閑話 侍女と主の記憶
サラは王太子妃付きの専属侍女であり、令嬢時代からエリナの傍にいたことで、誰よりも王太子妃の信用を得ているとされる人間だ。それはサラ自身もわかっているし、今のサラにとって最も誇れることでもある。ただ、王太子妃付きとはいっても王太子自身とはさほど関わりはない。エリナを通じてしか会話をしたこともなければ、エリナがいない時に話すこともほとんどない。挨拶などは当然あるし、業務連絡のようなこともしている。だが、それだけだ。決して、親しいと呼べる関係ではなかった。
「あの、私に御用とは何でしょうか?」
「すまない、こんな夜分に」
「いえ、それは構わないのですが」
既に就寝時間を過ぎているとはいっても、サラが眠る時間にはまだ早い。それはよいのだが、どうしてここに王太子がいるのだろう。シャツにカーディガンを羽織ったというラフな格好で腕を組みながら窓枠に腰かける姿は、絵になるとは思う。月明りに照らされた金色の髪が透き通っているようにも見えて、幻想的だ。確かエリナがそう言っていた気がする。と半ば現実逃避気味なことを考えながら、サラは同席しているイースラへと顔を向けた。イースラは、首を横に振る。事情は知らないということらしい。
王太子、アルヴィスがサラに要件がある。それは間違いなく、エリナに関することだ。それ以外には考えられないし、あり得ない。個人的に話すようなことはない。けれど、主の想い人と主が知らない場で会うというのは思いの外、緊張するらしい。
「私に用があるというのは、エリナ様のことですよね」
「あぁ。サラに聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと、ですか?」
こんな夜分に。わざわざ、呼びだしてまですることだろうか。サラは口に出さなかったが、アルヴィスにはお見通しだったようでもう一度「すまない」と謝罪をされてしまった。謝罪よりも、その理由を先に聞かせてもらいたいものだ。
「昼間は、サラにも仕事があるし、下手に呼びだすわけにもいかない。俺もそうそう時間が取れるわけじゃないしな。それに、そうするとエリナも気にする。他の使用人たちの目もあるから、あまり目立つ行動もしたくない」
「それで、私がサラをわざわざ呼んだのです。ここなら王城や王太子宮よりも、色々と都合がいいですし」
人目に付きにくいし、勝手知ったる場所なのでアルヴィスがここにいることもバレにくい。イースラがいるなら、サラと二人きりというわけでもない。アルヴィスにとっては都合がいいということらしい。
「そうまでして、私にお聞きになりたいことがあるとは」
「サラが一番、エリナのことを知っているからな」
「それはもちろん、そうだと自負しております」
「……そう言い切るところが、ちょっとエドにも似てるよな、サラは」
アルヴィスの侍従であるエドワルドは、使用人たちの間ではかなりの変わり者で通っている。特に、ベルフィアス公爵家所縁ではない使用人たちからは。そんな相手と似ていると言われれば、嬉しくはない。けれど、他の人たちからみればアルヴィスに対するエドワルドの想いと、エリナに対するサラの想いは似ているとみられるのだろう。
アルヴィスは暗い空を見上げながら、ようやく本題に入ってくれた。
「エリナのことは、俺も近衛時代から多少は聞いていた。王太子となってからも、その辺りの情報は入ってきている」
所謂、令嬢としてどう振る舞っていたか。過去のエリナの評価をアルヴィスは耳にしているということだ。知識や礼儀作法、振る舞い方、学園での成績も態度も、令嬢たちからの評価、友人付き合いなど。他者からの情報は、嫌という程入ってきたと。
「アルヴィス様はエリナ様のことを率直にお尋ねにならなかったのは、そういうことだったのですか」
「まぁ聞く必要がなかったという方が正しいな」
