木塚さんのお話
「藤川投げた。ひっかけて…サードの片岡、一塁へ。アウト!試合終了。侍ジャパン、六対二で韓国を破り一位で決勝ラウンドに進出。準決勝ではアメリカとの対戦となります。なお、この後二時より…」
テレビを切ると、「あ、なにするんだよ」と慧が怒ってきた。今年で三十八才になるってのにこの子は全く野球のことになると本当に馬鹿にしかならないね。
「もう、試合は終わったじゃないか。全く、あんたが来なければみのちゃんの番組見れたのに」
「あんな暑苦しいおっさんを朝も昼も見てたら頭がどうにかなっちまうよ。お袋、今は日本中がWBC一色なんだぜ。なんで、あんなおっさんの顔を見たがるんだよ」
みのちゃんより今のあんたの方がよっぽど暑苦しいね。
「ほら、もう試合は終わっただろ。さっさと仕事に戻んなさい。今度来る時はちゃんと見舞いに来なさいよ。試合を見に来るんじゃなくてね」
「分かった、分かったよ。それじゃ、お袋、あんまり動き回ったりしないでちゃんと安静にしてなよ。さっき看護婦さんに言われたぜ。お袋は元気がありすぎるってな」
さては、坂本さんかね。全く、入院なんて暇でしかないんだから少しはわがまま言ったっていいじゃないかね。
「あ、それと、マイさんとかが店開ける前に見舞いに来るって言ってたから」
じゃ、俺そろそろ行くわと言った時に、「木塚さん。血圧を測りにきました」と、看護師の坂本さんが入ってきた。
「お帰りですか」
「はい、じゃ、看護婦さん。よろしくお願いします。じゃ、お袋、また来るから」
「はいはい、分かった。どうもお見舞いありがとね。あとね慧」
「ん、なんだ」
「看護婦じゃなくて看護師って言わないとセクハラになっちまうよ」
「はいはい、分かったよ」
「それじゃあ、ママ。また来るから。早く治してお店に戻ってきてくださいね。お客さん達も淋しがってるから。『ママに早くいつもみたいにズケズケいってほしい』って」
「そんなこというのは緒方さんとかでしょ。あの人は本当にしょうがない人ね。そんなんだからいつまでたっても独りものなんだよ」
そういう他愛ない話をしばらくした後、それじゃ、と言ってマイちゃんは静かにドアを閉めて病室を出て行く。病室にはまた私が一人だけになった。夕食が来るまではまた一人だろうね。
少し起きあがって窓の外を見ると、晴れた空の下にのんきなパジャマ、外からのしゃれた服、清潔にされた白い服を着た人達が歩いたり、ベンチに座ったりしてる。病院ってのは、やっぱり好きになれないけどこういうのを見てると少しだけ、いいもんかねって思ったり思わなかったりするよ。
気分転換に外に出ようかね、と思ったけど、ちょっと膝が痛い。やれやれ、こう思ったらいけないとは分かってるけど、還暦を過ぎるとやっぱり年なのかね。そしてベッドに戻ろうとした時にドアが勢いよく開いた音がした。
「あ、おばあちゃん。久しぶり」
「ああ、よく来たね、弥生ちゃん。まあ、おおきくなったね」
「えっ、嘘。やっぱり、太ってるの私」
わーっ、嘘―、という弥生の反応はかなり大きい。中学生になってから私がこういう度にいつもこんな風になる。少し大袈裟だけどそれもかわいいね。ふん、ババ馬鹿っていわれても私ゃ気にしないよ。
「嘘だよ。嘘。けど、別に少しくらい太った方がかわいいく見えると思うけどね」
「駄目だよ。この前、ケーキ夜に食べたら一キロも増えちゃったんだから。少し、油断しても駄目なの」
「ああ、分かったよ。ん、それは何。綺麗だね」
「え、あ、これ。かわいいでしょ」
弥生のほっそりとした右手首には四色の色の結晶で作られたブレスレットがはめられている。弥生が私にみせようと右手を少し上にあげるとブレスレットは窓から入ってくる日光を反射して、白のシーツの上にカラフルな色光が走らせた。
「綺麗だね。どうしたんだい。自分で買ったのかい」
「え、あ、うん。買ったの、買ったんだよ。自由が丘で、うん。あ、そっ、そういえばさ、さっきそこでマイさんを見たよ。来てたの」
