ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像15
1491年の晩秋のある日ーその日は朝から空が抜けるように青く、高く、絶好の狩り日和であった。
メディチ一族はこの日、フィレンツェ郊外のカレッジの別荘の辺りで狩りを楽しむ予定になっていた。これは毎年この季節の習慣で、穀物が黄金色に色づき芳醇なワインが出来上がる頃になると、神への感謝を込めて人々は飲めや歌えの宴会を繰り広げるのだった。
メディチ家も例外ではなく、男達が郊外で捕らえた獲物をパラッツォ・メディチへ運び込み、料理して宴会となる。女達は狩りの間、宴の準備をして男達を待つのであった。
「倭文ーー」
かすかな呼び声に倭文が振り返ると、中庭の柱の影からベアトリーチェが顔を覗かせていた。黄金色の豊かな髪は晩秋の深い日差しを吸い込んで、風にそよぐ麦畑を連想させ、鬱金色のドレスと共に彼女を豊穣の女神さながらに見せていた。
「ベアトリーチェ!」
ジョヴァンニがローマから戻ってきてからというもの、再び会えなくなってしまったベアトリーチェの姿を偶然に見つけ出した倭文の顔は一瞬明るく和んだがそれはすぐに消え、彼は恋人に近づいてその姿を覆い隠すようにして抱きしめた。
「だめじゃないか。こんな所へ出てきては…今日は一族の方々がこのパラッツォに出入りされている。私などと居るところを見られてはまたジョヴァンニ殿の神経を逆撫でしてしまうー」
「ーごめんなさい。ジョヴァンニ兄様があなたを傷つけたのも私のせいだったのに…でも私、妙な噂を聞いたの。倭文が今日の狩りに出るって。嘘よね、そんなことしないわね?」
「ミケランジェロから聞いたの?全く早耳だね、彼は…」
肩をすくめて笑った倭文を見て、ベアトリーチェはそれが真実であることを悟った。
「だめよ、倭文!!手の傷がまだ治ってないでしょう。狩りっていったら馬に乗るし、弓だって使う。手を使わなければできないことだらけじゃありませんか。無理ー」
ベアトリーチェの唇は不意に倭文の人差し指に塞がれた。倭文は笑いながら、傷のあったはずの掌をベアトリーチェに向けて差し出した。
「大丈夫だよ、ほらこの通りーすっかり治ってしまった。ベアトリーチェ、君のくれた薬は本当によく効いたね。ありがとう。君のお陰だよ」
「まぁ…」
ベアトリーチェは幻でも見るかのように倭文の掌に見入っていた。傷はわずかに白い盛り上がりを残すのみでほぼ完治していた。宮廷中のどんな名医の薬を使ってもあの傷がこう短期間に治るとは思えない。マリーアは一体どんな薬を使ったのか。噂ではジプシーから薬の原料を仕入れていると聞いたこともあったが。
「これなら狩りに出ることを許してくれる、ベアトリーチェ?実はね、私がどうしてもこの狩りに参加したかったのはジョヴァンニ殿が是非にと誘って下さったからなんだ」
「お兄様がー狩りに?」
「そう、あの時は突然でジョヴァンニ殿も気が動転しておられたんだよ。私も十分な説明ができなかったし…しかしこうしてジョヴァンニ殿自ら和解の手を差し伸べて下さっている今が君との事をお許し頂くのに一番の機会だと思うんだ。もちろんその後でロレンツォ殿のお許しを頂かなくてはならないけれど…どんな事をしても私は必ずお許し頂くつもりだからーどう、ベアトリーチェ。長い間辛い思いをさせたけど、これで少しは君の苦労に報いることができるだろうか?」
「倭文ー最高だわ!」
空を写し取ったようなセルリアンブルーの瞳に薄っすらと浮かんだ涙を、そっと指先で拭うと倭文は再び力を込めてベアトリーチェを抱きしめた。
「何処や?心優しく情ある君は…そは、伏目がちの面差しと静かなる言の葉もてわが心を安らげる人なり」
「ー何かおっしゃいましたか、父上?」
「いやージョヴァンニ、そなた近頃ベアトリーチェを部屋から出さぬそうだな。倭文殿のことが原因か?」
ロレンツォは窓際に置いてあった椅子からようよう身を起こすとジョヴァンニの手を借りて寝台の上に横たわった。手足や顔がむくみ、息遣いも荒い。備わった威厳や人々を和ませる快活な口調は以前と変わりないのだが、痛風の病は確実に彼の体を蝕み、寝台から離れられなくしてしまっていた。
「はいー父上のご希望通りにとは思ったのですが、どうもベアトリーチェが近頃反抗的で…ありえぬ夢を思い描いて自らの務めを忘れているのではと疑える節が多々ありましたもので仕方なくー」
「ありえぬ夢とは?」
「つまりーヴェネツィア元首、マルコ・ハヴァイヤット・カペッロとの婚礼を取り止め、あの東方の客人と一緒になることかとー」
「ーーー」
「ですから 父上、私は最初に申し上げたのです。あのような得体の知れぬ者を未婚の娘の側へ近づけてはと。万が一、ベアトリーチェが傷物になればヴェネツィアの思うつぼですぞ」