アルヴィスから尋ねなくとも、余計な連中が耳に入れてくれたからだと。外側からの評価については、それでもう十分だった。だからこそ、あえて尋ねることはしなかったということらしい。
「それに俺がどう思うかは、俺自身が感じることで判断してきたつもりだ。エリナの外側での評価は、そのままエリナを示していることにはならなかったな」
「お嬢様は、胸の内を隠すことがお上手ですから。そうあるべきだと強く求められてもおりました」
サラ以外で、その心の想いを吐露することはなかった。いつだってあるべき姿を体現しようと努力してきた。その姿をサラは誰よりも知っている。だがきっとそれは、アルヴィスも同じだった。求められる姿を演じることに長けた二人だ。ゆえにお互いわかることもあるのだろう。
「ですが、それを知った上でアルヴィス殿下は何を」
「エリナは俺のことを知りたいと、ここにいる間色々と声をかけているらしい。いや、面白がってるのかわざわざ話題を提供してくる奴らもいるらしいから、エリナがというだけではないか。かなり複雑ではあるが……」
「そう思うところはやはり殿方ですね」
「まぁ……エリナが幼い頃から努力し続けてきたことを知っているからな。胸を張れるような過ごし方は、俺はしてこなかったし」
そういうことをエリナは気にする人ではない。単純に、知りたいだけだろう。サラに想い人はいないけれど、同じ女性としてそういう気持ちは理解できる。
「一度聞いてみたかった。君からみて、エリナがどういう風に過ごしていたのか。学園で、屋敷でどう思っていたのか」
「あの方と婚約していた頃のことですね?」
「過去のことだ。今更蒸し返してもどうこうなるわけじゃない。そもそもそれを知ったところで、意味がないということもわかっている。ただ、知っておきたい。エリナが辛いと思っていた時間があることを」
「殿下……」
詳しいことを聞いたわけではないが、アルヴィスには幼き頃にトラウマとなるような経験をしているということをエドワルドやエリナから聞いた。それに比べれば、エリナは己の苦しみも大したことではないと、そう言っていた。けれど、それは違う。辛いことも苦しいことも、他の誰かと比べることではない。それをアルヴィスはわかっている。しばしの静寂の後で、サラは覚悟を決めた。そして深く息を吸って吐き出す。
「お嬢様は、幼い頃から夢がありました。幼い貴族令嬢が抱く、幻想ともいえるものです。あの時、確かに最初こそそうなるのかもしれないと、お嬢様も感じていたことでしょう。仄かに描く想い。それは誰かを愛し愛されて、幸せになりたいという誰もが思い描くものです」
エリナの実家は、その幻想とは程遠い場所だった。ただ屋敷でもそれは大きな差はなかったかもしれない。厳しい母親、教育にはあまり関心を持たなかったが娘を殊更可愛がる父親と兄。どこか悲し気に離れている異母兄。可愛い我がままではまかり通らなかったこともあった。使用人にひどく当たることもあった。それはエリナの精いっぱいの抵抗だったと。
「使用人を叩いたこともありました。おそらくたまたま当たってしまったのでしょう。私もあの時は酷いと思いましたが、それ以上に叩いたお嬢様自身が驚いていたのを、私は忘れません。そうしてお嬢様が出ていかれて、私たちは必死で追いかけました」
エリナを見つけてきたのは、少し年上の侍女だった。その腕にエリナを抱いていた。汚れてはいたが、幸い怪我はなかった。だが、その日を境にしてエリナを見つけた侍女は屋敷を解雇され出て行ってしまった。
「お嬢様を怒鳴りつけたそうです。彼女は、曲がったことが嫌いな性質でしたから。きっと、お嬢様が後悔していることにも気が付いていたのでしょう。彼女が屋敷を出ていくとき、お嬢様は泣いておられました」
出ていく彼女に、エリナは縋りつくようにして引き留めた。目を真っ赤にして、必死に。
『行かないでっ。わたし、ちゃんとするから。もうぜったいいやなことなんてしないから』
『お嬢様、私は知っています。貴女が優しい子だって。だから約束してください』