あまりにも強引に話が切り替えようとしてる弥生にそれ以上は聞こうとは思わなかった。まあ、いいさ。どういう訳があるかは聞かないけど、顔と反応を見たらまあ大体の理由は見当がつくからね。
その後は弥生もいつものように落ち着いて色々と話をしてくれた。学校でも弥生ちゃんはうまくやってるみたいで、私としては安心した。ボーイフレンドのことも聞いておきたかったけど、あんまりいじめるのはかわいそうだと思ったからやめておいた。あと、慧は家でもこの頃は野球、野球、野球でうるさいみたい。
「お父さんさー、終わった試合も録画して何度も見てるの。それに日曜日にあったキューバとの試合のときさ、ぐっすり寝てたのにリビングから『おっしゃ、おっしゃ、回れ、回れ』とかお父さんずっと騒ぎまくってて目が覚めちゃった。ホント、早く終わってくれないと私もお母さんもゆっくりできないよ」
そう言って弥生は少し口を尖らせる。そう言う弥生の顔がおかしくて笑ってしまう。「笑い事じゃないんだからー」とまた少し怒る顔を見てまた笑いそうになるのをこらえた。
「こればっかりはおばあちゃんもどうにかできないからね。我慢さ、女は我慢してやるんだよ。馬鹿な男のためにね」
「ホントだよ。ホント、お父さんは馬鹿なんだから」
私達はお互いに苦笑いして慧に対する悪口を言い合った。そうそう、それにね、と続けて弥生はまた慧に対する文句を言い始める。文句を聞きながらも、弥生がこの時期の女の子にしてはそんなに父親を毛嫌いしてないことを感じていた。
慧の野球に対する想いってのはこういう時には辟易とする時もあるけど、だけど私はそれ以上に野球に感謝してる。多分、いや、野球がなかったらと思うと慧がどういう風に成長したか想像もできないから。
慧が二才のころにあの人が死んじまって、それから私が水商売始めてから、あの子にはかなり嫌な思いもさせてきたし、それに私と同じ青い目と白い肌を持って生まれてきたあの子がどういう目にあってたのかは私には嫌ってほど想像できた。一度だけ、中学の時にあの子が同じクラスの子達と大喧嘩してしまった時には、どうしようかと思った。だけど、あの子のために監督さんが私と一緒に色んな人に頭下げてくれて、あの子のチームメイトの子たちが校長や教頭先生なんかにあの子の退部をなんとかしてくれってお願いしてくれているって聞いた時には、もうお祈りなんてずっとしてなかったけど神様にありがとうって何度も何度もお礼を言ったよ。この子を野球に出会わせてくれてありがとうって。まあ、近頃はもうそろそろ野球から興味なくしてくれないかね、とも思っちまうけどね。
弥生は結構な時間、慧に対する愚痴を言って、やっとこさ一段落ついたみたいだった。
「ふう、ちょっと話し疲れちゃった」
「まあ、そんなにしゃべったら疲れるのは当たり前だね。ほら、疲れた時には甘いもんだね。ほら、きゅうすの隣に飴があるよ」
「あ、ありがと」
「私にも適当に一つね」
缶から取り出してくれたのをもらい口の中に入れる。口の中に広がる甘みと酸味を味わいながら私は一つ思った。
「あれ、そういえば、そのブレスレットってこのドロップの色に似てるね」
「がりっ!」
弥生は口に入れたドロップをいきなり噛み砕いて、その音が私にまで聞こえてきて、遅れて「あ痛っ!」と言ってきた。
「だ、大丈夫かい」
「う、うん、大丈夫」
そう言ってブレスレットと私のことをちらちらと見る弥生の様子が全く理解できない。どうしたのかね。もしかしてそのブレスレットを食べ物に例えたのが気に障ったのかしら。すぐに謝ろうと思ったけど、「そっ、そうだね。私も思ってたんだ、ドロップみたいだって、あは、あはは」
そう言う弥生の勢いのせいで謝るタイミングを失ってしまう。その時にドアが開いて坂本さんが入ってきた。
「あら、木塚さん。お孫さんですか」
「ええ、見舞いに来てくれてね」
「お優しいですね。けど、もう面会時間は過ぎてしまってるのでそろそろいいですか」
「あっ、ごめんなさい。じゃ、おばあちゃん、また来るから」
「ああ、いつでも来なさいね」
「じゃ、また…あっ!」
