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季節は秋から冬になった。(どんどん寒くなっていった。硯は寒いのは苦手だった)
硯は展示会の前に、深津先生にいただいた筆を使って、一枚の水墨画をしっかりと描きあげた。それは『風の中にいる子供の龍の水墨画』で、とっても愛嬌のある丸っこい龍の子供が風の中で無邪気に遊んでいる水墨画だった。
その自分の描いた水墨画を見て、硯はとっても満足した。
……、もちろん、いろんな意味で、まだまだではある。それは自分でもわかっている。でも、それでも、今の私のすべてがこの子供の龍の水墨画の中にはあると思った。
この水墨画の中にはしっかりと田丸硯がいた。
……、だから、これでいいと思った。
展示会の結果がどうであれ、これが今の私の、田丸硯の水墨画なのだと思った。
……。
さて、墨はどうだろう?
今頃、墨はどんなすごい馬の親子の水墨画を描いているのだろうか? とわくわくしながら座布団の上に正座をして座っている硯は思う。
深津先生にもきちんと展示会のことを墨と二人で一緒にお話をして、(深津先生は笑いながら、すぐにいいよ、と許可してくれた。なんだか展示会に私たちが作品を出展したいと言い出すことが、はじめから深津先生には、なぜだかわかっていたみたいだった)正式に展示会に作品を出展することが決まって、展示会に出展する水墨画を本格的に描き始めることになって、硯と墨は久しぶりに、それぞれ違う部屋で水墨画を描き始めた。(お互いの水墨画を見ないための行動だった。昔から水墨画の作品会などがあるときは、硯と墨はそうしていた)
硯はいつもの部屋で。
墨は自分の部屋で、水墨画を描いている。
硯は墨のところに今すぐにでも行きたかったけど、墨の邪魔をしてはいけないので、まだ勝手に行くことはできない。(すっごく行きたいけど。墨の水墨画を見たいし、私の水墨画を今すぐにでも墨に見てほしいけど)
いつもなら、こんなたまらない気持ちのときには、硯は深津先生のお仕事部屋に行って、深津先生に話を聞いてもらうのだけど、今日は、深津先生のところにも、まだ行けない。
深津先生も七福神の水墨画の最終工程に入っているはずだった。それに展示会のさまざまな準備などもあって、いつもよりも、ずっと、ずっと忙しいはずだった。
だから硯は大人しく、今日は草花と一緒に遊んでいることにした。
草花はいつものように縁側にいて、やっぱりいつものように、ごろごろとしていた。
だけど、そこには草花だけではなくて、珍しく都さんがいた。いつものように着物姿(たんぽぽ色の着物で、帯は小豆色だった)の都さんはそこで草花を膝の上に乗せながら、ぼんやりと深津家の立派な冬の緑の庭を見ていた。
都さんは縁側にやってきた硯に気がついてこちらを向くと、にっこりと優しい顔で硯に微笑んで「あら、硯ちゃん。お暇なの? ほらほら、こっちにいらっしゃい」と言って、ゆっくりと上品な仕草で手招きをした。
「ねえ、硯ちゃん。どう? うちの墨くんとはさ。うまくいっている?」と、ぐいっと硯にその美しい顔を近づけるようにして、なんだかとっても、うきうきした顔と声で都さんは硯に言った。
都さんにそう言われて、硯は「……、えっと、いつも通りです」とちょっと困った顔をしながら言った。
硯は都さんのことで、ずっと前から、すごく困っていることがあった。
それは都さんが硯と二人だけになると、硯にこんな風に墨のことで、ちょっかいを出して、あわよくば、二人のことを『くっつけよう』と密かに企んでいることだった。
……、まあ、その、つまり、硯と墨のことを恋人同士にしようと思っているのだ。(都さんは硯に深津の家にお嫁さんにきてもらいたいと思っているのだ。……、恥ずかしい)
「うちの墨くんはね、硯ちゃんも知っているけどさ、顔も(茂さんに似て)すごくかっこいいし、背も高いし、優しいし、頭もいいし、水墨画もお上手だし、よくお家のお手伝いもしてくれるし、素直だし、文句も言わないしね。本当に親としては、心配することはなにもないすごくいい子なんだけどね。ただ、ひとつだけ。本当に恋だけは墨くん。子供のころから、まったく興味がないみたいなのよね。私としてはね、そのことだけが、ずっと心配なの。いったい、どうしてなのかしら? ねえ」とすごく心配そうな顔になって都さんは硯を見て言った。
「たしかにそうですね。なんでなんでしょう?」と言いながら、都さんの言葉を聞いて、硯は心の中で、それはきっと墨は水墨画にずっと夢中になっているからだと思った。なんでそう思ったかというと、それは硯も同じだったからだ。
「墨くんだけじゃなくて、硯ちゃんもこんなに可愛いのに、(ぷにぷにと硯のほっぺたをさわりながら)ずっと毎日、一年中、水墨画ばっかりでしょ? もったいない。若いんだから、もっと恋をしないと。油断していると、すぐに年を取ってしまうわよ。本当にあっという間なんだから。月日が過ぎ去っていくのはね。……、ねえ、だから、どう? 硯ちゃん。うちの墨くんはさ。いいと思わない?」となんだかすごく甘くていい匂いのする小柄な体をぐいぐいと硯に近づけながら、にっこりと笑って都さんは言った。
そんな都さんに硯は、ごほん、と一度わざとらしく咳をしてから、「……、私は、まだ深津先生のお弟子ですから」と愛想笑いをしながら言った。その言葉はいつもの都さんの言葉を交わすための硯のとっておきの言葉だった。
その硯の言葉を聞いて、「うーん。残念」とまだまだ全然あきらめていない顔をして、都さんは硯に言った。
それから都さんと、今度はいつもの世間話のおしゃべりをしながら、硯はもし、自分が本当に誰かに恋をするにしても、墨はないなと思った。
墨は都さんの言う通り本当にかっこいいと思うけど、やっぱり小学校一年生のときから知っている十年の付き合いのある幼馴染だし、唯一本気で水墨画の話ができる友達だったし、もっと言えば深津先生のお弟子である硯にとっては、墨や都さん。草花と言った深津家のみんなは本当の家族みたいなものだった。
それに、なによりも同じ深津茂先生のお弟子として、水墨画を一緒に修行する同士であり、そして、切磋琢磨する宿敵なのだ。
だから、墨はない。……、うん。どんなに考えても、やっぱりないな。と、久しぶりにゆっくりと、都さんと楽しくおしゃべりをしながら、明るい笑い声と自然な笑顔の裏で硯はそんなことを思った。




