1話 方舟エリシュオン
星々は、人類にとって希望だった。
しかし同時に、恐怖でもあった。
遥か昔。
人類は故郷である母星アレンスターを旅立った。
何隻もの巨大な方舟に文明を積み込み、数億人もの人々が銀河へと散っていった。
新天地を求めて。
生き残るために。
しかし、その旅路には常に「ネメシス」の存在があった。
知性も意思も持たない。
それでも、人類だけを追い続ける高次元生命体。
幾隻もの方舟が沈み、幾つもの文明が滅んだ。
それでも、人類は歩みを止めなかった。
生きるために。
未来をつかむために。
そして今。
その長い旅路の途中に、一つの巨大な方舟が存在していた。
方舟エリシュオン。
全長数百キロにも及ぶ巨大な宇宙都市。
そこには数百万人もの人々が暮らし、学校があり、病院があり、工場があり、農業区画があり、そして青空まであった。
人工太陽が昇り、人工の風が吹き、人工の雲が空を流れる。
人々は笑い、働き、恋をし、子供を育てる。
誰もが、この場所を一つの世界として生きていた。
ネメシスとの戦争が続いていることを除けば。
エリシュオンは、平和だった。
――この日までは。
◇
青空。
白い雲。
心地よい風。
そして、芝生。
レオン・アークライトは、その芝生の上に大の字になって寝転がっていた。
空を横切る一隻の輸送船を眺めながら、大きく息を吐く。
「今日もいい天気だなぁ……」
呟く。
人工の空。
人工の太陽。
人工の風。
それでも、レオンにとっては本物と何も変わらなかった。
少なくとも、ここで暮らしている限りは。
「また授業をさぼってる」
頭上から声が降ってきた。
「うわっ」
レオンが顔を上げる。
そこには、一人の少女が立っていた。
肩まで伸びた桃色の髪。
透き通るような肌。
どこか儚げで、それでいて穏やかな笑顔。
リア・ミークス。
レオンの幼なじみだった。
「違うって」
「何が?」
「さぼってない」
「じゃあ、何してるの?」
「昼休み」
「まだ始まってないよ」
「……」
レオンは時計を見る。
「あと三分」
「それをさぼってるって言うんだよ」
「細かいなぁ」
リアは呆れたように笑った。
そして、レオンの隣に腰を下ろす。
二人はしばらく何も話さなかった。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くで子供たちの声がする。
上空では輸送船がゆっくりと航行している。
何の変哲もない昼休みだった。
「ねぇ、レオン」
「ん?」
「卒業したら、本当に宇宙へ行くの?」
「もちろん」
レオンは即答した。
そして勢いよく上半身を起こす。
「俺は宇宙冒険家になる!」
「冒険家?」
「そう!」
レオンは空を指差した。
「エリシュオンの外へ出て、まだ誰も行ったことのない惑星を探すんだ」
「ネメシスがいるのに?」
「だからこそだよ」
「危ないよ」
「危なくない冒険なんて冒険じゃないだろ?」
得意げに笑う。
「新しい惑星を見つけて、新しい文明を見つけて、銀河の果てまで行く」
「……銀河の果てって、どこ?」
「それは行ってみないと分からない」
「レオンらしいね」
リアは笑った。
その横顔を見ながら、レオンも笑う。
「リアも来るだろ?」
「私?」
「ああ」
「私も宇宙へ?」
「約束しただろ」
リアは少しだけ目を伏せた。
「……うん」
「じゃあ決まりだ」
レオンが手を差し出す。
リアは一瞬だけ迷い、それから自分の手を重ねた。
二人が幼い頃から続けている約束の合図。
「約束」
「約束」
リアは微笑んだ。
その笑顔を見て、レオンは何も疑わなかった。
それが普通だったからだ。
彼女はいつも隣にいる。
一緒に学校へ行き、一緒に帰り、一緒に笑う。
それだけだった。
だから――
この少女が、自分の知っている「人間」とは少し異なる存在だなど。
レオンは夢にも思わなかった。
◇
午後。
エリシュオン士官学院・整備科。