弥生ちゃんが持っていた缶が床に落ちて中のドロップが床に広がる。ち「わっ、ごめんなさい」と言って散らばった色とりどりのドロップを弥生は慌てて拾う。転がったのは四つくらいですぐに拾い終えた弥生は、私と坂本さんに謝って拾ったドロップをゴミ箱に捨てた。
「じゃ、じゃあね、おばあちゃん。またね」
「あ、ああ、気をつけて帰るんだよ」
私がそう言い終わらない間に弥生は部屋を出て行った。少し小走りになってる弥生の足音が遠ざかり消えて行った。
「楽しいお孫さんですね」
「ああ、まあ、ちょっとおかしかったけどね」
何だったんだろうかね。
「それじゃ、木塚さん、後三十分くらいしたらお食事持ってきますから」
「ああ、はいはい。けど、もう少し食べごたえのあるもんが欲しいんだけどね。煮物も味が薄いし、それにね」
「早く退院したいなら文句は言わないことですよ」
「はい、はい、分かってるよ。言うだけだよ、言うだけ」
「それじゃ、後でまた来ます。あ、まだ落ちたままでしたね」
坂本さんは床に落ちた缶をきゅうすの横に置いた後いつものように静かにドアを閉めて病室を出て行った。私は西日が強くなってきたから、窓のカーテンを閉めるために立ち上がった。
夕食(相変わらず、味も素っ気もないね)を終え、テレビを見て暇をつぶしていると消灯時間を知らせるアナウンスが響きテレビを切った。そのまま電気を切ろうとしたけど、少し部屋が暑かったから窓を少しだけ開けてから電気を消した。部屋はカーテンからこぼれる月明かりと街からの光のせいでうっすらと見えるくらいの暗さになる。そのままベッドに戻ろうとした時だった。
「今日も綺麗な月です」
振り返るとベッドの上にいる人影が見える。
「弥生ちゃんはあのブレスレットは気に入ってくれたのですね。とても嬉しいです」
ベッドから降りてきた人影は私に近づいてくる。
「慧もとてもよい人間になったようで、とても嬉しいです」
私の隣に並んだその男は私の顔を見て微笑んだ。
「なにより、あなたは変わりませんね」
私は呼ぶ。
「春男」
そして、私は呼ばれた。
「はい、ニコラ。元気そうでよかったです」
春男が私の隣で笑っている。その事実を私は素直に受け入れることができた。いいえ、たぶん、分かってた気がする。だけど、
「あなたは、変わらないのね」
そう言うと、春男は苦笑いした。
「まあ、そうですね。なにぶん、死んでますから」
「冗談みたいに聞こえるよ」
「僕は冗談が苦手ですけどね」
「嘘を言わないでよ。あなたニコニコ穏やかに笑いながらしれっと嘘ついてたじゃない」
「そんなことありましたかね」
「そんなことありましたわよ」
「ふふっ」「ははっ」
懐かしい。もう、三十年以上も前にこの人と別れたはずなのに。それに、昔のままのこの人といると私も二十代のときみたいなしゃべり方になってる。はたから見たらおかしいかも。こんな六十を越したおばあちゃんがこんな話し方してるなんてね。あれ、そういえば、さっきブレスレットがどうのとか言ってたわね。
「ねえ、あなたが弥生にあれあげたの」
「ええ、そうですよ。弥生ちゃんとデートして買いました」
「へえ、あの子とても気に入ってたみたいよ。けど、幽霊が買い物なんてできるの」
「ご都合主義というものです」
「理由になってないじゃない」
「他に説明しようがありませんので。けど、楽しかったですよ」
「そうでしょうね。こんなおばあさんとよりか、ピチピチした若い子とのほうがよっぽど楽しかったでしょうね」
「あなたと歩いてるみたいでしたよ」
「え」
「昔のあなたと同じでした弥生ちゃんは」
「ど、どこがよ」
「ははっ」
「な、何がおかしいの」
「そのしゃべり方が、ですよ。慌てるとすぐに口調にでてしまう。どもってしまうことです。それに、全く先のことを考えずに行動してしまう」
「聞いてるとかなりバカって言われてるような気がするんだけど。私、そんなに無鉄砲じゃないわよ」
「昔、誰かとピクニックに行った時に遭難しかけた記憶があるのですが」
「…あ、あれは、その、猪の赤ちゃんを見かけて、かわいいって思って、こんな機会滅多にないって思ったからよ。私についてこなかったら、あなただってあんな貴重なもの見れなかったでしょ」
