慧のお話
目が覚めると辺りはもう薄暗くなっていた。起きあがってみるとテーブルの上にはチャーハンがラップして置いてある。時計を見ると五時半すぎ。多分母さんはついさっき出て行ったんだろう。部屋には香水とチャーハンの匂いがたちこめている。少し迷ったけど、もう食べることにした。
テレビをつけるとスポーツニュースをやっていて、もう何度となく見た篠塚のセカンドゴロ、広岡監督の胴上げが映ってる。いい加減飽きてたのでほかのチャンネルに変えると王が巨人の監督になるっていうニュースをやってた。へー、王が監督ね。全員一本足打法にするのかね。そんなくだらないことを考えてるうちにチャーハンを食い終わり、テレビも政治に関する報道ばっかになってきた。つまんね。テレビを消して床に寝転んだ。
天井の木の網目の数を三〇個数えたところで飽きた。
…あーっ、くそ。落ち着かねえ。…よし。
俺はランニング用のジャージの下とTシャツに着替え、グラブとボールを持って外に出た。うわっ、寒っ。あー、嫌だな。まあ、走れば温かくなるか。
俺と母さんが住んでるアパートのすぐ近くの河原にはピッチング練習にはちょうどいいコンクリの壁がある。俺は河原でストレッチとダッシュを三十分くらいした後、壁当てを始めた。
壁に当てるたんびにボールとコンクリがぶつかる音が広がり、周りの空気に消えていく。俺の周りには誰もいない。ただ、ボールがぶつかる音だけが響いて消えていく。ただ、その繰り返し。
いつのまにか肩で息するくらいまで投げ込んでいて、それに気づくとのどが急に渇いてきた。河原から離れて近くの公園に行ってそこの水道水をガブ飲みする。うまい。よし、もう少し投げるかな。そう思って、壁のあるところに行こうと思ったその時だった。
「野球、うまいですね」
「ごふっ」
な、なんだ?後ろにいつのまにか変な兄ちゃんが立っていた。いや、変かどうかは分からんけど、ハタチくらいの兄ちゃんがそこにいた。
「さっきあなたの投げるのを見てましたけどうまいですね」
「ああ…、どうも」
けど、なんだこの兄ちゃん。あれか、不審者ってやつか。けど、そうは見えないよな。妙に堂々とした感じだしよ。
「しかしですね」
「は?」
「あなたが野手の人なら構いませんが、もしも投手であるなら左足を出す時にはもう少し膝を直角に出すようにしたほうがいいです。膝が外に開いてるので下半身の力がボールに伝わりきっていません。それに、投げる前から少し力が入っているようにも見えます。多分、あなたなら八割くらいの力で投げる時に一番力のあるボールを投げることができますよ」
「あ、ど、どうも」
アドバイスありがとう…ってなんだこいつ。やっぱ不審者か?
「あの」
「はい、なんですか」
なんか、こいつとしゃべってると調子狂うな…
「あんた、なんですか」
不審者ですか、って聞くわけにもいけないけど、こいつなんなんだ。けど、こいつは俺の怪しんだ声なんてまるで気にしてないみたいで俺の顔をまじまじと見てきた。
「な、なんだよ」
「僕とキャッチボールしませんか」
………は?
「僕とキャッチボールしませんか、と言いました」
……キャッチ、ボール、うん、キャッチボールね。…はい?
