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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像12

その夜、倭文はパラッツォ・メディチの広大な庭園を歩いていた。特に目的があったわけではなかったが、いつものようにロレンツォの部屋を退がってからそのまま何とはなしにさすらっていたのである。梢を渡る涼やかな風の流れを追いかけるように倭文の瞳は宙に遊んだが、それは大きな月桂樹の陰で止まった。根元に誰かがうずくまっているらしい。

「どなたかいらっしゃられるのですか…お加減でも…?」

倭文は月桂樹に近づいた。影はビクリと肩を震わすと、被っていた薄物を襟元で掻き合わせながら倭文を見上げた。

「ーベアトリーチェ…」

よくよく見ればそれはベアトリーチェであった。緩やかな白い部屋着をまとい、解かれた飾り気のない髪が月に照らされて闇の中に浮かび上がっている。

そうしていると彼女はますます天使以外の何者にも見えなくなってくるのだった。

「ー驚いた。こんな夜更けに君がここにいたなんて…乳母は?それともまたミケランジェロと抜け出してきたの」

「誰も…いないわ。一人で抜け出してきたの……」

隣に腰を下ろした倭文に一瞬だけ目をやると、ベアトリーチェはまたすぐにうつむいてしまった。視線が地面をめまぐるしく這う。陶器のような白い指は無意識に薄物を弄んでは握りしめ、ますます白くなっていた。

「それじゃ早く部屋へ帰らなくては。姫君の歩く時間ではないよ。それに具合はどうなったの?まだ顔が青いようだけど…」

ベアトリーチェはかすかにうなずいた。

「ええ大丈夫…昼間はごめんなさい、ご心配をおかけして。もうすっかり良くなってよ。ここへ来たのは少し外の風に当たりたかったから…乳母やはうるさいのですもの。早く休めってそればかり…」

「そう。良かった、良くなって…」

倭文は目を細めて安心したように頷いた。

「さ、戻ろう。部屋まで送っていくから…」

「ーーー」

目の前に差し伸べられた倭文の手を見、一瞬の躊躇の後、ベアトリーチェはその愛らしい唇を噛みしめながら考え込むように口を開いた。

「ーね、倭文。昼間あなたが言って下さったこと、あれ本当?」

「…え?」

「私と生涯を共にする人は…世界一幸せだろうって」

「ええ、もちろん。私はそう思っているよ…」

「ーじゃあなた、世界一幸せな人になって下さる?」

瞬間、赤らんだ顔を半ば薄物で隠したベアトリーチェの視線と彼女の言葉の意味を飲み込めなかった倭文の、軽い戸惑いの視線が互いに相手を貫いたーかくて恋は密やかな足音を立てて忍び寄る。

「私、あなたのことが好きだわ、倭文。今までわからなかったのだけど…こんな気持ち初めて。これがたぶん、ミケランジェロやルクレツィアお姉様から聞いた恋とか愛とかいうものなのでしょう。あなたのことを思うとドキドキする。姿を見ると目を逸らせてしまう…本当はずっと見ていたいのに。不思議な気持ちーでもとても幸せなの。ね、倭文。あなたはいかが。私といると幸せかしら?」

最初のうちでこそ顔を赤らめたベアトリーチェだったが、一旦胸の内を打ち明けてしまうと自分の心の変化への好奇心が湧いてきたらしく、その澄んだ昼の空のような瞳が答えを求めるように倭文の心を射抜いた。そうなると慌てるのは倭文の方である。

「べ、ベアトリーチェ…あのね、君はメディチ家の姫君でヴェネツィアに許嫁が…」

「…だから?確かに私は許嫁はいるけれどまだ1度も会ったことはないし、こんな気持ちになったこともないわ。お姉様方だってご結婚なさっているけれどちゃんとご主人の他に大好きな方がいらっしゃるし…”いざや諸人喜びの時は今ぞ あした来るものの定かならねば” っててこういうことを言っているのでしょ」