「そうですね。貴重な経験でした」
「そ、そうだったでしょ」
「すっかり疲れて眠ってしまったあなたを背負って、切り株の年輪や星座の位置から正しい方角を見つけて無事に下山できました。あのような状況になって勉強しておいてよかったと本当に思いました。貴重な経験です」
「……」
「猪に猛進ですね」
「…あの」
「はい」
「それは、ごめんなさい」
「はい、いいですよ。分かってくれたのでしたら」
「ふう…」
駄目だ。昔からこうやって話してると絶対に言い負かされる。ていうか、そんなこと今の今まで全く覚えてなかった。
「それと」
「な、なに、まだなにかあるわけ?」
なに、まさかあれ?そ、それともあのこと。うわっ、どんどん思いだしてきた。なんのことよ。
「ごめんなさい」
「え、な、なにが」
どうしたの、と続けようとした時に、春男の口が開いた。
「小さな慧をあなた一人に任せて、僕一人が先に逝ってしまったことです」
「あ…」
春男は私から目をそらし、部屋のタイルを見つめたまま言葉を続ける。
「どんなに言葉を尽くしたところでこれは無責任な男の言い訳で、戯言です。どれほどあなたに謝ったところであなたが感じた怒り、悲しみ、嘆き、苦しみ、憎しみを取り除くことなんてできません。ただ、謝ることしかできません。ごめんなさい」
「……」
私に向き合って春男は深く頭を下げる。さっきまで私を見下ろしていた頭を私の腰よりも低い位置まで深く深く下げている。
どれくらい時間が経ったか分からない。もしかしたらほんの十秒くらいしか経ってなかったかもしれない。私がそう感じる間、春男の頭を見下ろしていた。
そして、文句の一つでも言おうと口を開いたけど、出てくる言葉はこれだけ。
「ズルイよ」
駄目だ。
少し前までは、私より先に死んじゃったことをなじってやるつもりだったのに。
あなたがいなくなってから私のした苦労とかを話して責めてやるつもりだったのに。
周りの友達が自分の夫に対していつも文句を言ってることを聞きながら、そんな文句を言わせてくれる前に、悪い所なんて見つからせてくれないで逝ってしまったことを愚痴ってやるつもりだったのに。
なのに、久しぶりに話ができて、こんな話し方をさせてくれて、こんな気持ちにさせてくれて、そして、こんな風に頭を下げられたら、私の中にあったドロドロしてた思いが、薄まっていく。
もちろん、許せるわけがないし、きれいさっぱり嫌な記憶やその時の気持ちがなくなるなんてことはない。だけど、
「許します」
こう言うしかないじゃない。「許さない」っていってもあなたは私がそういうまで何千回でも何万回でも、私が根負けするまで謝るんでしょ。そんなの無駄じゃない。だから、許します。許してないけど、許します。男は馬鹿で、女は男の馬鹿を我慢しなきゃいけないんだから。
「すみません」
「もう一度謝ったから、許したことを取り消します」
「……」
「らくだの鳴き声をしてくれたら許します」
「……」
「……」
「にょおおおおおおおおおおおおおん」
「……」「……」
「ふふっ」「くくっ」
「ははははははははっ!」
私と春男はその後しばらく笑い転げた。らくだの鳴き声なんか知るわけないし、訳の分からない奇声を必死にあげた春男はとても愛しかった。
そして、私は聞いた。
「春男」
「なんですか」
「約束覚えてる?」
「ええ、覚えてますよ」
「じゃ、ここに来たのはそのためなのね」
「ええ、約束を守るためです」
そう言うと春男は私に近づいて、私を抱きしめた。春男は私の背中に腕を回し、私も同じように抱きしめる。私はもうおばあちゃんになってしまって、昔よりも多分背は小さくなってしまった。それが、少し悲しい。けど、春男は、昔のように優しく抱きしめてくれた。そして、春男の胸に埋めていた顔をあげると、優しくキスをしてくれた。まだ、私も春男もそういうことを完全には分かってないでしたときのような、ただ唇をふれ合うだけの、だけど、とても幸福になれたときのようなキスだった。五秒くらいの時間だったはずだけど、私は幸せだった。そして春男は唇を離して、言った。