呆気にとられている俺なんかに構わず変な兄ちゃんは使いこまれた紺のグローブを取り出した。
「グローブとボールは持ってきたのですが相手がいません。お願いできますか」
「ああ、まあ、いいけど」
「ありがとうございます」
駄目だ、俺、完全にこの変な兄ちゃんのペースに巻き込まれてる。
俺と変な兄ちゃんは公園の外灯を頼りにしてキャッチボールを始める。兄ちゃんは俺にあんな指摘をするくらいはあって、俺のグローブにきれいなボールを投げてくる。兄ちゃんは俺が投げるたびに、肘を少し上げなさいだの、もう少し楽に投げなさいだの、色んなことを言ってきた。かなりうざったかったけど、何回も言われるので意識しているうちにコントロールが少し良くなった気がした。
どれくらい時間がたったか分からなかったけど、兄ちゃんが「少し休憩しましょう」と言ってきたので、俺と兄ちゃんは公園のベンチに並んで座った。変な兄ちゃんなのは変わりないけど、キャッチボールしてるうちに俺の中ではこの兄ちゃんは、まあ、変だけど危ない奴じゃないって気がしてきた。
空を見上げると右半分の月が浮かんでる。兄ちゃんは「きれいな上弦月です」とつぶやいていた。
「なにかありましたか」
「え」
なんだ、いきなり。
「あなた、なにか嫌なことがあったんじゃないですか」
「…いや、別に」
「ボールは正直です。あなたの心の迷いがはっきりとボールに伝わってきます。僕は昔キャッチャーだったのでよく分かるんです」
「…へー、すごいっすね」
「嘘です」
「は?」
「そんなの分かるわけがないじゃないですか」
兄ちゃんはそう言ってニコニコ笑ってやがる。くそ、こいつ、やな奴だな。
「だって、顔と腕が傷だらけです。とても部活でできるような傷ではありません。かなりの確率でこれは喧嘩をしたでしょう。それも、あなたは複数の人と喧嘩しましたね」
「…よく、分かるね」
「あなたの動きを見る限り運動能力はかなり高いとわかります。腕の振りも速い。そんなあなたがそんなに痣や傷を作るんだったら少なくとも二人以上でないと説明ができませんからね」
「まあ、当たりだよ」
「それに、その喧嘩はあなたから仕掛けましたね」
心臓が止まった、って本気で思った。
「…あんた、なんで」
「あなたは喧嘩はしたがらない人のはずです。とても優しいひとだ」
「…そんなの分んねえじゃん」
「優しくない人は見ず知らずの人とキャッチボールしません」
あんた、自分が怪しいって自覚あんのかよ。性質悪い…
「そんなあなたは喧嘩を仕掛けられても無視するか、もしくはその場を離れるはずです。ですから、あなたが喧嘩をするなら、あなたから仕掛けた、としか考えられません」
そう言うと兄ちゃんはまた夜空を見上げる。俺は地面に顔をむけてじっと黙った。河原から蛙の汚い鳴き声がこっちまで聞こえてくる。
「…理由、知りたい?」
俺がそう言うと兄ちゃんは笑って言った。
「いえ、話したくないのだったら話す必要はありません」
そう言うと兄ちゃんは立ち上がって腕のストレッチを始める。ただ、と言って続ける。
「あなたが大事に思っている人を、傷つけ、貶めた人たちを許せなかったんじゃないか。そう僕は思っています」
「ははっ。そんな、キレイな人間じゃないよ、俺」
俺はベンチから立ち上がってボールを真上にポーンと投げ上げる。思ったより上にいったボールは月明かりに照らされ白い点になる。
俺があいつらをぶん殴ったのは、母さんのことを売春婦とか、パツキン女優とか、そういう風に言ったからじゃないよ。そんなに、俺は善人でも良い子ちゃんでもない。
上弦月に向かって投げたボールは、だけど思ったより飛んで夜の闇に紛れて見えなくなる。
俺は、自分が情けなくなったのをただあいつらに八つ当たりしただけだ。父さんが死んで、俺を育てるためにスナックで働く母さんのことを、俺自身が恥ずかしく思っちまったことに腹が立ったんだよ。だから、そんなキレイな理由で怒ったんじゃないよ。俺の安っぽい自尊心を守るため。ただ、それだけだ。
完全に俺はボールの行方を見失った。夜の空を見上げながらボールを探す俺の右横から、パチン、って音が聞こえる。兄ちゃんは俺の投げたボールを素手で取って俺のグラブの中に入れた。
「いいえ」
肩をつかまれた俺は否応なしに兄ちゃんと目が合う。兄ちゃんはすげえ真面目な目で俺の目を見てる。俺は慌ててそらそうとしたけど、なんかそらしたらいけない気がしてきてじっと兄ちゃんの目を見続けた。かなり時間がたった気がしたけど、たぶん十秒くらいだった。兄ちゃんは俺の肩から手を離して、またさっきみたいな穏やかな顔に戻った。
「あなたは、やはりとても優しい人です」
「違う…」
けど兄ちゃんは俺に続きを言わせなかった。
「あなたの目はとても深い、優しい海の色です。あなたはどんなに自分を卑下しても心ある人たちにはみなあなたのことが分かります。きっと、あなたが大事に思ってる人も同じ目を持っているでしょう。その人を大事にしてあげて下さい」
