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 シュメリア大陸暦一〇〇〇年六月二十三日。

 エスティリア平原――。

 この日、ハスラード王国軍十万と、サクラカンド王国軍三万が互いの国境を間に挟んで睨み合っていた。いつ開戦の狼煙が上がっても良いように、両軍の兵士達は武具兵装に身を包み、戦闘態勢を整えていたが、結局その日のうちに戦が始まる事はなかった。

 陽が西の端に沈み、空が闇に食われると、張り詰めていた空気も幾分和らぎ、そこかしこから兵達の無邪気な笑声とやり場に困った興奮が溢れ出した。もはや今日のうちに戦はない。しかし明日になれば戦が始まる。生き残る事が出来るかは神のみぞ知る。だからこそ、楽しめる時に楽しまねばと、兵達はその場限りの刹那的な楽しみに全力で興じていたのである。

 そんな各陣の一角に、テト・シャムーデ将軍の陣営がある。

 サクラカンド軍の左翼に陣取り、ハスラード軍の右翼と対峙しているシャムーデ隊は、総勢二千の兵から成る。御多分に漏れず、兵達の多くは今日が最後の夜の如く乱れ狂い、一方、将軍の陣幕においても“前祝”と称したどんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。本陣より酒は飲むな、という通達は出ているものの、徹底を欠いているようで、各陣で行われる前祝では酒精がこれみよがしに飛び交っていた。

「閣下、明日は戦ですぞ。そんなに飲んでしまっては、戦いどころではありますまい」

 見かねたバーブルが苦言を呈すと、

「フェルト卿は心配性だ」

 シャムーデ将軍はカラカラと笑った。

 酔いが回ったように顔を真っ赤にしている将軍に、バーブルの憂いはいっそう深く濃くなった。

「案ずるな。ハスラード軍は雑魚だ。恐れるに足りぬ」

 ハスラード軍は雑魚。

 そのような見方が必要を超えてサクラカンド軍将士の心に蔓延し過ぎているように、バーブルには思われた。そういうバーブルとてもハスラード軍を雑魚と侮る気持ちを全くもっていないわけではないが、一方で彼は、ここまで破竹の連戦連勝を続けてきたハスラード軍に対して脅威も覚えていたのだ。

 ハスラード軍が雑魚と呼ばれる所以は、その軍が騎士や貴族、そして彼らが従える郎党達で構成されているわけではなく、カネの力でかき集めた民衆が主体となっているからである。かつて、ハスラード王国は狭い領土に膨大な人口を抱え、慢性的な失業問題に悩まされていた。多すぎる人口に対して仕事の絶対数が不足していたのだ。また一人当たりに供給できる食糧にも限りがあったので、食糧事情は常にギリギリで、少しでも問題が生じればすぐに飢えが生じるという危機的状況にあった。これらの問題を、十年前にハスラード王に即位したリーンハルト一世は、街中に溢れる失業者を兵士として雇う事で解決してしまった。失業者は激減し、それに伴って治安も改善され、巨大な国軍を遠征に用いる事で領土の急拡大をも達成したからである。更に反抗的な貴族を粛清し、その私領私産を奪う事で国軍の運営財源を確保すると共に、国王権力の絶対化をも果たした。

 リーンハルトが作り上げた“国民軍”の最大の特徴は、あらゆる事が画一化されていた点にある。従前の騎士や貴族を主体とする貴族軍の場合、武装は各自の自前であり、訓練鍛錬方法も仕える家が違えば当然に異なった。要するに互換性がなく、多少の損害を受けるだけで再起不能に陥る事もままあった。それに比べ、国民軍の場合は、武具兵装は悉く国家が支給するので、武具を失ったり壊してしまっても代わりを支給すれば事足りるし、新兵を基準に設計されていたから、新兵達は最低限の訓練や教育課程を受けるだけでそれらを十二分に使いこなす事が出来た。

 確かにハスラードの国民軍は、兵士一人一人は極めて弱い。一騎討ちでも行おうものなら、必ず負けると言われていた。指揮官から兵卒に至るまで大陸史上最弱の軍隊と言って良いだろう。しかし彼らは膨大な数を運用する事に長け、ゆえに集団戦に強く、また打たれ強く、治癒能力にも秀でていた。幾ら倒しても殺しても次々と新手を補充されてしまうので、とにかくきりがなく、遂に押し潰されるわけである。そうやってハスラードに飲み込まれていった国は数知れない。

 ハスラード軍の真の恐ろしさを、バーブルとて承知しているわけではなかった。

 だが不気味には違いない。

 特に彼らを雑魚と侮って、自分達が負けるはずがないと頑なに思い込んでいるシャムーデ将軍のような人物を目の当たりにすると、不安は急速に首を擡げてくるのだった。

 しかし、バーブルが何を言っても、前祝に酔っている幹部達を制止する事は出来なかった。無論、監視役たる政治将校としての権限を行使すれば、止める事は可能であったかもしれない。しかし前祝に酔っているのは何もシャムーデ隊に限った事ではないし、また、なるべく部隊に溶け込みたいと思っているバーブルとしては、監視役の本分に立ち還って浮いた存在になる事も本意ではなく、結局内心の思いの半ば以上は喉の奥に押し戻して、黙っておく事にしたのである。この時期のバーブルは、他の者達と同様、事勿れ主義に冒されていたと言ってよかった。



