エピローグ:不浄の村
――ヨクアール王国 最北の村
北の空を覆う分厚い雲。雲間から漏れる日の光。ぼんやりと照らされる、しおれた草原。一帯を吹きすさぶ風は、かすかに黒く淀んでいた。
「ごほっ、ごほっ……」
後ろで髪を留めた村娘エマ。時折乾いた咳をしながらも、歩みはしっかりしていた。
「あらエマちゃん、今日は良いの?」
「はい、お手伝いさせてください」
「ええ、頼んだわよ」
ここしばらく土地は乾き、痩せた作物しか実らない。それでも生きるため、草をむしり、土を耕していく。
額に汗がにじむ頃、日の光は厚い雲に隠れてしまった。
エマはぶるりと身体を震わせ、ふらりとよろめいた。
「あっ……」
そのまま座り込むエマに、農家の女性が心配そうに駆け寄ってくる。
「ちょっと大丈夫?」
「ご、ごめんなさい」
「良いのよ、無理しないで」
エマは女性の手を借りながら立ち上がると、“こほん”と咳をした。
「最近空気も悪いし、大事なさい」
「ありがとうございます」
エマは申し訳ないと思いつつも、女性の好意を受け、家路についた。
村が見えてきた頃、エマに呼びかける声。
「エマ、今から帰るのか?」
「兄さん!」
エマは振り返るやいなや駆け寄り、兄のジムに抱きついた。
「おいおい、いつまで経っても甘えん坊だな」
「いつまで経っても帰って来ない兄さんが悪いわ」
「ははっ、それは悪かった」
ジムの手に触れる長い髪。膨らませた頬を赤く染めるエマ。二人は横並びになると、村へと向かった。
「おお、帰ったかジム」
「ああ、今戻った」
ジムとエマが村に入ると、幼馴染のガイと鉢合わせた。
「エマもお疲れさんだな」
ガイの大きな手がエマの頭を撫でる。ぶっきらぼうな仕草に、エマは困り顔ではあったが、まんざらでもないようだった。
微笑ましいやり取りをよそに、ジムが口を開く。
「狩りは順調か?」
「いや、全然ダメだ」
ジムの視線がガイの背に向けられる。短弓と矢でいっぱいの矢筒が、落ち気味の肩にかかっていた。
「獲れなかった、というわけではなさそうだな」
「ああ、ウサギどころか、ネズミ一匹いやしない」
ガイは溜息を吐くと、ちらりとジムを見た。
「お前はどうだった?」
「ああ、手紙は受け取ってもらえたよ」
「おお! わざわざ王都まで出向いたかいがあったな」
「そう、だな」
歯切れの悪いジムに、ガイの眉間にシワが寄る。
「首尾は順調なんだろ?」
「王国騎士団が動くには、時間がかかるらしい」
「それは、どれくらいなんだ?」
「わからない」
唸り声を上げるガイ。ジムは乾いた笑みを浮かべ、ガイの肩を軽く叩いた。
「きっと上手くいく」
「……おう」
三人が村に入ると、エプロン姿の女性がジムに声をかけてきた。
「あ、村長代理!」
小走りで駆け寄るのは、ジムの幼馴染ミラ。苦い顔をしたジムが口を開いた。
「その呼び方はやめろ」
「だってそうじゃない。ねえ? エマちゃん」
“ふふっ”と笑みを浮かべるエマ。釣られて顔が綻ぶミラ。ジムの表情だけは苦みが消えていなかった。
「父さんは直ぐに良くなる。今は少し休んでいるだけだ」
「それって、お貴族様たちと話はついたってことかい?」
ジムは時間がかかると伝えると、ミラはあからさまに不快な表情を見せる。
「もう! こっちは急いでいるのに!」
「何かあったのか?」
「井戸の水がね、淀んできたのよ」
ぴんと張り詰める空気。
ジムは一つ頷き、ミラを見つめた。
「この村も王国の一つだ。きっと手を貸してくれるさ」
ミラの視線がそっと落ちる。
「そうだと良いけど……」
彼女の不機嫌な声は、静まり返った村に溶け込んでいった。
✽ ✽ ✽
北の空を覆う影。今時期、さんさんと照りつけるはずの日の光は、そのシルエットすらない。
ぽんやりと薄暗い草原には、ずるりずるりと、黒い“何か”が這っている。
それは、確実に村へと向かっていた。
「く、来るな! こっちに来るな!!」
「逃げろ! 走れ!!」
「誰かぁ! たすけ――」
逃げ惑う人の悲鳴と喚声。
黒い“何か”は村に達した。触れたもの全て、形を失っていく。家であれ、人であれ。例外はない。
めきめきと音を立て、倒壊していく邸宅。崩れ落ちる寸前、二人の兄妹が飛び出して来た。
「だいじょうぶか、エマ」
微かに震えるジムの声。腕に抱かれたエマが、もぞりと動く。
「兄さん、その目」
「これぐらい、なんともない」
ジムの左目から流れる一筋の血。ぎこちなく笑らうジムの頬を赤く染めていた。
「それより、父さんと母さんは?」
目を潤ませるエマ。腫れぼったいまぶたを濡らし、ただ首を振っていた。
ジムは思わず振り返ると村長邸は、黒く形を失いつつあった。
「ジム! 無事か!?」
大声で呼ぶのはガイ。ミラを伴い駆け寄ってきた。
「エマちゃんも無事ね? ……って、あんた、その目」
痛々しげな表情のガイとミラ。ジムは精一杯の笑みを浮かべ、口を開いた。
「他のみんなは?」
「さあな……」
ガイの視線が逸れる。拳を強く握り、肩を震わせながら。隣にいたミラも、何も語ろうとはしなかった。
その様子を静かに見ていたジムは、ぼそりと呟いた。
「ここを出よう」
四人は村の広場に行き着いた。
普段は往来する村人で賑わっているが、人の姿どころか声すら聞こえない。
「静かだな」
「そうね」
辺りを見渡すガイとミラの表情は暗い。
「遅かったか」
ジムの視線の先、村の入口まで黒く染まり、ずるりずるりと蠢き迫ってくる。
後退りするミラがよろめいた。
「あっ……」
「おっと」
とっさにミラの肩を抱くガイ。ミラは礼も言わず、そのまま身体を預けていた。
ジムは振り返るが、今来た道も既に形を失っていた。自然とエマの手を握る力が強くなる。
「兄さん?」
エマが見上げたジムの顔からは、すっかり感情が失せていた。明るく強い兄は、そこにはなかった。
エマはジムの手を取り、やさしくほどいていく。
「エマ?」
驚いた表情のジムをよそに、にこりと笑みを浮かべるエマ。
そのまま一歩、また一歩と、歩みを進める。
三人の喚く声を背中で聞きながらエマは、強く願った――
「私が、みんなを守る」
皆の視界が、白い“何か”に満たされた。
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