見えない真意
「しっ。静かに」
「………」
耳の鼓膜を直に揺らす、低いテノールの声。
近すぎて、彼の吐息すらも耳を悪戯に擽ってくる。
頬に押し当てられているのは、服越しでも伝わる引き締まった胸板。背後には彼のがっしりとした腕が回されていて、その力強さに身動きすらできない。
時々視線だけを上げれば、辺りの様子を窺うように視線を鋭くさせたジルの顔と、すっきりとした顎のラインが目に飛び込んできて、慌てて胸元に額を押し付けた。
胸がドキドキして止まらない。
誰かが、男の顎のラインについて語っていた事を不意に思い出してしまった。確かに、かなりセクシーポイントだ。
ちょっとした新しいフェチポイントになる勢いだ。
でもなんでそれをこんな緊迫した状況で思い知らされなきゃいけないのかしら。
ほんと、なんの拷問なのよこれ。
事の起こりは二時間前に遡る。
意味も分からず動揺する気持ちをしっかり切り替えた私は、久々の弟との二人きりの時間を楽しんでいた。
「あ、これおいしそう」
「店主。これを一つくれ」
「ちょっと!もう食べれないって!!」
城下町はそれなりに人が居て、平和そうだった。行きかう人々の表情は想像していたよりもよほど明るい。
ジルは私を甘やかしたくて仕方がないらしく、私が気に入った素振りを見せたモノすべてを購入する勢いなので、すでに彼の手には沢山の袋が握られている。
その半分以上が食べ物なのは、見逃してほしい。
ジルが個人的に使うという文房具なんかも買ったけれど、圧倒的に私が顔を輝かせてしまったお菓子などの方が量は多い。
その上、広場に並んでいる屋台のような所で売られている食べ物たちが美味しそうなものだから目を離せずにいれば、ジルがスマートな流れでその食品たちを買ってくれるものだから、すでに私達の両手には空きがない。
更にまた買おうとする彼を押しとどめて、どこか空いた場所で食べようと促す。
ちなみにだけど、例え簡素な服装に身を包んでいても、ジルはやっぱりこの世界でもイケメンな部類にはいるらしく、道行く人々が二度見三度見としていた。
しかも男女問わずである。
女性に関してはそれこそ頬を染めていて、逆に私を見てなにやら難しそうな顔になっていた。
すごい、こういう事に関しては日本とあんまり変わらないんだ、なんて暢気な感想を持ったりなんかしたり。
人間って不思議だね。
「あ、あったよ。ここでいい?」
城下街の中心部は丸く大きく開けていて、その真ん中に大きな噴水が置いてある。その周りを囲むように芝生が敷かれていて、人々の憩いの場として馴染みなんだそう。
そんな人々を相手にしているのがその周りに並ぶ屋台で、その更に奥には、丸を描くように建物が並んでいる。そこには高級そうなレストランがあるんだそうだ。
運よく噴水近くの芝生に空きを見つけてそこに座り、屋台で買った食事を昼食にすることにした。
買ったものは、日本でいうサンドイッチのような、具材がパンの間に挟まっているようなものと、焼きそばのように麺と野菜が混ざったモノ。
私は村での生活が長いから、芝生に直に座ることも、屋台での食事も平気だが、ジルはどうだろう。窺うように彼の様子を見ていれば、意外や意外、まるでなんでもないように私の後に続いた。
買ったものの中に大きな焼き鳥のような串焼きがあったのだが、それに盛大に齧り付いているジルを見て目を見開いた。
「………なんだ」
綺麗な人の豪快な姿って意外に絵になるんだ。
いや、違うか。綺麗な人は何しても絵になるのか。
見惚れてしまって、自分の膝の上にあるサンドイッチに手を付けれずにいた私を胡乱気に見てきたジルに、大袈裟なほどなんでもないアピールをしてしまった。
逆に嘘くさいか。
「なんか、慣れてるなと思って」
私の質問の意図が読み取れなかったのか、目をキョトンとしたまま齧り付いた肉を噛み砕いていたジルは、ゆっくり呑み込んだ所でようやく私の言っている意味がわかったようだ。
年相応の表情が可愛かった。
「十年前、少しの間だが隣国に亡命していた時期があったからな。これくらいなんでもない」
