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……、硯はじっと墨を見る。
墨はぼんやりとした顔をして、障子を開けて部屋の中をじっと見ている硯のことを見つめていた。相変わらず、どこかのんびりとした性格をしている。なぜ、こんなにのんびりとした性格をしていて、こんなにも雄々しくて狂暴そうな龍を描けるのだろう? と硯は疑問に思った。(あるいは墨の心の奥にはこんな風な雄々しい龍が住んでいるのだろうか? うーん謎だ)
いつまでも廊下に立っていていもしょうがないので、硯は部屋の中に入ると、静かに障子を閉めて、いつもの自分の席に座った。(そこは墨のとなりだった)
硯は荷物を置くと、そのまま水墨画を描く準備を始める。もう準備が終わって水墨画を描いている墨は、そのままじっとそんな硯のことを横目に見ていた。
「あれ? 墨。深津先生は?」と水墨画の道具が入っているかばん(学校のかばんとは別のかばん)から一式の道具を出して、真っ白な掛け軸を広げて、準備が終わると硯は墨に言った。
いつもなら、もう深津先生が部屋にやってくる時間だった。
「今日は用事があるって言って少し前に家を出たみたい。もう少ししたら帰ってくると思う」とぼんやりしたままで墨は言った。
「へー。そうなんだ。……、珍しいね」と言って、硯は目の前に広げた真っ白な掛け軸に集中する。
よし。私もすごい龍を描く。
墨よりもすごい龍を絶対に描いてやる。
紺色の制服の上着を脱いで、腕まくりをした白いシャツの姿になった硯は、一生懸命になって、描きかけの龍の水墨画の続きを描いた。
掛け軸に描く龍は今、硯と墨に深津先生から出されている水墨画の課題だった。
やる気もあったし、集中力もあったし、体力も大丈夫だった。
思っていた以上によく描けた。
会心のできだと言ってもいい。
……、でも、それでもやっぱり、硯の描いた龍には(墨の水墨画のように)命は吹き込まれなかった。
……、ああ、私はなんて、また、へっぽこな龍を描いていしまったのだろう。としょんぼりとしながら、さっきまで全力で掛け軸に向かって龍の水墨画を描いていた硯は力なくうなだれた。
どう表現すればいいのだろう。硯の龍はいつもの硯の水墨画のように、どこか緊張感のないひょうきんで愛嬌のある龍だった。(なんだか丸っこくて、可愛かった)
それがいつもの硯の画風(水墨画の個性)だった。
今までなら、それでよかった。(自信があった)でも、今はそれだけではだめなのではないかと、硯は自分の水墨画の作風に迷っていたのだった。
「かわいいね、その龍。うん。すごく硯の水墨画っぽい」と悪気はなく墨は硯の描いた水墨画の可愛らしい龍を見てにっこりと笑いながら、そう言った。
その墨の言葉を聞いて、あぶなく硯は墨の顔を学校のかばんで叩いてやろうかという気持ちになった。(中学生のころまでは、本当に叩いていた)
でも、もちろんそんな乱暴なことはせずに、ちゃんと我慢できた。うん。よかった。よかった。もう高校生だし、私も大人になったものだ。と一人、硯は叩かれることをまぬがれた墨の綺麗な顏を、よかったね、叩かれなくて、と思いながら見ていた。