巨大な実習格納庫には、訓練用アークフレームが並んでいた。
全高十メートルを超える人型機動兵器。
人類がネメシスと戦うために生み出した兵器。
かつて通常兵器がまったく通用しなかったネメシスに対抗するため、人類はエーテルリアクターを動力源とするアークフレームを開発した。
レオンはその機体の脚部装甲を外し、内部を覗き込んでいた。
「そこじゃない」
教官の声が飛ぶ。
「はい?」
「故障箇所を探す時は、目に見える部分から疑ってはいけない」
「……はい」
レオンはもう一度内部を見る。
配線。
制御系。
エーテル回路。
駆動系。
しばらく考えた後、一本の配線を指差した。
「ここです」
「理由は?」
「計器が微妙に不安定です」
教官が眉を上げた。
「よく見つけたな」
「たまたまです」
「その『たまたま』を十回続けられたら一人前だ」
周囲の学生たちから笑い声が上がる。
「またレオンか」
「機械だけは妙に得意だよな」
「本人は宇宙冒険家になるらしいぞ」
「整備士じゃないのか?」
「両方やるんだよ」
レオンは笑いながら工具を置いた。
「宇宙船を自分で直せる冒険家って最高だろ?」
「まずは卒業しろ」
教官が即答した。
「それが先だ」
「はい……」
格納庫に笑い声が響く。
その時だった。
奥の格納区画から、大きな駆動音が響いた。
ウィィィン……。
学生たちが一斉に振り返る。
「何だ?」
「搬入か?」
巨大な隔壁が開く。
その奥から、一機のアークフレームが姿を現した。
赤。
鮮烈な赤い装甲。
異形の人型フレーム。
通常の訓練機とは明らかに異なる。
各部が解放された機体構造。
異様なまでに洗練された脚部。
そして胸部に埋め込まれた特殊なリアクター。
「新型か?」
「いや……試験機らしい」
「どこの機体だ?」
ざわめきが広がる。
レオンも機体を見上げた。
なぜか、目が離せない。
胸の奥がざわついた。
「……何だ、これ」
その機体は、ただそこに立っているだけだった。
なのに。
まるでこちらを見ているような気がした。
「レオン?」
リアの声。
「どうしたの?」
「いや……」
レオンは首を振った。
「何でもない」
赤い機体は、そのまま格納庫の奥へ消えていった。
レオンはしばらく、その後ろ姿を見つめていた。
そして、なぜか一つだけ思った。
――あの機体には、まだ何か隠されている。
◇
放課後。
学院の展望デッキ。
エリシュオンの都市が一望できる。
巨大なビル群。
宙を走る交通艇。
農業区画に広がる緑。
人工湖。
そして、遠くに見える巨大な宇宙港。
空には夕焼けが広がっていた。
「綺麗……」
リアが呟く。
「なぁ」
レオンが言った。
「いつか、ここから出ようと思う。
もっと広い世界が見たい。宇宙の向こう側へまで」
リアは答えなかった。
ただ、静かにレオンの隣に立っていた。
「リア?」
「……ねぇ、レオン」
「ん?」
「もし、私がいなくなったら」
「え?」
リアは少しだけ笑った。
「ううん。何でもない」
「大丈夫か」
「ごめん」
リアは空を見上げた。
人工太陽が沈んでいく。
赤い光が街を染めている。
それは、本物の夕焼けと変わらないほど美しかった。
「約束だからね」
「何が?」
「宇宙」
リアはレオンを見る。
「一緒に行く」
レオンは笑った。
「あぁ、当然だろ」
二人は並んで歩き出した。
平和な一日。
いつもと同じ一日。
誰も知らない。
この平穏が、もう長くは続かないことを。
◇
同じ頃。
エリシュオン第七ドック。
都市部から離れた整備区画。
夜間照明だけが薄暗い通路を照らしていた。
整備員たちは帰宅し、貨物搬入口も閉じられている。
静寂。
その中を――
一人の少年が歩いていた。
レオン・アークライト。
……に、よく似ていた。
しかし。
違う。
歩き方。
姿勢。
表情。
何より、その目。
人間らしい感情がなかった。
少年は監視カメラの前を通り過ぎる。