「ありがとう」
そして、ごく当たり前のように続けた。
「それでは、ひとまずお別れです」
「…え」
なにを、言ってるの。
「それでは、お元気で」
ちょっと、ちょっと待ってよ、待ってよ。
「待って!」
春男は私に背中を向けている。私はその背中にしがみついた。
「待ってよ!ねえ、約束守りに来たんでしょ。あれ、嘘なの?嘘なの?嘘ついたの」
「嘘じゃありません」
「じゃ、私も今度は一緒なんでしょ。一緒でしょ。なんで私を置いてくの、ねえ、なんで」
「ニコラ」
振り返った春男は私の目を見て、私はその目をそらさない。春男はいつもの穏やかな調子で続ける。
「僕は必ず約束は守ります。僕はそう誓いました」
「じゃ…」
「だけど、まだ一つだけです」
「え」
「一つの約束は果たしました。ですが、最後の約束を果たすのはもう少し先になります」
「え、ちょっと待って…」
「あなたは」
混乱してる私を見つめて、
「あなたはまだこちらに来るときではありません。ですから、その時に必ず約束は守ります。それまで、慧や弥生ちゃんのことよろしくお願いします」
春男をそう言い去っていく。
「ま、待って」
ひとつだけ、あとひとつだけ聞きたい。
「なんですか」
「そっちに、あなたが信じてた神様はいたの」
私の問いかけに消え入りそうになりながらも笑って答えてくれた。
「それは、死んでからのお楽しみです」
「どうぞ、こちらになります」
担当の先生のもとに私と慧が呼び出された。先生は「まず、これを御覧になってください」と言っていくつかのレントゲン写真みたいなのを貼りだしていく。
「実は、息子さんには事前に知らせておいたのですが」
そういって先生は一つのなにかの写真を私に見せる。ただなんのことだか分からない。
「これが木塚さんの一番最初に診断した時の写真なんですがね。ここに影がみえるでしょ」
「はあ」
黒と白ばかりでよく分からないけれど、確かに指差されたところは黒い影になっている。
「実はですね。これは癌だったんですよ」
「え」
「いや、すみませんね。驚かせたでしょう」
まあ、健康診断を受けたりしたら再検査の通知が来て、再検査したら検査入院してくださいって言われたからなにかしら悪いってのは分かってたけど、しかし、癌ねえ。あれ?
「先生、いま癌、だったって」
「ええ、そうなんですよ。これが入院してるときにした検査結果なんですがね」
そう言って、さっきみたいな写真をずらっと並べれれる。なんだか、自分の中身とはいえ少し気分が悪いね。けど、先生はさすがに慣れてるみたいだね。だけど、困った顔をしてる。
「異常がないんです。まるで健康なんですよ」
「健康に文句があるような言い方ですね」
「いえいえ、そういうことじゃなくて。ですが、不思議なんですよ。確かにあったはずの癌と思われていたものがすっかりなくなってる。ご面倒をおかけして申し訳なかったですが、かなり念入りに検査しました。ですが、なんの異常もありませんでした」
いやー、実に不思議です。そうくり返す先生の診察室から私と慧は出た。「いやー、しかしよかったよ。俺、最初聞いた時びっくりした。まー、金はかかったけどお袋はまだまだ現役じゃないといけないって神様の思し召しかもしれないね」
そういう慧のいうことに、そうだね、と言いながら私はあの時の言葉を思い返していた。
一つの約束は果たしました
のんきに話す慧の横顔を見て、そして、春男からブレスレットをもらった弥生のことを思い出す。
「馬鹿だね」
「うん?なんか言った、お袋」
「いや、何も。ほら、私は退院したばかりなんだから体力ないんだよ。早く車をここに持ってきな」
「分かったよ。ちょっと待ってなよ」
そう言って慧は小走りで駐車場に向かっていく。そしてもう一度言う。「馬鹿だね。春男。あんたは馬鹿みたいに律義な男だよ」
分かったよ。あんたに言われた通り、私があの子たちを守ってやるよ。
そしたらさ、そうしたら、
最後の約束、守ってもらうから。