『約束?』
『誰よりも素敵な淑女に、そして素敵な方と結婚して幸せになってください』
『できないよ、だって私我がままで』
『子どもは我がままなくらいでいいんです。だから……約束ですよ』
そういって彼女は笑顔で去っていった。それからエリナは少しずつ変わっていった。使用人に当たることもなくなった。何かを為すときに、一度立ち止まって考えるようになった。感情のまま意見をかざすのはよくないとそう思うようになったらしい。サラが専属として傍にいるようになったのは、婚約してしばらくだった。
「最初は、お二人とも良好な関係だったと思います。お嬢様も、憧れに似たような感情を持って接していました。覆ることがない以上、他の殿方に懸想をするわけにはいきませんから。そうあればいいと願っていたのだと」
ジラルド王子が好きだったわけではない。でもそうなりたいとは考えていた。好かれるように、相応しくあれるようにと努力を続けた。贈り物が減っても、手紙が代筆となっても、気づいていながらもエリナは気づかないふりをしていた。それが逆効果だったのかもしれない。お互い、関心がないように見えていた。少なくとも、ジラルド王子側からすればそうだった。
「私は、何度かお嬢様に尋ねました。本当にいいのかと。このままで、お嬢様が本当に幸せになれるとは考えられませんでした。あの頃から、彼女との約束もあってお嬢様は変わられた。優しくて、他人を気遣うこともできる貴族としてだけでなく、人として大きく成長されたのです。それを、あんな人になんて」
サラはジラルド王子が嫌いだ。断言できる。エリナの苦労も知らず、どれだけ泣いていたのかも知らずにあのような仕打ち。既に二年が経っても、サラの中から忘れ去られることはない。怒りが湧いて思わず拳を握りしめていると、隣にイースラがやってきてサラの拳に両手を添えた。
「落ち着きなさい。サラ、貴女の想いはよくわかるわ。だって、私も正直あの人嫌いだもの」
「イースラさん」
「無駄にスペックを持って生まれたけど、ただそれだけで努力をしない人だったし。素地があっても、それを生かすことができないなら、無駄なのよね。本当に」
「そうなんです。お嬢様を、学しか能がないとか言ってましたけど、それすらないお前が言うなっていうんですよ!」
「学どころか、芸すら怪しいものだわ。武も皆無で、日頃何やってたのか不思議でたまらないのよ」
「会議とか言って、きっとだらけて遊んでただけです。一緒に居た人たちだって、成績がどんどん落ちて行って、他の学生たちも呆れてました」
イースラがうんうんと何度も頷いてくれる。サラはここぞとばかりに、吐き出した。エリナの前ではいわなかったが、サラは何度も切れかかっていた。エリナが我慢しているのに、サラが堪えないわけにはいかないと。自制をしてきたのだが、イースラが賛同してくれたことで思わずタガが外れてしまったらしい。
ふと冷静になってアルヴィスの方へ顔を向けると、アルヴィスは呆れたような顔でイースラとサラを見ていた。
「も、申し訳ありません」
「いやいい……まぁなんだ、俺達の周りは随分とあいつに不満を持っている者が多いんだな」
「何を当たり前のことを仰るんですか」
「……イースラ、お前はもう少し自重しろ」
「別に構いませんよ。あとでエドと愚痴るだけですから」
諦めたように肩を落とすアルヴィスだったが、イースラはむしろ楽しそうだった。主と使用人という関係であるアルヴィスとイースラだが、幼馴染ということもあって侍女たちの中でもイースラは特殊だ。言いたいことが言える間柄であり、何だかんだとアルヴィスはエドワルドとイースラの言葉には弱い。この三人の絆は、サラが想っているよりも固いものなのだろう。だが……。
「私とエリナ様の絆だって、負けませんからね」
アルヴィスとエリナが夫婦となっても、エリナとサラの絆は終わらない。この先もずっとサラはエリナの傍にいるつもりなのだから。




