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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像19

その数日後ー。初冬を告げる遠雷がフィレンツェの街中に響き渡る午後のことだった。

「ベアトリーチェ様、た、大変でございます!」

乳母の緊迫した声で、ベアトリーチェは長椅子でのうたた寝から引き戻された。

「お目覚め下さい。ただいま、東方のお客様の部屋に賊が忍び込み、お見舞いなされていた兄君様が、ジョヴァンニ様がお怪我をなされたそうにございますよ!!」

マリーアの指示通りに薬を与えているものの、倭文の容態は熱っぽく、頭痛や体の腫れなどであまり良好とは言い難かった。そのためにベアトリーチェもしばしば夜通し看病してその合間にこうやって束の間の眠りをとっていたのである。だが忙しさに紛れて”倭文の今後”を考えずにいられる分、ベアトリーチェは気が楽だった。しかし彼女の短い安らぎはこの瞬間までであった。

「お兄様、倭文は無事ですの!?」

とるものもとりあえず駆けつけたベアトリーチェであったが、彼女の兄は入ってきた妹を振り返るとたちまち、満面に不快の色を表した。

「ベアトリーチェ、そなた怪我をしている兄に一言もなく客人の心配か?ふん、思いやりのかけらもない、我が妹は」

ジョヴァンニの後には相変わらずマリーアが控えていて、手当てをしようと甲斐甲斐しく布や薬を取り出していた。

「ーー あら…」

思わず言葉に詰まったベアトリーチェに助け船を出すように寝台の上から倭文が言葉を継いだ。

「私は大丈夫だよ、ベアトリーチェ。ジョヴァンニ殿が身を呈して庇って下さったのだ。君からもお礼を申し上げておくれ」

「ジョヴァンニお兄様、どうもありがとう!大好きよ!」

ベアトリーチェは兄に飛びつくと、その右側の頬に薔薇色の唇で軽く触れた。

「痛ッーー!!」

腕に手をかけられてジョヴァンニは思わず顔をしかめた。破れた服の表面に鮮血が新たに滲んだ。ベアトリーチェは動転して兄の腕を取った。

「ごめんなさい、ジョヴァンニお兄様!まぁどうしましょう、こんなに血がー」

ジョヴァンニは腕を持たれたままじっと妹の横顔を見ていたが、突然何を思ったか怪我をしていない方の腕を妹の白い(あぎと)に伸ばした。

「兄とはつまらぬものよ。このような天使を我がものにできぬとは…この瞳も、この頬も、唇もこんな間近にあるというのにー」

「お兄…様?」

稲妻が轟音と共に光り、ジョヴァンニの姿を浮かび上がらせた。ベアトリーチェが兄の目の中に何か禍々しいものを感じ取った時、その間にマリーアの声が割り込むように入ってきた。

「ジョヴァンニ」

僧形の貴公子は鋭い呼びかけで我に返り、声の主に視線を向けた。

「ーとにかく、これでここにいる限り、東方のお客人の命は保証できないということがはっきりしたでしょう?ヴェネツィアのドージェも自らの面目と国の威信がかかっているのですもの、やはりお客様には郊外の別荘にでも移って静養していただいてヴェネツィアの誤解を解くのが一番良いのではないかしら?」

「そうだな…」

「そんなっ!お兄様、それは無理ですわ、倭文はー」

「…そなたの気持ちはよくわかる、ベアトリーチェ…だがー」

ジョヴァンニは血の滲む腕を妹の目の前に差し出した。

「倭文殿の為だ。先刻とてひとつ間違えれば倭文殿がこうなっていたかもしれないのだぞ」

「嫌です!お兄様は私をヴェネツィアにやりたいから倭文を連れて行こうとなさるんでしょう、嫌ッ、絶対!!」

「私が…この私がお前をヴェネツィアにやりたいだと…誰だ?エッ、誰がそんなことをお前に吹き込んだ!?」

「……」

ベアトリーチェは滅多に見ない兄の剣幕に知らず言葉を飲み込んだ。日頃、口を開けば毒舌、嫌味が絶えず、口論が絶えない兄だが、根本的にはベアトリーチェを宝玉の如く思っているジョヴァンニである。他の者に当たることがあっても彼女にだけはせいぜい嫌味止まりなのが常のことであったのだが…。

