ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像13
「ではいいな。今夜のことは表沙汰にはしない。その代わり、今まで以上に女主人の行動には気をつけて見張れよ。ベアトリーチェのことだ、どうせまた忍びで出かけたのだろうがまだ体が本調子ではない。気絶しているのを僕が見つけなければどうなっていたか」
「は、はい。それはもう…本当に若様のおかげでございます。姫様はヴェネツィアとのご婚礼を控えた大事なお体でございますもの。お言葉、心してー」
「口先のみの繰り言はもう良い!ーしかと頼んだぞ」
手荒く扉を閉めてベアトリーチェの寝室を出たジョヴァンニは、肩で大きく息をついた。召使いに当たったところでどうなるものでもないのだ、落ち着かなければならない。そう自分に言い聞かせるものの、暗い回廊を一歩一歩足を進めることに脳裏にはさっき見たベアトリーチェと倭文の姿が鮮明に蘇ってくるのだった。
“ベアトリーチェがあの男を庇ってこの…この僕に逆らうとはー”
苛立たしげにマントの裾を翻したジョヴァンニは、ふと自分の部屋の前に染みのような人影を見出した。
「マリーア…どうしたんだ、こんな所で?今夜は用はない。退がれ」
ろくに顔も見ずに部屋に入ろうとしたジョヴァンニの首筋に、マリーアは口づけた。
「本当にそうかしら?私はあなたが呼んでいると思ったから来たのだけど」
ジョヴァンニは 一瞬 ギョッとしたように異母姉を見たが、すぐにうんざりとした顔になり彼女の骸骨のように痩せ細った手を乱暴に掴むと、自分の部屋に連れ込んで力任せに寝台の上に放った。
「この部屋以外の所では僕に触れるなと言っただろう!誰かに見られたらどうする?お前の大事なジョヴァンニは法王どころか罪人になるぞ」
元々ジョヴァンニのマリーアに対する態度は、倭文も間違えたほどの肉親の情ひとかけらも見られぬものではあったが、あの夜以来それは一層激しさを増し、傍目から見れば 2人の間(最もほとんどがマリーアの一方的な邪恋だったが)が特別なものであるなどとは夢にも思われぬ状態であった。だが、マリーアという人間はよほど変わってできているのか、冷たくされればされるほど憎悪されればその分だけ満足するらしかった。乱れた髪を掻き上げて起きると恍惚としてジョヴァンニを 見上げた。
「マリーア…倭文を殺せーあの男はベアトリーチェを僕から引き離すーあの清純な娘が夜中に人目を忍んであの下郎と会っていたんだぞ?あの汚らわしい優男にたぶらかされたに違いない…このままでいてベアトリーチェがあの男に拐われてからでは遅いのだ。男女構わず、愛人が十指に余るというヴェネツィア元首になら安心してくれてやるが、倭文ーあの男にだけはベアトリーチェは渡さん」
怒りのあまり、目が異様にギラつき、歯の根が噛み合わないジョヴァンニにマリーアは無表情にワインを差し出しながら囁いた。
「わかったわ、ジョヴァンニ。この間はまだあなたに迷いがあったみたいだったから見合わせていたのだけれど… 覚悟ができた ようだからーああもちろんあなたの手を汚させるようなことはしないわ、安心して。でも…いい?これからはずっと私があなたの傍にいるのよ。あなたは私のものーいいわね」
そう言ってマリーアは異母弟に抱きついた。怒りに囚われたジョヴァンニは知るよしもなかったが、その時マリーアの面には復讐の女神エリスもかくやと思うような凄まじい笑みが浮かんでいた。
パラッツォ・メディチの中庭の花壇には今、白百合が真っ盛りだった。
その花々と競う美しい娘達が数名、嬌声を上げながら手に籠にと白百合を摘み取っている。彼女たちの楽しげな様子を横目で見ながら白百合に伸ばした手を止めて、ベアトリーチェは小さく溜息をついた。
「あらベアトリーチェ、どうかして?溜息なんかついて…百合の香りがきつ過ぎたのかしら」
気懸かりそうな声にベアトリーチェはハッとして慌てて首を振った。目の前には黒尽くめの身繕いの異母姉が覗き込んでいた。
たまの家族揃っての晩餐の時以外では親しく話すどころか、顔すらも合わせなかったこの謎めいた異母姉が何日か前に見舞いと称してベアトリーチェの居間に訪ねてきた時は乳母や 侍女達の間では恐れの感情が吹き渡った。悪名高い魔女が姫君にどんな害を加えようというのかと決死の表情で十字架を握りしめ、悪魔祓いの呪文を唱える者もいれば、恐怖に耐えられず失神する者も出たのである。
ベアトリーチェも密かに驚きはしたものの、前々から親交を結びたいと思っていた異母姉ではあったので、慌てふためく侍女達をたしなめて素早く座を整えさせると喜んでマリーアを迎えたのであった。