「あ、そっか」
更に気まずくなって、沈黙した。
とりあえず昼食を食べることに集中することで、その空気が逃げることにする。
焼きそばモドキは二人で半分こにした。
ご飯を食べ終わり、お腹が満たされたことで、少しどんよりとした周りの空気も幾分か緩和されたみたい。
両足を投げ出し、腕を後ろに着く事でバランスを保ちながらのんびりと辺りを見回した。ジルも、その隣で胡坐をかいている。
俯いたまま何かを考え事をしているようなので、邪魔はしたくない。
それにしても、平和だな。
「そんなことはない」
どうやら、心の言葉が漏れていたようだ。
眉間に皺を刻んだジルが真っ直ぐに私を射抜いていた。
「?」
「よく見てみろ。何件の食事処が機能している」
促されるままによくよく様子を窺えば、確かに、沢山ある建物の中できちんと機能している様子のレストランは片手で数えるほどしかないようだ。
しかも、目を凝らしてみれば、建物の間の裏路地に続くような道には沢山の人々が身を寄せ合うように座っているのが見えた。その姿形の大きさから、大半が子供達のようだ、
「でも、ここに来るまでの道のりでは、みんな笑ってたよ?」
「………そんなのは表面上の話だ。この国で、革命が起きてしまうほど膨れ上がった負の連鎖は、十年そこらじゃ消えやしない」
そう話すジルの声がは苦渋に満ちているようで、離れていた十年間の苦しみを垣間見えた気がして悲しくなる。
思わず芝生の上に置いてある彼の手に、自分の手を重ねていた。
私を見上げてきた彼の眉間の皺は、驚きのためか少し和らいでいた。
「そんなことないよ。私、あんまり王都の情報とか入る場所には居なかったけど、今の王様や側近がどれだけ優秀かとか、良く聞いてた。それで、国が良い方向に向かっているっていうのも、知ってる。伝え聞いたことだから、他の人もそう思ってるってことでしょう」
どうやって励ませばいいのか分からないものの、彼の今までの努力が無駄ではないことを知ってほしくて、村での情報を伝えた。
瞬間、彼が笑った。
けれどそれは、自嘲にも似た皮肉的な笑み。真剣な表情はそのままに、口元だけが持ち上がる。
「そうであったなら、どれだけ救われるか」
「え?」
「伏せろ!」
意味深に呟かれた言葉に気を取られ反応できずにいれば、ジルの手を包むように乗せていたはずの手をとられ、彼の方へと手繰り寄せられる。
その流れで彼は自分の頭にマントのフードを被せ、同じように私のフードも付け直してくれる。
フードを被ったせいで狭くなった視界の中で、耳に入ってきたのは男達の低い怒号の数々と周りの人々の悲鳴。
ジルに連れられるがままに芝生を離れ、裏路地に入り込んだ。
そして、冒頭に戻るわけです。
正直、何が起きているのか皆目見当がつかない。
聞こえてくるのは怒号と悲鳴、そして鋭い金属のぶつかり合う音。
一気に、記憶が十年前のあの日へと遡った。
「ジ、ジル………」
まさか。
一種の祈りを込めて呼んだ声は、自分でも驚くほど弱弱しく聞こえた。
見上げれば、ジルが厳しい顔で私を見下ろしているではないか。
彼の瞳に自分が映り込んでいるのが見えるほど、すぐ傍に居る彼に思わず身が飛びのきそうになる。しかし、背後に回された腕のせいで動く事なんてできない。
鼻先がぶつかりそうな所で、私達は見つめ合っていた。
「人間は愚かで、浅ましく、そして臆病だ。苦しみは人々に忘れられない記憶を植え付け、一度味わった勝利の味は、人々の思考を奪う。………だから」
真剣そうな顔をしている彼だけれど、空間を開けようと彼の胸元に当てている手のひらから、彼の爆発しそうな鼓動の音が聞こえてきて、それが空気に呑み込まれる寸前の私を押しとどめてくれている。
不意に、真っ直ぐに私を見つめていた彼の顔が、泣きそうなほどに歪んだ。
泣くのかと思った直後、再び胸元に抱き込まれる私の身体と、次いで聞こえてくるジルの声。
「安心しろ。こんな茶番、すぐに終わる」
この人は、どうしてこんなにも怯えているのだろう。




