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 出師に向けた準備が始まった。

 何しろ三日である。

 紅の騎士団はその総力を挙げて準備に取り掛かった。軍部に王命を通知し、至急兵や物資を集めるよう求めつつ、大蔵大臣には戦を遂行する為の軍資金を用立てさせる。総大将を務める国王の幕僚陣、実戦指揮などの幹部人事を軍部と協議のうえで決定する事も彼らに課された仕事の一つであった。

 作戦の立案も含め、これらの事をたったの三日で遂行するのは至難というより不可能と言っていい。だが、王命である以上、やらねばならず、文句や不満を口にしても仕方がないし、そもそもそんな事を言っている暇すらもなかった。

 紅の騎士の中核メンバーであるバーブルも多忙を極めた。

 というより、彼が一番多忙を極めていたと言っていい。

 仕事というものは出来る人間に集中するのは世の常である。団長や副長ら幹部達は面倒そうな仕事に限って、悉くバーブルに押し付けるし、逆に後輩や同僚達の手に余る仕事も結果的に彼に回ってくるので、彼の下には常に仕事が山の如く積もっている有様だった。それでも、なまじ大半の仕事を処理できてしまう為に、更に多くの仕事が集まってくるのは、皮肉という他はなかった。

 というわけでバーブルは朝早くから夜遅くまで、それこそ寝る間も惜しんで仕事に勤しんだ。その間、彼は家にも帰らなかった。そのような努力の甲斐あって、三日後には三万ほどの軍を編成する事が出来、一仕事終えた彼は、汗を洗い流し、疲れを癒し、そして愛する女に一時の別れを告げる為に帰宅したのだった。

「戦に行くんですってね」

 アンナは少し涙ぐんでいる。

 しばらく会えなくなる事を悲しんでいるのか、

 あるいは二度と会えなくなる事を危惧しているのか。

「どこでそれを?」

 バーブルは困惑しつつ問うた。

「どこって、もう街中、その話でもちきりですよ。ハスラードが攻めてくるんでしょう。それを迎え撃つ準備を貴方が進めてるって」

「……そうか」

 ここ三日、ずっと王宮の騎士団事務所に籠り切りだった彼は、市井の状況に疎かった。

「大丈夫なんですか」

 ハスラードは大国である。

 それが本腰を挙げて攻め込んでくると言うのだ。

 人々やそれに毒されたアンナが不安に駆られるのも無理からぬ事。

「ああ、問題ないさ。ハスラード軍と言っても庶民を寄せ集めただけの烏合の衆。数は多くとも恐れるに足りん。それに遠征軍だから、地の利もない。物資の供給とてままならんはず。一ヶ月もあれば帰ってこれるだろうよ」

「そう、なんですか?」

 バーブルとてそこまで楽観的ではないが、不安に冒されているアンナを元気づけるには、これぐらいのハッタリも必要だと思ったのだ。

「案ずるな。俺は死なんよ。これまでだってそうだった。必ず五体満足で帰ってきただろう。今回だって同じさ。それに、恐らくだが、この戦に勝てば当分は戦もないはずだ。休暇も貰える事になっているから、落ち着いて新婚生活を楽しめるというわけだ」

 そう言いながら、バーブルはアンナを抱き寄せようと、彼女の背中に両手を回した。

「もう!」

 顔を赤らめながら、アンナは抵抗する。

 甘噛みにも似た可愛らしい抵抗が、よりいっそう男の劣情を煽った。

「まあ、なんだな。この戦から帰ってきたら、改めて正式に結婚しよう。褒美もたんと貰えるはずだからな。それで盛大な結婚式を開くんだ。お前の親父殿が何と言おうと、知った事じゃない。なお親父殿がああだこうだ言うなら、紅の騎士としての権限で強行してやるんだ。親父殿も文句は言えんだろう。な、良い考えだろう。そうしよう」