「いえ何でもありませんわ、マリーアお姉様…ごめんなさい、せっかくお姉様が遊びに来てくださっているのに。お気を悪くなされないでね。こうしてお姉様とお話できるなんて夢のように嬉しいことなのですもの。ただー」
弱々しく微笑んだ ベアトリーチェの瞳はまたふっと遠くなった。
「ーただジョヴァンニがあなたの自由を許してくれなくなった。それであなたは東方のお客人と会うこともままならないーそうなのでしょう?」
ベアトリーチェの傍らに置いてあった籠から百合を1本引き抜くとその香りを嗅ぐように マリーアは花に顔を近づけた。
「まぁ…マリーアお姉様、どうしてそんなことご存知?」
「あなたが あの客人と仲良しなのはパラッツォ・メディチでは有名なことですもの。毎日のように会っていたのに近頃 お姿が見えないからどうしたのかしらと思ってジョヴァンニに聞いてみたのよ」
「ジョヴァンニ お兄様に?…そう…あのお姉様、その理由を知ってらして?」
「いいえ、ジョヴァンニは私にはあの通りの態度でしょう。とてもそんなことまでは教えてくれないわ。それでも、感謝しているのよ、私…メディチの黒魔女などと言われて他の兄弟はおろか、実のお父様にまで相手にされないのですもの。口をきいて下さるジョヴァンニやあなたには……」
「お姉様がそんな方じゃないということはベアトリーチェがよく知ってますわ!ごめんなさい。私、自分のことばかり考えていて…お辛いのはお姉様だって同じでしょうに。ねぇお姉様、私がお父様にお話ししてみます。周りの人達の噂などお気になさらずに 一度お姉様とよく話し合って下さいって。お父様はお優しい方ですもの、きっとわかってくださってよ」
「私のことを心配してくださるのはとても嬉しいけれど、ベアトリーチェー」
マリーアは手を挙げてベアトリーチェを黙らせると、その手を異母妹の頬に当てた。
「今はあなたのことが先決ーこんなに元気もなくなって…ちゃんと食事はしていて?少し痩せたようだわ。ようやく仲良くなれた異母妹を失わせることはしないでね、ベアトリーチェ」
「お姉様… 私そんな風に言っていただけるなんて嬉しい、嬉しいわ…とても」
「わかってもらえて?さ、じゃあ 昼食を一緒にいただきましょうか。その前に私の調合したお薬を飲みなさいな」
「お薬?」
あどけなく見上げるベアトリーチェの肩を抱いてマリーアは頷いた。
「そう、今まで絶食に近い状態だったのでしょう。普通の食事をそのまま取っては体に毒だわ。私のお薬はその負担を軽くするの」
「お姉様は他にもお薬の調合なさって?例えば剣の傷薬とか…」
「ええ、もちろん」
瞬間、 マリーアの笑み妖しさを増したように見えたのは気のせいだったのか。
「でも、どうして?」
「あぁお姉様、是非聞いていただきたいお願いがあるの。倭文に、あの方にどうかそのお薬を!倭文は私のせいでジョヴァンニお兄様に切りつけられて……」
「え?」
「そう、まったく偶然に私達、庭で出会いましたの。真夜中に…倭文の事を思うと眠れなくなってージョヴァンニお兄様は偶然とは思っていらっしゃらないのですけど…あの方と話しているうちに私、言いました。愛してますとーお兄様は多分それを聞いてらして、大変にお怒りになって…それからははっきりとしないのですけれども倭文が手から血を流しているのを見たら急に目の前が暗くなってーそれから1度も倭文に会ってないのですわ。傷は大したことはないと噂では伝わってきますけど私、心配で……どうしても会えないのならせめてお薬だけでもと思ったのに医師達は皆、兄様に言い含められていて…」
マリーアを見上げたすがりつくようなセルリアンブルーの瞳は、今や涙が泉のように湧き出て水底に揺らめく玉石のようであった。かわいそうに、この小さなか弱い姫君は事情が事情だけにその悩みを侍女や乳母にも打ち明けることもできず、愛しい者の容態を気遣ってずっと一人で耐えていたのだった。
「そうだったの。かわいそうに…ベアトリーチェ、もう心配はいらなくてよ。私がよく効く薬を倭文の為に調合するわ。あなたはそれを持って倭文の所へ行っていらっしゃい。倭文も あなたの顔を見ればきっと元気になることでしょう」
同情した様子のマリーアは異母妹の肩を押して邸内に入るように促した。ベアトリーチェは言われるままに歩み始め、侍女達もそれに従って引き上げ始めたがただ1人、それを見送るマリーアは百合の園に立ち尽くして、さっきよりも一層強くなった妖しい笑みを隠そうともしない。その様子はエデンでイブをそそのかした蛇を彷彿とさせた。