無邪気に微笑むベアトリーチェを前に倭文は大きく溜息をついた。夫や妻以外に愛人がいるのが貴族社会の常とはいえ、結婚前の娘の貞操は商品価値になるからこそ彼女たちは籠の鳥同然なのだ、と説明してやっても純粋培養のベアトリーチェにはきっと理解できまい。いや、説明してわかるような少女であったら自分はきっと…。

「あなたはそうじゃないの、倭文?昼間のあれは…あれは、嘘?」

「そうじゃない、君のことは好きだ!たぶん初めて会った時から…君の傍らにいると本当に心が安らぐ。ここが異国だということを忘れてしまいそうになる。だが、君はもうすぐヴェネツィアにー」

「私もよ。私も倭文、あなたが大好き」

ベアトリーチェは倭文が額に当てた細っそりとした手をそっとその華奢な両手で包み込んだ。

「私…あなたと一緒に旅をしてみたいわ。ジパングを目指すの。その前にあなたに聞いたチベットの草原や明国の都を訪れて…そして最後にあなたの生まれた京の都へ。ねぇ倭文、そういえばあなた東方の国々のことはよくお話して下さったけど、ジパングについては話して下さったことがないのね。どうして?京の都って一体どんな所?」

「京の都の記憶は私にはないからね、話してあげたくても話すことができないのだよ。だけどね、両親がよく話してくれた京の都というのはそう、とても美しい所のようだ。なだらかな山々に四方を囲まれた箱庭のような都市ー人々は優雅に洗練されていて季節ごとの花々を見、月を愛でては様々な感情を歌にして表現する。私の父母もそうやって色々な歌を詠んでいたらしい。よく古人(いにしえびと)の歌も聞かされたよーー大和は国のまほろば畳なづく青垣山籠れる大和し麗しーー私はね、なんとなくこのフィレンツェと似た都なのではないかと思っているのだよ」

「…ヤマトウルア…ワシ?ああ素敵ね…はるかなる東方のフィレンツェ」

ベアトリーチェは倭文の口から響いてくる魔法の呪文のような、優しい旋律の大和言葉にうっとりと聞き入った。

「最も今はどうなっているのか… いつか話したね。戦乱で荒れていることを…それでも両親は死ぬ直前まで帰りたがっていた」

「…倭文のお父様とお母様ってどんな方達だったの?」

手を取ったまま覗き込むベアトリーチェを愛しげに抱え寄せて倭文は微笑んだ。

「特別な力など何も持たない平凡な人間だったよ。父も母も…きっとあの戦乱がなければ大邸宅の奥深く、人々にかしづかれて退屈を退屈とも思わぬままに人生を終えたに違いない。君の父上、ロレンツォ殿のように運命を自分で切り開くことなど思いつきもしない人種だったのだから。それが戦乱によって家を失い、権力を失い、命からがらの身一つになって明国に流されてきて…たぶん父と母は初めて互いを認め合ったのじゃないか。心が一つになったのじゃ」

「羨ましいわ…それでは倭文の家族は皆、心が通い合っていたのね」

ベアトリーチェのつぶやきに倭文はふと言葉を止めた。

「どうして、ベアトリーチェ?君の家族だってそうじゃないの。特に君は家族の中心だろう。大公様の君への寵愛ぶりときたらあれこそ目に入れても痛くないというのだね。それにミケランジェロ。彼ときたらそれこそ君の一挙一動見逃すまいといつでも紙と木炭を手放さないし…」