「ベアトリーチェには恋愛と結婚が別だということが理解できておらなんだか…若いうちには誰しも美しい恋の思い出が一つ二つあるのが当然、だがそれは泡沫に消え去るからこそ美しいのだ。それを理解せずにあれは倭文殿に永遠を求めるのか…のうジョヴァンニ、男と女ではこうも愛に対する考えが違うものなのか」
「ーーー」
「あれはーこうなってみて初めてわかったが…昔、知っていた女とよく似ている。戦や外交、陰謀や芸術…そなた達の母は確かにそういったことを理解できなかったが、さすがに名門のオルシーニ家に生まれただけあってこれらの必要性には気づいていた。ところがそれらのどれにも目を向けず、愛だけで世界を覆い尽くそうとするーこの世には恋愛しかないと思っている女ーがこの世には存在するのだ。しかしそれではこの世に生まれてきた意味は?あまりにもつまらぬではないか」
「父上ー」
ジョヴァンニは ロレンツォに毛布をかけながら頷いた。中庭の方からは人々のざわめきや馬のいななきが聞こえてくる。
「そろそろ出立の時間のようです。このお話はまた後ほどー今日はルクレツィア姉上やコンテッシーナ姉上もいらしてますので父上も良い気晴らしになられるでしょう。どうか1日ご機嫌麗しくお過ごし下されますよう」
「ージョヴァンニ…」
一礼をして出て行こうとしたジョヴァンニの背中にロレンツォは重々しい声で呼びかけた。
「そなたの言うことー確かならば、やはりあの2人どうにかせねば、な」
「父上ーでは」
「しかし無理矢理というわけにはいかぬ。引き離せば燃えている火に油を注ぐだけだ。あくまでも事は穏便に、な。己の義務と立場を思い出させるのだ。倭文殿にも、ベアトリーチェにも」
「はぁ」
ジョヴァンニの一瞬輝いた表情は再び曇った。
『父上はやはりベアトリーチェには甘くていらっしゃる。僕は許さない、メディチ家の者である事を、このジョヴァンニ・メディチの妹である事を捨て去ろうとするベアトリーチェや、他人だというだけでいとも容易くあれの心を掴み、連れ去ろうとする倭文を…許すものか!!』
「かしこまりました、父上。ご満足のいくようはからいます」
ジョヴァンニの心の奥に宿る、不吉な想いをロレンツォは知る由もなかった。
「おや、もう出立の時刻のようだー」
マリーアは乳鉢を片手に持ちながら、格子のはまった日当たりの悪い出窓に腰掛けて、外の様子を伺った。
「倭文はーいた…今日のお供は臆病者のミケランジェロか。ベアトリーチェがあれ、あのように人目も憚らずにつきまとって…心配なのもわかるがの…期待して待っておいで、ペアトリーチェ。その心配はもうじき本当になるのだよーのう、用意はいいかえ、ヴェネツィアの刺客殿?ほほ、ベラドンナが程よく効いているようですの」
独り言のように呟いたマリーアの視線の先には、椅子にもたれたままピクリとも反応しない男がいた。その鼻先に蝋燭の灯を近づけると、マリーアは呪文を唱えるように彼に向かって囁き始めた。
「よいか。そなたはあの黒髪の男を、別荘での狩りに紛れて射るのじゃ。あれはそなたの国の元首の許嫁を奪おうと画策する不埒者。敬愛するドージェ(元首)の為にヴェネツィアの怨念を見せつけておやり…ただし、矢は殺さぬ程度にな。かすめるだけでよい。私に考えがあるゆえー」
窓の外に倭文を認めた男は、その瞬間から彼にしか関心を示さなくなっていた。マリーアの術にかかっていたのである。無感動な色を湛えていた男の瞳は、獲物をつけ狙う獣のようにギラギラとした光を浮かべる変化を見せていた。
自らの暗示がうまくかかったことを見て取ったマリーアは、満足そうに目を細めながら弓と数本の矢を男に差し出す。弓自体は何の変哲もないものだったが、矢の中心にはヴェネツィア共和国の紋章、羽の生えたライオンが刻まれていた。
血気に逸った男は、この小さな紋になど気づきもせず、ひったくるようにそれらを受け取って暗い部屋から出て行った。
『後はジョヴァンニがあの男の射易い状況に持って行ってくれるはずー倭文を傷つけるのはヴェネツィアの者だし、ジョヴァンニも多少の気晴らしになる…そしてそれからがベアトリーチェに捧げる最高の復讐の幕開きー』
誰からも女神のように崇められる義妹の、花の如き笑みを思い浮かべて、マリーアは無意識に喉元を抑えていた。まるで空気を吸えなくなった窒息寸前の人間のように。
『ロレンツォ・イル・マニフィーコや油断のならない、メディチを取り巻くおべっか使い達の関心など私は欲しいと思ったことはない。ただジョヴァンニは…ジョヴァンニだけはー渡さない!』
首に手を触れたマリーアは、耳の後ろに赤く残る昨夜のジョヴァンニとの逢瀬の名残を何度も何度も執拗に撫で続けていた。




