ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像18
「マリーアお姉様、お薬どうもありがとうございました。倭文もお陰さまで気がつきましたのよ。あ、つい先ほどのことですけど…これからお父様にご報告に上がるつもり」
「そう、それは良かったことー」
倭文の回復がよほど嬉しいのだろう。いつもにもまして瞳を輝かせた異母妹を、マリーアは醒めた目で見遣っていた。
「でもベアトリーチェ……いえ」
マリーアは薬の入った小瓶を手渡しながら異母妹の顔を正面から覗き込んだ。だが、昼と夜の瞳が出会ったのも束の間、すぐにマリーアは視線を逸らせた。
「何ですの、お姉様?」
ベアトリーチェにしてみれば当然の疑問であった。しかしマリーアは骨張った手で口元を押さえたまま、いかにも口を滑らせてしまったという様子だった。
「…いえ、私は何ということをー倭文はようやく意識を取り戻したばかりだというのに、またあなたに新たな心労をかけてしまうところだった…主よ、お許し下さい。私の大事な妹に祝福を」
しかしベアトリーチェがそれで納得するはずもなかった。
「新たな心労って何ですの、お姉様?どうかおっしゃって」
「ああベアトリーチェ、私が悪かったわ。お願いだから忘れてちょうだい」
異母妹の視線を避けるようにマリーアは顔を扇で隠してしまった。それを見つめるベアトリーチェの柳眉がピクリと緊張に蠢いた。
「いいえ、どうぞおっしゃって、マリーアお姉様。でないと私、ここを動けませんわ。倭文のことなのでしょう。思ったより傷がひどいんですの?それともやはり矢に毒が」
「いいえっ!!…いいえ、そうではないわ」
「ではいったい…?」
畳みかけるような口調のベアトリーチェに、マリーアは観念したように扇を置いた。
「ー仕方がない…あなたに隠しておくともっと悪い方へ想像してしまいそうですもの、お話することにします。けれどこれは私の考えよ。あなたと倭文がどうするかはあくまでもあなた方の自由だわ」
「ーええ」
ベアトリーチェは朱唇を引き結んだまま、天の啓示でも受ける人のようにその場に立ち尽くしていた。
「ーあなたは確かミケランジェロから聞いたと言っていたわね、倭文に傷を負わせたのがヴェネツィアの者だったと…」
「…そう、ですわ。お姉様ー」
束の間、ベアトリーチェの瞳に弱いものが宿った。異母妹の心に生じた、わずかな隙をマリーアは見逃さなかった。
「だったらなぜ倭文を、このパラッツォ・メディチに置いておくの?ここにいたらヴェネツィアの手の者に討ってくれと手招きしているようなものではないの!」
「それはー倭文の出血がひどくて…動かせない状態でしたし、郊外の別荘で静養というのもかえって警備が手薄になって物騒でしょー」
「そうね、確かに今すぐ動かすというのはとても無理な話なのかもしれない。けれどそうしなければ1ヶ月、2ヶ月先にまた…いえ、ひょっとしたらヴェネツィアにとって今が最高の時なのかもしれなくてよ。狙うべき倭文が一歩も動けないのだもの、体裁など構わずすぐにでも…」
「…ではお姉様は一体どうしろとおっしゃるの!?お父様とお兄様にお願いして部屋の周りに見張りをつけたわ!食事も私が直接運んで一緒に取ります!毒が盛られることなどないように。これ以上どうしろと!?」
追い詰められた ベアトリーチェは悲鳴のような声を上げた。
「だから!!」
マリーアは強くベアトリーチェの肩を掴んで顔を覗き込んだ。
「だから…あるでしょう?1つだけ倭文を無事に救える方法が……ベアトリーチェ、倭文をこのフィレンツェから出て行かせるのよ。ヴェネツィアの目をくらませるにはこれしかないわ」
「出て…行かせる?倭文を……?」
意味を解さない呪文を聞いたようにベアトリーチェはゆっくりと繰り返した。
「そうーそうね。倭文はもともとこのフィレンツェにほんの少し留まった旅人ですもの…ね。でもー今はまだ無理ですわ…1か月、2ヶ月いえあの傷だったら半年ー」
「ベアトリーチェ」
「ーー…別れるの…倭文と?嫌よ、私、あの人と離れないわ。離れたくない……」
「ベアトリーチェ、落ち着いてー誰があなた達を引き離すと言って?あなた方は一緒にお行きなさいな」
「ーーー!?」
驚愕のあまり口を閉ざしてしまった ベアトリーチェにマリーアは事もなげに言葉を継いだ。その口調は昔、イブに林檎を食べるようにそそのかした蛇のように甘やかで快く響いた。
「私は最初口を開いた時からそのつもりだったの。メディチ家の娘としてヴェネツィアに嫁ぐのは確かにあなたの務めではあるけれど、大事な妹ですもの。幸せになって欲しい…お父様やジョヴァンニだって心の中ではきっとそう思っているはず…あなたがそれほど倭文を思っていることをお知りになれば許して下さるわ」
「ーでも……」
ためらうベアトリーチェにマリーアは驚いたように続けた。
「まさか、倭文を諦めるつもりでいたの? 私だったらそんなこと、思いつきもしなくてよ。女だったら愛する人といたいと思うのは当然のことですもの。あなたは違うの、ベアトリーチェ?」
「ーーー」
ベアトリーチェは口をつぐんだまま、マリーアの肩越しに宙を見つめていた。その瞳はフィレンツェの空を通り越し、遥かなるジパングへと飛んでいるかに見えた。




