ラグナとお別れです!
――遥か遠く。
人間たちの街からはるか北の果て。
黒い山脈の向こうにそびえる巨大な城の中で、
一人の男がゆっくりと目を開けた。
「……」
黒い髪。
赤い瞳。
そして、人間とは明らかに異なる圧倒的な魔力。
何百年もの間、数多くの魔族を率いてきた存在。
魔王だった。
彼は何も言わず、窓の外を見つめた。
つい先ほど。
遥か遠く離れた場所から、
あまりにも懐かしい魔力を確かに感じた。
いや。
正確には――
懐かしくあってはならない魔力だった。
「……禁忌魔法か」
魔王の低い声が、広い部屋の中に響いた。
そばに立っていた魔族の一人が顔を上げる。
「魔王陛下?」
「今、誰かが禁忌魔法を使った」
「……!」
魔族の表情が固まった。
「そんなはずは……」
その反応も当然だった。
現在、禁忌魔法をまともに扱える存在がごくわずかだということは、
誰もが知っている。
魔王自身。
そして魔王軍の中でも、指折りの高位魔族が数人いるだけ。
だが先ほど感じた魔力は、
その誰のものでもなかった。
それなのに、
妙なほど懐かしかった。
「場所は?」
「少々お待ちください」
魔族が目を閉じる。
淡い魔法陣が足元に浮かび上がった。
しばらくして、
彼が目を開ける。
「人間領です」
「どこだ?」
「ラグナという街の近辺だと思われます」
「ラグナ……」
魔王が静かにその名を繰り返した。
そして、
遥か昔の記憶が蘇った。
小さくて。
あまりにも愛らしかった子供。
けれど、ある日突然姿を消した――
生まれて間もない、自分の娘。
「……まさか」
魔王の赤い瞳が細くなる。
まだ確信はできない。
あまりにも長い時間が経っている。
だが――
確かめる必要はあった。
「調べろ」
「は?」
「ラグナで禁忌魔法を使った者が誰なのか、突き止めろ」
魔王は一度言葉を切った。
そして低い声で付け加える。
「騒ぎは起こすな」
「承知いたしました」
魔族が深く頭を下げる。
魔王は再び窓の外を見つめた。
「……」
もし。
本当にもし――
あの子と関係があるのなら。
今度こそ、
逃しはしない。
***
「うぅ……」
翌朝。
俺はベッドに寝転がったまま、天井を見つめていた。
体が重い。
俺はゆっくりと体を起こした。
「……昨日のことが原因かな……」
窓の外を見る。
ラグナの街は、いつもより静かだった。
復旧作業はすでに始まっているようだ。
壊れた建物の前には木材が積まれ、
ギルド職員や住民たちが忙しく動き回っている。
《黒環》の襲撃は終わった。
俺は服を着替え、
部屋の外へ出た。
すると、
ちょうど向かいの部屋の扉も開いた。
「お兄様~」
「ルナ」
ルナはいつも通りの顔をしていた。
昨日見せた冷たい表情は、
もうどこにも残っていない。
「よく眠れた?」
「はい! お兄様は?」
「まあまあかな」
「お腹空きました~」
「……いつも通りだな」
「当然です!」
少し安心した。
俺たちは一緒に一階へ降りた。
《銀月亭》の一階には、
いつもより客が少なかった。
ミアさんは朝食の準備をしていたが、
俺たちを見つけると急いで近づいてきた。
「二人とも大丈夫?」
「はい」
「昨日は本当に大変だったよ。二人がいなかったら、もっと被害が大きくなってたと思う」
「他の冒険者たちもかなり頑張ってましたよ」
「それでも」
ミアさんが小さくため息をついた。
「怪我人も多いし……亡くなった人もいるって聞いたよ」
「……」
その場の空気が少し沈んだ。
ルナも黙り込む。
昨日、
通りで動かなくなっていた人たちの姿が頭に浮かんだ。
俺たちがもう少し早ければ。
でも、
そんなことを考えても何も変わらない。
俺は椅子に座った。
「子供たちは?」
「みんな無事だって」
ルナの表情がすぐに明るくなった。
「本当ですか?」
「うん。大きな怪我をした子もいないって」
「よかった……」
ルナが胸を撫で下ろした。
しばらくして、
俺たちは簡単に朝食を済ませた。
そしてそのままギルドへ向かった。
ギルドの中は、
まだ慌ただしかった。
受付には人が集まり、
壁には被害状況や復旧要員募集の張り紙が並んでいた。
「リオン!」
ガイルさんが俺たちを見つけた。
隣にはセリアさんもいる。
「昨日以来だな」
「二人とも大丈夫ですか?」
「このくらいなら平気だよ」
ガイルさんが笑った。
セリアさんは、
そんなガイルさんを横目で見る。
「昨日、脇腹を怪我したくせに何言ってるの」
「かすり傷だろ?」
「結構血が出てたけど?」
「……少しだけ?」
セリアさんがため息をついた。
「それより」
ガイルさんの表情が再び真剣になる。
「昨日逃げた《黒環》の連中なんだけどな……」
「見つかったんですか?」
「いや」
ガイルさんが首を振った。
「街の外まで追ったけど、途中で痕跡が途切れた」
「……」
「ただ、重要なことが一つ分かった」
ガイルさんがテーブルの上に地図を広げた。
ラグナと、その周辺地域が描かれている。
そして指で南東を示した。
「逃げた方向はこっちだ」
俺は地図を見下ろした。
「ここは……」
