ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像16
パラッツォ・メディチの門前が何やら騒がしくなったことに気がついたベアトリーチェは ふと胸騒ぎを感じて花を摘む手を止めた。
「どうしたの、ベアトリーチェ?」
ヤコポ・サルヴィアーティ夫人、ベアトリーチェにとっては長姉に当たるルクレツィアが末妹の異変に気づいて声をかけた。
「急いで花を摘まないと、狩りから戻った殿方達に振りかけることができなくてよ」
「誰かが戻ってきたようなのー蹄の音と人の声がしたわ…」
「あら、そう。コンテッシーナ、あなた何か聞こえて?」
「いいえ」
ピエロ・リドルフィ夫人、四姉のコンテッシーナは長姉の問いにしばし耳を澄ませたがやがて首を振りながら答えた。
「酒樽でも運び込まれたのじゃ なくて?皆が戻ってきたのなら先触れの使者やラッパがあるはずよ」
「それもそうね…あ、 ベアトリーチェ!」
花籠も置かずに駆け出したベアトリーチェを、姉達は驚きの眼差しで見送った。素直で従順だった末妹がまるで別人のようにールクレツィアとコンテッシーナはメディチ家に滞在している東方の客人のことは風の噂に聞いていたものの、他家に嫁いだこともあってその存在がベアトリーチェの胸中にどのような影を落としているかということまでは知る由もなかった。
中庭を駆け抜け、果たしてベアトリーチェが門前で見たものはー。
「倭文!!」
ベアトリーチェは花籠を投げ出し、群がる料理番の女達や馬番の男達を押しのけてその中心にいる恋人に駆け寄った。
倭文はーそんなベアトリーチェを抱きしめることもたしなめることもしなかった。正確にはできなかったのである。彼はその胸から滝のように鮮血を溢れ出させて青ざめ、横たわっていた。
「倭文…ひどいーどうしてこんな…」
鬱金色のドレスが鮮血に染まるのも構わずに、ベアトリーチェは跪いて力ない倭文の頭を抱き寄せた。
無償の愛というものが存在するのなら、それはおそらくこれに違いないー闇色の髪を散らして横たわる青年とそれを抱く陽の光の化身のような少女ー居合わせた人々はそこに、ジオットやボッティチェリの描く、清らかな美しい世界を見たような気がして雷に打たれたように黙り込んでしまった。
「嬢様ーリーチェ 嬢様!!」
しばらくして我に返ったミケランジェロは人々を掻き分けてベアトリーチェの元へ駆け寄り、事の経過を説明し始めた。
狩りが始まってしばらくした頃、ジョヴァンニと共にいた倭文にいきなり茂みの陰から矢が放たれたこと。側にいたジョヴァンニが倭文の胸から矢を引き抜いたこと。この出来事に皆が動揺したため、ジョヴァンニ達も早々に狩りを切り上げて間もなく帰ってくるであろうこと。
「なぜジョヴァンニ兄様は倭文から矢をお抜きになったの?矢傷は抜くとひどい出血をするということぐらい私にでさえわかるというのにーまさか、お兄様…」
「いえ、それがどうにも抜かなくちゃならないわけが……」
「毒でも塗ってあったの!」
倭文よりも青ざめた顔色のベアトリーチェを励ますように、ミケランジェロはその瞳を覗きき込むと彼女に耳打ちをしたのだった。
「実は…倭文様を傷つけた矢には羽の生えたライオンの紋章がー小さなものでしたけれど目ざとい輩も多いことですし、それでジョヴァンニ様も仕方なく…」
「羽の生えた…?グリフォンーヴェネツィアの紋章?」
ベアトリーチェの視線を受け止めてミケランジェロは頷いた。しかし次の瞬間、彼はすでに全く別の事を口にしていた。 あるいはミケランジェロもベアトリーチェもヴェネツィアという言葉の持つ、不吉な意味を理解することを避けたかったのかもしれない。
ヴェネツィアの矢が倭文を傷つけるーそれは取りも直さずベアトリーチェと倭文の仲がヴェネツィアの許嫁、マルコ・ハヴァイヤット・カペッロに伝わった事を意味する。
それにしてもーとミケランジェロは首をひねった。
『いくら許嫁と恋仲の男を討つという正当な理由があるにしても、堂々とヴェネツィアの名乗りを上げるような真似をしてメディチ家の向こうを張るなんてヴェネツィアのドージェも 随分挑戦的な男なんだな。君主としちゃちょっと軽はずみなんじゃ?ま、まだ若いって聞いたし、ずいぶん負けん気の強い御方らしいから』
「と、とにかくリーチェ嬢様、倭文様をお部屋にお運びしましょうよ。医者に見せなりゃ」
「あ…そ、そうね。でもどうしましょう。お医者様来て下さらないわ 。兄様が」
抱き上げられた倭文を心配そうに覗き込んで、ベアトリーチェの青い瞳に新たな涙が浮かんだ時、人垣の向こうから陰気な声が聞こえた。
「私が手当をするわ、ベアトリーチェ」
畏怖と好奇の囁きの中からマリーアが姿を現した 。
「…マリーアお姉様ー」
「おやめなさい、嬢様」
マリーアの方へ歩き出したベアトリーチェの腕を掴んでミケランジェロは口早に言った。
「あの方は魔術に精通してるんです。それに加えてジョヴァンニ様の影響で倭文様の事はよく思っていない。今、瀕死状態の倭文様に毒でも盛られたらどうするんですか」
「おや、毒とはご挨拶だこと、ミケランジェロ…ねぇベアトリーチェ、倭文の手の傷はどうして?」
「ーええ、こちらの方はもう…すっかり……お姉様の薬のおかげで」
「リーチェ嬢様!?」
ミケランジェロはギョッとして傍らのベアトリーチェを見つめた。
「ー倭文に渡したあの薬は、マーリアお姉様に調合していただいたものなの…ごめんなさいミケランジェロ、私嘘をついたわ。でもあなたに本当のことを話したら、あなたきっと今のようにお姉様の薬を使うことを拒んだわ。そうでしょ?けれどもあの薬はよく効いたのじゃなくて?ね、ミケランジェロ。人の噂に惑わされては駄目よ。私達の目に映る真実だけを信じましょう。お願いだからマーリアお姉様に倭文を任せてちょうだい」
「ーーー」
「私は別にどちらでも構わないのだけど…?」
マリーアは勝ち誇った笑みを浮かべながらミケランジェロを眺めやり、その傍らで馬番に抱えられて意識のない倭文の顎を黒い扇で持ち上げ検分した。
「ああ、これは相当ひどく出血しているようだ…かなり意識も混濁しているようだし、脈も弱まってきている。今から医者を呼びに行っていたら、あるいは到着までに絶命ー」
「やめてっ!!」
ベアトリーチェはその美貌を苦しみに歪ませて両手で耳を塞いだ。
「お願い…やめてー倭文を助けて……」
ミケランジェロが結局、ベアトリーチェにかなうはずがなかった。泣き伏すベアトリーチェを挟んで、笑みを浮かべたマリーアと歯ぎしりをするミケランジェロは互いの勝敗を確認しあった。