「ジョヴァンニ、落ち着いてー興奮すると出血がひどくなるわ。ベアトリーチェ、あなたもよ。大事な妹が遠くに行ってしまうのをジョヴァンニが喜ぶはずがないわ。落ち着いて、必ず良いようになるから」

“私がそのようにするから”ジョヴァンニの後ろで頷いたマリーアの微笑はそう言っていた。

ベアトリーチェは尚も納得しかねるような様子で口を結んでいたが、しばらくして3兄妹の間に流れる重い沈黙は倭文によって破られた。

「ージョヴァンニ殿、メディチ家には何から何までお世話になり、大変心苦しくはありますが、何卒この浮草の願い、今一度お聞き届けいただけますか」

「何を?」

「この卑しき身、傷の癒えるしばしの間メディチ家の別荘の住人にしていただきたくー」

「倭文!何を言ってるの!?」

ベアトリーチェは目を見開き、倭文に駆け寄ってその手を取った。倭文の手はそれを握り返したものの、視線は不自然なほどまっすぐにジョヴァンニだけを見ていた。

「出て行って下さるか、このパラッツォ・メディチを」

「ーはいーー」

「おお、それならばそなたの命の保障もできよう。無論、高名な医師を遣わしてそなたの傷が1日も早く良くなるよう手配もしよう」

「ジョヴァンニお兄様ッ!!」

「いえ、そのようなお心遣いは無用でございます。ただ、この身がもう少し回復し、旅立てるようになるまでー」

「しかと承った。では2、3日中にも出立できるよう準備をしよう。倭文殿も明日をも知れぬ命では枕を高くして休むこともかなわぬだろうーでは失礼する」

腕の怪我をものともせず、足取り軽やかに退出したジョヴァンニを追ってマリーアも出て行ってしまうと、そこには呆然としたベアトリーチェと無表情な倭文だけが残された。

「ー倭文… あなた今、自分で何をおっしゃったのか分かっていて?別荘に移ったら私達会えなくなってしまうのよ。たぶんもう二度とー」

倭文の足元に座り込んだベアトリーチェは、フラフラとした足取りで膝に乗ってきた黒猫を撫でていた。細い指先が猫のあばらにふと当たる。ベアトリーチェはそれを撫でながらぼんやりと思った。

“こんな猫でさえ、 主人の具合が良くないと心配のあまり痩せ細ってしまうものなのかしら… だとしたら私はー?”

「…すまない……本当に君には謝ることしかできないけれどー私はそこまで私のことを思ってくれる人を失いたくはないんだよ。両親を失ってからずっと一人きりできたせいだろうね、私はとても臆病になっているらしいよ。ヴェネツィアからの刺客はこれで2度目だ。私が君から離れない限り、今後も必ず刺客は送られてくるだろう。そうなれば危害は必然的に私の最も側にいる君にも及ぶようになるに違いない。君だけじゃない。傷の手当てをして下さったマリーア姫や、盾になって私を守って下さったジョヴァンニ殿、何もわからぬ旅人を暖かく迎え入れて下さったロレンツォ殿にまで迷惑がかかるようになるだろう…私はーー人の許嫁を愛した男だからね、何度命を奪われても本望だけど、ただ君は…君だけは火の粉ひとつ、雨のしずくにも晒すようなことはしたくない」

「ーー倭文」

涙を浮かべたベアトリーチェがたまらなく愛しくなって倭文は力いっぱい抱きしめた。

「ああ 、ベアトリーチェ 。私は君を泣かせてばかりいるね。もしかすると私は君を不幸にするためにこの花の都にやってきたのかもしれない…けれど私は君と出会えてとても幸せだったのだよ」

「私もよ、倭文… 私だってあなたに負けないくらい幸せだわ」

ベアトリーチェは倭文の腕の中でしゃくりあげながら小さなため息をついた。

雷に一足遅れた雨が一段と激しく降ってきた。

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