 シャムーデ隊陣営の一角に、バーブルの宿所はある。

 後先考えない前祝に呆れて、現実から目を背けるように将軍の下を離れた彼は、その足で宿所に帰ってきた。帰るなり、彼はかつてアンナから貰った手編みのマフラーを“神棚”に祭って、いつものように深々と伏し拝んだ。傍から見れば奇異に映る光景だが、これは戦を目前に控えた彼にとっての欠かせぬルーティーンで、一種のゲン担ぎであると共に、一心不乱にアンナを想う事で精神を落ち着ける効果があった。

「殿よ。また、そんな事を」

 呆れ顔でそう言うのは、バーブルの従者を務めるザール・ザルという壮年の男であった。

「よほど殿はアンナ嬢の事がお好きなのですな」

「……まあな。この世で一番大切だ。あいつの為なら俺は喜んで命も捨てるぞ」

 臆面もなく答えるバーブルに、ザルは「ハハハ」と笑った。

「殿に命を捨てられては、アンナ嬢は良くても私は困りますよ。殿がいなければ、私みたいな前科者を一体誰が雇ってくれるというのです?」

「さあな」

「さあなとは薄情な。殿以外に私を雇ってくれる者などいないのですよ。ひとたび雇ったからには、主として責任を蔑ろにされては困りますな」

「知った事か」

 ザルの物言いは、バーブルを呆れさせた。

 しかし、この男のこんな態度は今に始まった事ではなく、いちいち気にするだけ無駄というものだった。多少の欠点――性根や経歴など――はあっても、ザール・ザルという男は、武勇に秀で、学もあり、悪知恵を働かせたら右に出る者がないなどの長所も多く、側近として傍に置いておくにこれ以上ない逸材であった。

「……それにまあ、いざって時は、ハルンが面倒を見てくれるさ」

「御舎弟殿ですか。しかし、私はあの人があまり好かんのです」

 相変わらずザルの物言いには遠慮がない。

「ま、それは別に先方も同じでしょうがね。虫が好かんのはお互い様というわけで」

「……ハルンの何が気に入らんのだ」

「そうですなァ。まあ、全てですよ」

「全て」

「強いて挙げるとすれば、あの人は図々しいんですよ」

「図々しい?」

「ええ、御舎弟殿は万事が自分を中心に回っていると思っておられる御方ですからな。少なくとも、目下の人間に対してはそんな感じなんです」

 積年の思いをぶちまけるように言い放つザルに、バーブルは困ったように苦笑を向けるしかなかった。

 そんな彼に構わず、ザルは更に続けた。

「殿は、アンナ嬢の事を御舎弟殿に任せてしまったみたいですが、それもどうかと思いますね。あの人の事だ。横取りするぐらいの事は平気でやりかねませんよ」

「横取りだと?」

 バーブルの眉間に皺が集まっていく。

「ええ、あの人ならあり得る事ですよ。それに先日、エスティリアを視察していた時に刺客に襲われた事があったでしょう」

「ああ」

「あれも、あの人の仕業じゃないかと、私は疑っているんです。ま、証拠はありませんがね」

 途方もない事を、ザルはあっけらかんと言い放つ。

「なに? どういう意味だ」

 聞き捨てならぬとばかり、バーブルがいきり立ったのも無理からぬ事だった。

「例の刺客は牢獄で死んだでしょう。あれを殺したのは、恐らく御舎弟殿だからですよ。あの夜、地下牢から密かに出ていく御舎弟殿を私はハッキリ見ました。それから間もなく、刺客が死んでいるのが発見されたというわけです。恐らくですが、口封じをしたのではと。口封じをするという事は、刺客がやらかした事件の黒幕本人ないし、その手先が御舎弟殿だったというわけですよ。動機だってある」

「動機?」

「だってそうでしょう。殿がいなければ、アンナ嬢は御自由だ」

「……」

「ただ証拠も何もない。安易に殿の弟君に疑いを向けるわけにもいかず、黙っていたってわけです」

 きっぱりと言い切るザルに、バーブルは露骨に不快そうな表情を向けた。信頼する弟の深刻過ぎる疑惑を口にしたのだから無理もない。ただ、即否定せず、不満の表情を浮かべるのみに留めて、黙り込んでしまったのは、バーブル自身思い当たるところがなかったわけではないからである。

 ただバーブルは、ハルンを信じていたし、アンナの事はそれ以上に信じていた。

 彼らが自分を裏切るはずはない。

 確証を欠いた確信に背中を突き飛ばされる形で、

「バカな事を言ってんじゃない」

 バーブルは声を荒げた。

「ですな」

 ザルはザルで、そう答えたきり、それ以上余計な事は何も言わなかった。

 その程度の分別は、この男にもあった。


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