9話
ベルフィアス家滞在時の部屋は、来賓に用意されていた部屋だった。アルヴィスの自室もまだ残されているものの、その部屋にエリナと二人で滞在するにはやや手狭であると。
「アルヴィス様、お願いがあるのですけど……」
「どうした?」
「もしよろしければ、アルヴィス様のお部屋を見に行ってもいいでしょうか?」
「……」
最後にここへ来たのは随分と前だ。当然、手入れはされているだろうし、部屋を使ったところで問題はないだろう。ただ、何となく躊躇う気持ちになってしまうのは、あの部屋を使っていた頃の自分があまりに情けなかったからだ。
「エリナが興味を引かれるようなものはないと思うが、それでもいいなら」
「はい!」
やや被せる形で返答をしたエリナは、満面の笑みだ。本当に何もない部屋だったと思うけれど、エリナが望むのならばとアルヴィスは自室へと向かった。
用意された部屋は屋敷の西側の棟、二階の奥。そしてアルヴィスの自室は東棟にあった。
この屋敷は西棟が来賓たちの部屋やサロン、パーティーなどに使われる大広間など対外的に使われるものが多く配置されている。西棟と東棟は途中エントランスを通って行き来が可能だ。もちろん、その行き来を塞ぐことも出来るが、今は開かれていた。東棟はベルフィアス一家の生活空間。ここに一歩足を踏み入れるだけで懐かしさを覚える。そうしてアルヴィスは二階にある一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここですか?」
「あぁ。あっちの反対側にある部屋は兄上の。その手前にあったのは父上の書斎だ」
この廊下の奥にある階段は三階。その上の四階は使用人たちの部屋がある。ベルフィアス家は四階まであるが、ベルフィアス家の人間は四階には足を運ばない。そこは使用人たちの領域であるため、如何に主人一家であっても立ち入るのは禁じられている。だからどういう構図になっているのかは、実を言うとアルヴィスは知らないのだ。
「そうなのですね」
「リトアード公爵家ではそういうことはなかったか?」
「はい。使用人たちの部屋はありましたが、特別行くなとも言われませんでした。行ったことはありませんが」
「そうか」
話をしながらアルヴィスはドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっていない。そのまま扉を開けて部屋の中に入る。
「ここがアルヴィス様の」
「あぁ」
机にたくさんの書物を収めた本棚。そしてベッドとソファーに丸いテーブルが置いてある。
「何となくですが、アルヴィス様のお部屋だという雰囲気は同じなのですね」
「そうか?」
「はい。アルヴィス様はあまり物を置かれませんし、書物が多いところとか机の上にも何も置かれないところとか」
殺風景とまでは言わないものの、人がいた気配が感じられるような部屋ではない。この部屋に入っても、アルヴィスは懐かしいというよりも、こんな部屋だったなと感じただけだ。屋敷内以上に、どことなく他人事のように感じてしまう。
「綺麗な机ですね」
「……まぁ家庭教師が来た時くらいしか使わなかったからな」
「え?」
「俺にとって学ぶことは、単純に覚えればいいというものじゃなかった。公爵家や王家の血を引く上で必要なことを、決して兄上より力を得ない様に注意しながら学ぶ必要があった。当たり障りない程度がどこまでなのかを探って……そういう面倒なことを考えていた」
興味を引かれたとしても教師に聞いたりはしなかった。知りたければ自分で調べる。その結果は己だけが知っていればいい。だから形として残すこともしない。こればかりは運が良かったのだろう。下地があった所為なのかはわからないが、形としてなくても見知ったことを忘れることはなかった。
「アルヴィス様」
「兄上は優秀だったし、きっと俺より重圧もあったと思う。母親が違うというだけじゃなくて、兄上は父上が婚姻する前の子どもだったから。だから余計に結果を出さなければならなかった。父の為にも、兄上を後継にと押していた母上の為にも。俺がいなければ、たぶん兄上はもっと楽だったはずだなんだ。幼い頃から、俺はずっとそう思っていた」
だから勉強をしている姿は家庭教師がいる時だけしか見せなかったし、書物だって読んでる姿は見せなかった。何かを欲しいと強請ったこともほとんどない。そう話すと、エリナはどこか悲し気にアルヴィスを見上げていた。その頭を撫でながらアルヴィスは笑みを向ける。全て過去の話だ。
「でもここにはたくさんの書物がありますよね」
「これはエドが頼んだんだ」
「ハスワーク卿が?」
「俺が欲しいと言ったことは一度もないけど、あいつはたぶん知っていたんだろう。俺が何を求めているのか」
アルヴィスは本棚の前に立って、そこに在る書物を何気なく手に取る。何度か読み返した跡があり、これを読んだのは一度ではないことは誰の目にも明らかだ。歴史書も兵法書も、ここには色々な書物が収められている。時間があれば、アルヴィスは夜中に読んでいた。
「父上は、俺が何も言わないのを知っていた。だが俺が何をしているかも、何を思っているかも知らなかったはずだ。けど、エドは違う。あいつは俺の為に、本当に小さい頃から動いてくれていた」
「なんだか想像ができます」
「当初は鬱陶しかったんだけどな、ほんと。それに、父たちもエドの話は聞くから余計にな」
エドワルドが悪いわけじゃない。エドワルドとてラクウェルに直接話をしていたわけじゃないだろう。自分の両親を頼って、そこからラクウェルにつなげた可能性の方が高い。それでも当時のアルヴィスにそこまでの想像力はなかった。
「私、意外だったのです」
「エリナ?」
ポツリとエリナが言葉を漏らす。アルヴィスは書物に向けていた視線をエリナへと向けた。
「閣下も夫人も、アルヴィス様を本当に大切に想っているのはわかっています。だから、どうしてアルヴィス様がそこまでこの家を、ベルフィアス家の皆様と距離があるのか」
「……」
「とても仲の良いご家族だと思っています。だからこそ、どうしてなのか。それが私には……」
「エリナから見えている姿は偽りじゃない。それも事実だ」
仲が良い。それを今は否定しない。アルヴィスとて疎まれていたわけじゃない。誕生日の祝いも食事の団欒も共にいた。それでも、アルヴィスは幼い頃に両親が傍に居た記憶がほとんどない。いないことが当たり前だった。それが変わったのは、例の事件のあと。そう、あの頃から変わった気がする。突然ではなく徐々に。両親が傍にいると感じることが増えた。
「そういえば、どうしてあの頃からだったんだ……?」
「アルヴィス様?」
書物を棚に戻しながら、アルヴィスはふと思う。そして次にその脳裏に過ったのは不安だった。あの事件を、その真相をどこまで両親は知っているのだろう、と。