カメラが、その姿を追う。
電子音。
認証処理。
そして――
画面に表示される。
レオン・アークライト。
登録データと一致。
生命構造――判定不能
監視システムは何の疑問も抱かなかった。
少年は第七ドックの奥へ進んでいく。
やがて、一つの整備室の前で足を止めた。
扉を開く。
「……レオン?」
中にいた整備士が振り返る。
見知った顔。
学院の学生。
そう思った。
「こんな時間にどうした?」
少年は答えない。
ただ、整備士を見つめていた。
「……?」
その瞬間。
監視カメラの映像が乱れた。
ノイズ。
砂嵐。
映像が一瞬だけ黒くなる。
そして――
画面が復帰した時。
整備室の扉は閉じていた。
誰も出てこない。
数秒。
十秒。
やがて。
警報が鳴った。
――第七ドック、生命反応異常。
それが。
方舟エリシュオンを揺るがす最初の事件だった。
◇
警報が鳴り響く。
エリシュオン全域に、抑揚のない機械音声が反響した。
「繰り返します。第七ドックにて生命反応異常を検知。関係者以外の立ち入りを禁止します」
夜間整備区画に、幾つもの足音が重なっていく。
閉ざされていた整備室の扉が、外部から強制的にこじ開けられた。
中は、静まり返っていた。
工具が床に散らばっている。
壁には、何かが擦れたような跡が一筋、残されていた。
しかし。
そこにいるはずの整備士の姿は、どこにもなかった。
「……いない、だと?」
警備員の一人が、低く呟く。
「監視映像は」
「巻き戻しています」
モニターに映像が流れる。
整備室へと入っていく、一人の少年。
レオン・アークライトと、寸分違わぬ顔。
だが。
扉が閉じたあとの映像には、砂嵐のようなノイズしか残されていなかった。
「本人に確認を」
「今、寮へ向かわせています」
誰も、その意味に気づいていなかった。
もう一人の「レオン」が、この方舟のどこかに存在しているという意味に。
◇
朝。
レオンは、扉を叩く音で目を覚ました。
「レオン・アークライト。保安部の者だ。開けてくれ」
寝ぼけたまま、扉を開ける。
立っていたのは、見覚えのない制服の男が二人。
「え、な、何ですか……?」
「昨夜、二十三時から二十三時三十分。どこにいた」
「……寝てましたけど」
「証明できる人間は」
「ルームメイトが……あ、寮母さんも見回りに来てたはずです」
男たちは、顔を見合わせた。
「昨夜、第七ドックの監視映像に、君の姿が記録されている」
「はぁ?」
レオンの声が裏返る。
「そんなの、俺じゃないです! ずっと寝てましたって!」
「現時点の記録では、君だ」
「だから、違うって言ってるじゃないですか!」
声が、廊下に響いた。
扉の隙間から、他の部屋の学生たちが顔を出す。
ざわめきが、じわりと広がっていく。
「……とにかく、しばらくの間、行動を制限させてもらう」
それだけ言って、男たちは去っていった。
レオンは、その場で立ち尽くした。
わけが、分からなかった。
自分が、自分でない何かに置き換えられている。
そんな感覚だけが、胸の奥に、冷たく残っていた。
騒ぎに駆けつけたリアの姿が視界に映った。
「リア」
「……うん」
「昨日の話、聞いたか」
「聞いた」
「俺じゃないんだ、あれ」
「知ってる」
即答だった。
迷いも、驚きもなかった。
「……何で、そんなに簡単に言えるんだよ」
「え?」
「普通は疑うだろ。映像まであるのに、迷いもせず『知ってる』なんて」
リアは、まっすぐにレオンを見た。
その瞳の奥で、何かが一瞬だけ揺れた。
人間らしくない、静かすぎる何かが。
「レオンは、レオンだから」
それだけ言って、リアは目を伏せた。
「それだけだよ」
教室の音が静まり返る。
――何か、知っている。
根拠のない確信だけが、胸の奥に居座った。
「もし、私がいなくなったら」
昨日、リアが言いかけてやめた言葉が、不意に蘇る。
その続きを、レオンはまだ、聞いていなかった。