「そうじゃないわ…確かにお父様は私のことをとっても気にかけて下さる。服だって季節の変わるたびに着きれないほどの数を仕立て師に注文してくださるし、東方貿易で珍しい香料が手に入ったといえば私の為に必ずひとつは取っておいて下さるの。いつかは色鮮やかな鸚鵡やシャムという国の、青い目の美しい猫を頂いたわ。でも…マリーアお姉様には何一つして下さらないー服も、香料も、猫も!お姉様だって確かにお父様の娘なのに!私、お父様が私に下さる愛情の半分でもいい。マリーアお姉様に優しくして下さったら何にもいらないのに。そうしたらマリーアお姉様もジョヴァンニお兄様以外の家族に打ち解けて下さるはずよ…私のお母様は早くに亡くなってしまわれたし、他のお姉様方は次々と嫁がれてしまわれてここにいる家族はこんなに少ないのですもの。仲良く暮らしたいわ…ね、わかるでしょ、倭文。いくら気にかけて下さったってお父様にはご政務がおありになるし、お兄様方にもお勉強がおありになる。結局私は一人ぼっちだわ…こんなことを思うなんて私わがままかしら?」

「ミケランジェロは?彼はいつだって君の側にいたじゃない」

「ミケランジェロは違うの」

ベアトリーチェは小さくかぶりを振った。揺れる金髪はまるで金砂が飛び散るようである。

「もちろん他の家族達よりは遥かに仲良しだし兄弟みたいなものだけど。ミケランジェロは確かに私をとてもよく思ってくれていて…笑わないでちょうだいねー春の女神のように美しいとか、この世で一番優美だとか、そう言って褒めてくれるけど…でも、それだけなの。前に私がジパングに行きたいと言った時も、賛成はしてくれたけど、でも決して一緒に行こうとは言ってくれないの。ミケランジェロは理想と共に夢見ることは許せても、理想が行動して自分から離れていくのは許せないのでしょう。自分の世界を持っている人だわ。自分だけの…ね、わかるかしら?だから一緒に夢を追える人ではないのよ…それでも前は一番考えが近かったわ。ここには夢見る人さえいないのですもの。倭文、あなたが現れたから…」

ベアトリーチェは物言いたげに倭文を見上げたが、言葉を飲み込むとその腕の中に顔を埋めた。

「ージパングーまだ見ぬ私の故郷へ…君と共に?そうできればどんなに素晴らしいことだろうね。でも君にはヴェネツィアの許嫁がおられる」

「私、お父様にお願いしてヴェネツィアとの縁談を取りやめにしていただくわ!」

ベアトリーチェは無邪気に倭文の腕から飛び起きた。その瞳はたった今思いついた良案に夢中で興奮に輝いていた。

「そうだな…そうしたら私はその間、君の為に旅の準備をしよう。滅多に外に出たことのない君の為に、聞き分けの良いラクダと、色とりどりの刺繍を施した天蓋に、ラクダに揺られても辛くないように柔らかな絹のクッションを!しかしね、ベアトリーチェ…」

倭文はちょっと言葉を切ると大袈裟な仕草で顔をしかめた。

「都の女性は幼くして嫁ぐという。まして君は名門メディチ家の公女…果たして私が迎えに来るまで君は待っていてくれるのだろうか、ベアトリーチェ?」

「もちろんだわ。あなたがご不安なのならば、私に仮死の薬を飲ませて木の根に埋めておいて下さっても結構よ。そうしたら誰が何と言おうと私、ずっとこの歳であなたのお迎えが来るまで誰の所へも嫁げませんもの!」

嬉々として頷くベアトリーチェと重々しく頷く倭文は互いにどちらからともなくに声を立てて笑い出した。闇を散らすかのような明るい笑い声。が、やがてそれはいつしか闇に飲み込まれ、後には翳りを帯びた互いの瞳があるばかり。

「…でもそれは……それこそが夢だよ、ベアトリーチェー」

「そうとも。どこの馬の骨とも知れぬ身がだいそれた夢を見たものよ」

倭文の苦いつぶやきに追い打ちをかけたのはもちろんベアトリーチェではなかった。

自らの物思いに沈み込んでいた倭文はその少々甲高い声の持ち主をとっさに思い出すことができず、さっと身をこわばらせてベアトリーチェを抱き寄せた。

月桂樹の後ろの茂みをかき分けて、緊張感をみなぎらせる2人の前に現れたのはジョヴァンニだった。夜空を思わせる濃紺のジュールコー(上着)と白いショース(タイツ)の出で立ちの貴公子は、迷える子羊を救う聖職者にはあるまじき憎悪をしたたらせながら口を切った。

