと、少しずつ……」


「違うな」


お稲荷様は、はっきり言う。


「祖母の味は、変わり続けていた」


「え」


「売れない日もあった。

甘さを強めた日も、抑えた日もあった」


千代の胸が、ざわつく。


「だが、あやつは迷わなかった」


「……どうして」


「変えていたのではない。

向き合っていただけだ」


釜から、ふつり、と音がした。

小豆が、今日の顔を見せ始めている。


千代は、祖母の声を思い出した。


「昨日と同じ味なんて、ないんだよ」


「あれは、こういう意味だったんですね」


「うむ」


お稲荷様は、少しだけ目を細めた。


「お主は、祖母の背中を追いすぎていた。

だが今は」


千代が餡を口に運ぶ。

昨日より、ほんの少しだけ丸い甘さ。


「……祖母なら」


言いかけて、止める。


「……今日の私は、これがいいです」


その瞬間、胸の奥で、何かがすっと落ち着いた。


「それでいい」


お稲荷様は、静かに言った。


「祖母の味とは、再現するものではない」


店を開けると、常連になりかけの少女が母親と入ってきた。


「この前のおはぎ、おいしかった」


「ありがとう」


「今日は、どんな味?」


千代は一瞬考えて、笑った。


「今日の味」


少女は首を傾げてから、にこっとする。


「じゃあ、それがいい」


その言葉に、千代の胸が熱くなる。


昼過ぎ、ふと気づく。

厨房の奥に、祖母がいたような気がした。


振り返っても、誰もいない。

けれど、否定する気にはなれなかった。


「……ちゃんと、ここにいる」


「だろう」


お稲荷様は、頷いた。


「祖母の味は、店でも、餡でもない」


千代がおはぎを差し出す、その一瞬。

覚悟を持つ、その気配。


「お主が、続ける限りな」


夕方、売れ残りは少なかった。

だが、数は問題ではなかった。


千代は、はっきり分かっていた。


祖母の味は、

失われていない。

受け継がれてもいない。


ここにある。

今日も、この手の中に。

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