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「こっちにいらっしゃい」と綺麗な女の人は言った。
綺麗な女の人はぼくの手を取った。(ぼくはどきっとした)それはとても冷たい手だった。ぼくは綺麗な女の人に促されるようにして、そのまま古風な客車の赤い生地の座席に座ることになった。綺麗な女の人はぼくを先に座席に座らせてくれたあとで、ぼくの向かいの席にゆっくりと腰を下ろして座った。向かい合って顔を合わせると、綺麗な女の人は再びくすっと楽しそうな顔で笑った。ぼくは綺麗な女の人に笑われて、恥ずかしくて下を向いた。するとそこには長いスカートの先から出ている白くて細い綺麗な女の人の足があった。それにその先っぽにある白い靴。ぼくはその白い靴を少しの間、観察してから、視線を上げて綺麗な女の人を見た。綺麗な女の人はぼくのことをじっと見つめていた。だからぼくと綺麗な女の人の目があった。綺麗な女の人はにっこりと笑った。ぼくはその視線から逃れるようにして、思わず顔を動かして周囲の風景を観察した。ぼくの前には綺麗な女の人がいて、ぼくの左側には古風な客車の通路があって、ぼくの右側には古風な客車の窓があった。窓の外は真っ暗闇だった。そこには月も、星もなく、そしてあの不思議な彗星も、空のどこを探しても見つけることはできなかった。
ちかちか、と天井の明かりが点滅し、がたんごとん、という列車の走る音が聞こえた。ぼくは綺麗な女の人に向き直った。(ぼくが周りの風景を見ている間、綺麗な女の人はなにも言わなかった)そして綺麗な女の人の顔を正面からじっと見つめた。