 男は昂る想いの赴くままに、捲し立てるようにそんな事を言った。女もまた嬉しそうに微笑み、昂る想いをそのまま形にしたような声で、「はい!」と答えた。



 アンナとの情熱的な一夜を過ごした翌朝の事である。

 出陣の支度を進めているバーブルの下に、弟のハルンがやってきた。

「俺はいかなくていいのか?」

 ハルンは不満そうな声で問うてくる。

「ああ、今回は留守を頼む」

 召使の女の手伝いを受けながら、鎖帷子や鎧を着こんでいたバーブルは淡々と答えた。

「留守ったって何をするんだよ」

「そうだな。俺が留守の間、アンナの事を頼む。家の事も任せる」

「……俺でいいのか」

 意味深な口調のハルンに対し、バーブルはカラカラと愉快そうに笑った。

「ああ、弟だしな。お前以上に信頼できる者はいないよ」

「そりゃありがたいね」

「だが、何年か前のように、あいつをダシに金儲けしようとしたら許さんがな」

 釘を刺してくる兄に、弟は「ハハハ」と苦笑い。

「それはそうと、お前には好きな女はいないのか?」

「……な、なんだよ、藪から棒に」

「どうなんだ?」

 ぐいぐいと迫ってくるお節介な兄に、弟は困ったように頭を掻き、やがて面倒臭そうにフンと鼻を鳴らした。

「兄者には関係ない」

「関係なくはないだろう。俺はお前の兄だし、家長でもあるんだ」

「……知るか。っていうか、俺が手助けしなけりゃ、アンナさんとお近づきにもなれなかった臆病な兄者にああだこうだと偉そうな事は言われたくないね」

「まあ、それを言われると辛いが」

 今度はバーブルが苦笑する番であった。

「俺は所詮弟だ。兄者と違ってフェルト家の将来に何の責任も負ってないんでね。好きにするさ」

「いや、お前ももう一応は騎士だ。そして近いうちに正式に別家を立てる事になるんだから、今のうちから将来の事は考えておくべきだぞ」

「……別家ねえ。って言っても別に領地を持ってるわけでもないし、形だけの騎士号だけだしなァ。受け継がせるものも特にないし、そんな家が断絶したところで誰も困らんよ。将来を嘱望される紅の騎士様とは違うさ」

 自嘲気味に吐き捨てるハルンに、バーブルは心底呆れたように嘆息してみせた。

「そう捻くれんでもよろしい。お前だって俺の弟なんだし、俺とは違っていろいろ気は利くし、うじうじ悩んだりしないし、良いところはいっぱいあるんだから……、これからだろ」

 あえて王や王子の信が厚い事を口にしなかったのは、ハルンのトラウマに触れないよう気を遣ったからである。ただ、そうした建前の理由とは別に、多少の嫉妬がなかったわけでもない。名実共に仲が良いように見えても、兄弟は血を分かち合ったライバルという側面もあるのだ。

「そりゃどうも」

 この時、バーブルは、ハルンの嫁候補としてエレナを推すべきかどうか迷った。こういう事は、ある程度成り行きに任せるべきで、他人が無理矢理お膳立てした場合、普通にやっていれば上手くいくものを、そうならなくなってしまうなんて事はあり得るのだ。

 とりあえず、あれこれ考えるのは戦を終えて帰ってきてからにすべきだろう。今はそんな事より、目の前の難題に神経を傾注しなければならぬ。ハスラードとの戦いは、恐らく短期間で終わるだろうが、戦は戦である以上、例えそれが勝ち戦に終わったとしても自分が無事に帰還できるとは限らない。死んでしまっては、今あれこれ考えても全く意味を成さないのだ。

「まあ、なんだ。とりあえず留守は任せたぞ」

「ああ、わかってるよ。何度も言わんでもいい」

「そうかい。じゃあ、お前の今後については戦から帰ったら、いろいろ考えてやるとするか。留守を守ってくれるお礼もあるし、それ以前にいろいろと世話にもなってきたからな。お前にも幸せになってほしいと、俺は本気で思っているんだぞ」

 我ながら何やらお節介極まりない事を口にしているという自覚はある。しかしこれは今の彼の偽らざる本心であり、本気で弟の為にいろいろしてあげたいと思っていたのだ。だが、そうされる事について、弟がどう思うか、感じるかについては、バーブルの思考の外にあった。

 事実、ハルンは不服そうな、あるいは不貞腐れたような顔をしていたが、口に出す事はなかった。バーブルもそれ以上は何も言わなかった。


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