「東方というところは人の家の娘をさらっていくのが習慣なのですかな、お客人?父はあなたの東方の物語にいたく心を寄せているようだが、果たしてこのように野蛮な風習があると知ってもジパングに夢中でいられるでしょうか?最も…私は今までよりもジパングに興味が湧いたが。野蛮な国というものを1度、この目で見てみたいとね…きっとこの洗練されたフィレンツェとは天と地ほども違うーおおそうだ、アルノ河の水底深く潜っていけばジパングに辿り着けるに違いない。フィレンツが天だとすれば…」

「ジョヴァンニお兄様、失礼ですわ!倭文にお謝りになって!」

夜の夜中に若い男と2人きりでいたところを見られた恥ずかしさも忘れて、ベアトリーチェは兄に抗議した。倭文の腕に手をかけて小さな顔をまっすぐにもたげている。その毅然とした態度はしかし、却ってジョヴァンニの激昂に油を注ぐ素となった。

「何を、だ?ベアトリーチェ。お前、自分の立場が全然理解できてないんだな!僕がどんなにお前の為に心を砕いているのか…こっちへ来い、ベアトリーチェ。お前はメディチの、この僕のものだ!僕の言うことだけを聞いていればいい。さぁ乳母に見つからぬうちに……」

ジョヴァンニはそれでも妹に向かって両手を広げて彼女が自ら自分のもとへ来るのを待っていたが、ベアトリーチェは厭わしげにその手を逃れて倭文の背後に廻ってしまった。

「嫌よ、なんで私が兄様のものなの!お兄様こそおどきになって!リーチェは父様にお願いしてヴェネツィアとの縁組を解消していただくのだから…」

「ー来るんだ!!」

ジョヴァンニの鳶色の瞳が瞬間、金色に光った。彼は物を言う隙も与えずに倭文の後ろにいたベアトリーチェの腕を掴んで自らの脇に抱え寄せてしまった。その素早さと力強さはこれもまた枢機卿たる彼には似つかわしくないことであり普段の訓練の賜物であろうことが偲ばれた。

「ベアトリーチェ!!」

反射的に手を伸ばした倭文は、だが刹那手の甲に走った鈍い痛みと、目の前に突きつけられた鋭い刃の切っ先の為にその動きを封じられてしまった。

「お客人。人の家の娘が欲しくば、こそ泥のような真似をせず、正々堂々と乗り込んで来られるがよかろう。最も…今更何を言われたところでお前のような下郎には猫の子1匹やる気はないがな」

「倭文!!」

ジョヴァンニが突き出した剣と倭文の手に流れる血を見て、ベアトリーチェは小さな悲鳴を上げ兄の腕の中でぐったりとなった。

「リーチェ?」

ジョヴァンニは 腕の中の妹の血の気のない頬をそっと叩いたが、手折られた白い花のようにベアトリーチェは気を失っていた。鳶色の瞳の貴公子は小さく舌打ちをすると剣を収め、彼女を抱き上げて館の方へ去ろうとしたのだが。

「お待ち下さい、ジョヴァンニ殿」

倭文に引き止められ、不承不承ジョヴァンニは振り向いた。

「ベアトリーチェを…ベアトリーチェ殿の御身はどうか安らかに」

「当たり前だ。大事な妹だ、そのようなことそなたに言われずともわかっておるわ」

ツンと顔を背けるとジョヴァンニは足早にその場を立ち去った。

「ベアトリーチェ…」

甘い夢の名残を惜しむかのように倭文は愛しい少女の名をつぶやいてみた。が、月の光に照らされた手の甲の傷を見た時、その穏やかな表情には自嘲的な笑みが薄っすらと浮かんでいた。

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