「…はい」
自然にそう俺は返事していた。兄ちゃんはベンチに置いてあったゴローブをとって俺に言った。
「そろそろ帰りましょう。かなり遅い時間になってしまいました」
「あ、そうっすね」
「あ、そうですね慧君」
「はい?」
「このボールは差し上げます」
兄ちゃんは持ってきたボールを俺に投げた。俺のグラブには俺のも含めて二個のボールが入った。
「キャッチボールに付き合ってくれたお礼です」
そして、兄ちゃんはこっちが帰り道だからといって俺の反対側の道に歩いて行った。あまりに自然に帰って行くので俺は慌てて言った。
「あ、あのー」
兄ちゃんは立ち止まってこっちを振り向いた。
「ありがとうございます」
俺がそう言うと兄ちゃんは、暗闇で顔は見えないけど、きっと笑ってたと思う。
「いいえ、こちらこそ。それでは、お元気で」
そして兄ちゃんは夜の闇に溶けて見えなくなっていった。兄ちゃんが見えなくなってから俺も帰ることにする。蛙の鳴き声はいつのまにかやんでいて、かわりに色んな家からテレビの音が聞こえてきた。
家に帰ると自分の部屋に行ってグローブとボールを机の上に置いた。そして風呂に入ろうとした時にふと気付いた。
「あれ…俺、あの兄ちゃんに名前言ったっけ」
記憶にないけどな。ま、いっか、別に。
風呂場に行ってお湯をため始めた時に「ただいま」と声がする。俺は母さんに「おかえり」を言うために風呂場のドアを開けた。
「慧、お前知ってるか」
「あ、何を」
次の日、授業が終わって水道で水を飲んでる時に谷道が声をかけてきた。谷道はタッパがあるくせに人懐っこい顔をしてるせいであんまり威圧感がなくて、それがなんか愛嬌があって後輩からも受けがいいやつだった。そいつが少し心配そうな顔をして俺のことを見下ろしてる。
「何が。なんかあったのか」
「いや、お前よくあの河原にある壁で練習してるだろ」
谷道の家も河原に近い所にあってこいつと一緒にたまに練習したりしてる。
「ああ、それがどうした」
そういうと谷道は少し怒って、けどそれよりも怯えたような声で言った。
「しばらく、あそこで夜に練習するのはまずいぞ」
「へ?どうして」
「はじめさん達があそこにたまり始めた」
「うわっ、ホントかよ。最悪じゃねえか」
はじめさん、っていうのはここいらでは一番有名な不良というかヤンキーの人で、色んな噂が飛びかってる人だ。はじめさんに会えば女は連れ込まれ、男なら半殺しにされてからアソコが使い物にならなくなるまでリンチを受けるって言われてる。最近、有名な暴力団にスカウトされたっていう噂もある。
「昨日、うちの兄貴が河原の近くを自転車で帰ってたら、後ろから『おい、てめえ』って声がしたらしいんだ。兄貴ははじめさんと同級生だったから声ですぐに分かって、全力で逃げたから助かったみたい。だけど、しばらくあそこにいるかもしれないよ。はじめさんってこの頃警察にマークされてて、集まるのにいい居場所をみつけるとしばらくいるっていうから」
「うわっ、あぶねえ、俺昨日あそこで練習してたぞ」
「え、おい、大丈夫だったの」
たぶん、俺が公園に行って水を飲もうと離れた後、はじめさん達が来たんだろう。あぶね、もしもあの変な兄ちゃんがいなかったら、俺もしかしたらかなりやばかったかも。
「まあ、ぎりぎり大丈夫だったみたいだな」
「それならよかったけど。とにかく気をつけろよ」
「ああ、分かった。忠告サンキュ」
「いいよ。それとさ…」
「ん?どした」
谷道は少し黙って、けど、俺の顔をまっすぐに見据えて言った。
「うちのエースは慧なんだ。絶対、辞めたりすんなよ」
「…ああ」
「うん、それだけ。じゃあ、また放課後な」
「ああ、またな」
そう言って谷道はその雰囲気には似合わない巨体で廊下を走っていく。その後ろ姿を見送って俺は教室の中に戻る。
教室に入ってから、空気の温度は少しだけ冷える。静かになった教室の中で、俺は自分の机に向かう。ぶちまけられた教科書やノートを拾いながら席について机の上を見る。
青目。白人野郎。外人は外国に帰れ。野球ができるからって調子乗んなよ。死ねよ。生きる価値無し。臭え。俺らの国から出てけよ。
色んなことを書かれ、彫りこまれた机から目を離す。チャイムが鳴り、俺は刻まれた教科書と筆箱を出す。筆箱から取り出した鉛筆を落として、それを拾おうとした時、
「…」
隣の遠藤さんが無言でさっとおれの伸ばした手のひらに鉛筆を押し付けた。遠藤さんは何もなかったように黒板を見ている。
先生が入ってくる。いつも通りの授業。いつも通りの扱い。悔しいとか、惨めとか、そんな気持ちはとっくに飼いならしてる。だけど、俺は必死に泣くのをこらえていた。
心ある人たちにはあなたのことが分かります
俺の目をまっすぐに見てくれたあの変な兄ちゃんの言葉を少しだけ信じてみてもいいと俺は思った。