「港町セルディアへ向かう道ね」
セリアさんが言った。
「馬車で数日くらいの距離よ」
港町……。
もともと俺たちも、
ラグナを出たあとに向かうつもりだった場所だ。
「偶然でしょうか?」
ルナが聞いた。
「さあな」
ガイルさんが腕を組んだ。
「奴らがそっちに何か拠点を持ってる可能性はある」
「ギルドは?」
「もうセルディアのギルドには連絡を送ってある」
セリアさんが答えた。
「ただ、《黒環》がどんな組織なのかも、何人いるのかも分からないのが一番厄介ね」
「……そうですか」
俺は以前見た黒い装置を思い出した。
100階層で見つけた、
古代魔王軍の魔道具。
そして《黒環》が使っていた装置。
あの二つは、
確実に関係している。
なら、
港町へ行けば、
もう少し何か分かるかもしれない。
そのとき、
ガイルさんが俺を見た。
「お前たちは、これからどうするんだ?」
「もともと次は港町に行くつもりでした」
「……やっぱりな」
ガイルさんが笑った。
「ならちょうどいい」
「《黒環》のためだけじゃないですよ!」
ルナがすぐに口を挟んだ。
「海も見たいし、海鮮も食べたいです~!」
「……」
セリアさんがしばらくルナを見つめた。
「やっぱりそっちのほうが大事なんじゃない?」
「違います!」
「本当に?」
「……どっちも大事です」
ルナが視線を逸らした。
俺は笑いを堪えた。
そうだ。
これがいつものルナだ。
「ところで……」
ガイルさんが急に声を落とした。
「昨日、ルナが使った魔法のことなんだけど……」
ルナがそのまま固まった。
「……」
俺もガイルさんを見る。
「あれ、いったい何だったんだ?」
「私も……よく分かりません」
「分からない?」
ルナが杖を見下ろした。
「はい」
「習ったこともないのか?」
「ありません」
セリアさんが目を細めた。
「じゃあ、どうやって使ったの?」
「ただ……」
ルナが少し考える。
「その瞬間は、使える気がしたんです」
「……」
ガイルさんとセリアさんが、
同時に黙り込んだ。
俺も同じだった。
やっぱりおかしい……。
初めて見る魔法なのに、
ルナは使い方を知っていた。
まるで、
最初から知っていたみたいに。
「昨日の魔法の名前、なんだった?」
「《ナイトフォール》です」
「その名前も最初から知ってたのか?」
「……はい」
ルナの声が少し小さくなった。
ガイルさんが頭をかく。
「やっぱり変だな」
「体に何か異常はない?」
セリアさんが聞いた。
「はい! 全然ありません」
ルナは両腕を上げてみせた。
「むしろお腹空きました」
「さっき食べたばかりだろ」
「朝ごはんの空腹と、今の空腹は別です」
「……」
ガイルさんが吹き出した。
重くなっていた空気が、
少しだけ和らいだ。
俺はルナを見つめた。
今すぐ答えを見つけることはできない。
でも、
いつかは調べる必要がある。
99階層の魔物が、
ルナを『ルナ様』と呼んだ理由。
そして昨日、
ルナが使った正体不明の魔法。
どちらも偶然だと思うには、
あまりにもおかしかった。
***
数日後。
ラグナは、
少しずついつもの姿を取り戻し始めていた。
壊れた店は修理が始まり、
人々も再び通りへ出るようになった。
俺たちは復旧を手伝ったり、
子供たちともう一度会ったりもした。
「お姉ちゃん!」
子供たちがルナへ駆け寄ってきた。
「もう怖くない?」
「うん!」
「本当?」
「ちょっとだけ……」
「じゃあ、今日は一緒にボール遊びする?」
「うん! やる!」
ルナが笑った。
昨日のことは、
きっと子供たちの記憶に長く残る。
それでも、
こうしてまた笑えるようになったのはよかった。
そして俺たちも、
そろそろラグナを出る準備を始めた。
ガイルさんとセリアさんも、
ギルドの前まで見送りに来てくれた。
「今までお世話になりました」
「それはむしろこっちの台詞だ」
ガイルさんが言った。
「ダンジョンのことも、今回のこともな」
「次に会うときは、私たちももっと強くなってるから!」
セリアさんも付け加えた。
ガイルさんがニッと笑う。
「ブランさんとリネアさんにもよろしく伝えてください」
「ああ」
ルナが手を振った。
「また会いましょう!」
「お前たちも気をつけてな」
俺はラグナの街を、
最後にもう一度振り返った。
初めて来たときより、
本当にいろんなことがあった。
ダンジョン。
祭り。
そして《黒環》。
でも、
まだ終わったわけじゃない。
奴らは港町のほうへ逃げた。
「お兄様~」
「ん?」
ルナが前を指差した。
「行きましょう!」
「うん」
俺たちはラグナをあとにして歩き始めた。
次の目的地は――
海のある港町。
そして、
もしかしたら。
《黒環》について、
もっと多くのことが分かる場所。
ルナは楽しそうな顔で言った。
「海には、ものすごく大きなお魚もいるんでしょうか~?」
「たぶん」
「美味しいですかね?」
「……もう食べること考えてるの?」
「もちろんです~」
俺は思わず笑った。
こうして俺たちは、
新しい街へ向かって歩き出した。




