春のお彼岸
春のお彼岸が近づくと、町の空気は少しだけ張りつめる。
寒さは抜けきらないのに、日差しだけが先に春の顔をしていて、人の気持ちを急かすからだ。
千代の店も、まだ朝靄の残る時間から明かりが灯っていた。
蒸した小豆の湯気が、店の奥で静かに立ちのぼる。
甘い匂いの中に、どこか土の匂いが混じるのは、この季節ならではだった。
「……よし」
千代は独りごちて、ひとつ目のおはぎを手に取った。
丸めた餅に、餡をのせる。
包み込む指先は、もう迷わない。
以前なら、ここで必ず考えていた。
これでいいのか。
教わった通りか。
怒られない形か。
今は違う。
千代は、自分の感覚で確かめる。
「今日は、少しだけ柔らかめ」
そう言って、餅をほんのわずかに指で押す。
春のお彼岸は、年配の客が多い。
噛む力も、好みも、それぞれ違う。
だからこそ、完璧に揃えるより、「受け止める」形がいい。
「千代さん、もうこんなに出来てるんですか?」
暖簾をくぐってきたのは、向かいの和菓子屋の娘、紗代だった。
まだ二十歳そこそこ。
家業を継ぐかどうかで、ずっと悩んでいる。
「おはよう。手、洗ったら奥に入って」
「え、いいんですか?」
「今日は忙しくなるから。手伝ってもらえると助かる」
紗代の顔が、ぱっと明るくなった。
昔の千代なら、他人に任せるなんて考えもしなかった。
失敗されたらどうしよう。
味が変わったらどうしよう。
自分が全部やらなきゃ、と思っていた。
でも今は違う。
「餡は、こうやって広げて」
千代は紗代の手元を見ながら、静かに言う。
「端を薄くしすぎない。包むとき、破れるから」
「……あ、はい」
紗代の指はぎこちない。
それでも、千代は口を出しすぎない。
昔の自分が、ここにいる。
そう思ったからだ。
その様子を、店の隅から誰かが見ている気がした。
視線を上げても、そこには何もいない。
柱も、棚も、いつも通り。
けれど、千代は分かっていた。
いる。
ただ、もう前に出てこないだけ。
お稲荷様は、今日は何も言わない。
それが、少しだけ寂しくて、でも確かに心強かった。
昼前になると、客が途切れなくなった。
仏花を抱えた人、孫の手を引いた人、静かに頭を下げておはぎを受け取る人。
「この店のおはぎ、ちょうどいい甘さなのよ」
そんな声が、千代の耳に入る。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
紗代は途中で失敗もした。
餡がはみ出たおはぎを見て、青くなる。
「す、すみません……」
「いいの」
千代は、すっとそれを受け取った。
「これは、私が食べる」
そう言って、半分に割る。
断面を確かめて、頷いた。
「失敗じゃない。ただ、形が違うだけ」
その言葉に、紗代は目を丸くした。
「味は、ちゃんとしてる。だったら、それでいい」
この言葉を、千代はかつて自分が言われた。
叱られた記憶よりも、ずっと後になって、胸に残った言葉だ。
夕方。
店が落ち着いた頃、千代はふっと空を見上げた。
春の空は、高い。
雲がゆっくりと流れていく。
「……見てた?」
返事はない。
でも、風が一度だけ、暖簾を揺らした。
それで十分だった。
千代は、もう一度店に向き直る。
ここが、自分の場所だ。
教えられる時代は終わりつつある。
今は、受け取ったものを、誰かに渡す番。
春のお彼岸は、その始まりだった。




