弥生のお話
電車の中から多摩川で野球をしてる色んな人達が見える。多分、私と同じくらい年の子が外野に大きな当たりを打った。打った子が一塁を回ったところで電車は多摩川から離れていく。
電車の中は混んではいないけど、席は全部埋まってるから私はドアの近くに立って流れる景色を見てる。だけど、景色を眺めてるんじゃなくてただ見てるだけ。
「自由が丘、自由が丘に停まります。お降りのお客様は…」
アナウンスが鳴って私の目の前のドアが開く。何人かの人が乗って、何人かの人が降りていく。携帯を取り出して時間を確認。四時三十五分。今、自由が丘だからあと、二十分くらいか…これなら授業に間に合うかな。そんなことを思っていたら
「わっ!」
いきなり背中を押されて私の体はホームに転がった。手に持ってた鞄から塾のテキストやノートがホームに散らばっていく。少し遠くから「ごめんね!」という声が聞こえ、走って行く足音が遠ざかる。そして、
「発車します」
ピンパン、ピンパン、シュオーン、シュオーン…
「あー、もー」
最悪だ、今日は。もー。電光掲示板を見ると次の電車は三十八分だった。私はとりあえず散らばったテキストやノートを拾おうとしたら、目の前に男の人が立っていた。
「はい、どうぞ」
「あっ、どうも」
男の人は私のテキストやノートを拾ってくれたらしく、それらを私に手渡してくれた。
「ひどい目にあいましたね」
男の人は私の右手をつかんで引っ張り上げて立たしてくれる。
「あっ、まあ、そうですね」
いきなり知らない人に手なんかつかまれたりしたからかなり慌ててしまう。男の人は下はジーパン、上は白いシャツ一枚だけのシンプルな格好をしてる。見た目は、二十代くらいなんだけど、なんか物腰や話し方が落ち着いてる。それにちょっとカッコイイ。
「血が出てますね」
「え、あ」
転んだ時に肘を少しすりむいたみたいで確かに血が出てる。それに気づいたら少し痛くなってきた。
「いけませんね、ちょっと来てください」
「え、あ、あの」
そういって男の人は私の手をとっていきなり歩き始めた。歩き方はそんなに早くないのに私はちょっと早歩きになってしまう。あ!次の電車が来ちゃった。あれに乗ればまだ間に合うかもしれないけど、どうしよう。
「あ、あの、わ、私、塾に、急いでるんで、大丈夫なんで」
けど、私の声が聞こえなかったのか、構わず私を連れて歩き続ける。途中でこの正体不明の人は早足のおじさんとぶつかり「どこ見てんだよ」と悪態をつかれたが構うことなく歩き続ける。なんとなく私がごめんなさい、と言ってしまったけどその人は舌打ちをしてずんずんと電車に向かって進んでいった。そうこうしてるうちに私たちは改札口のほうに向かっていた。
「ちょっと、待っててください」
「あ、はい」
なんかよく分からないけど、男の人のペースに流されてしまってる。少しすると男の人がまた来て「ちょっとこっちへ」といって私を引っ張っていく。
連れてこられたのは駅員さん達が集まっている部屋だった。私は椅子に座らされて、少しして男の人がなにか箱を持ってきた。
「はい、手を貸してください」
「あ、はい」
ていうか私、さっきからおんなじようなことしかしゃべってない?
「はい、少ししみますよ」
そういって男の人は私の肘に消毒液を塗って、ばんそうこうを貼ってくれた。駅員さんに頼んで救急箱を借りてきてくれたみたい。
「あの、そんなにおおげさじゃないです」
ただすりむいただけなのに。けど、男の人は真面目な顔で言う。
「駄目です。破傷風になるかもしれませんから」
「ハショーフー?」
「傷からバイ菌が入ったら危ないということです」
そんな大げさな、って言いそうになったけど男の人は真面目な顔のままだったから言うのはやめた。少し嬉しかったし。
治療が終わったあと二人して駅員さんにお礼を言い(兄妹に間違われた、なんとなく恥ずかしい)その後男の人は駅員さんになにか黒い袋みたいなものを手渡した。
「そこに落ちてました」
落し物らしい。どうもありがとうございます、と丁寧なお礼を返されいったいどっちが世話になったのかよく分んなくなった。
男の人と部屋を出て、そういえばまだお礼をいってないことに気づいて、「ありがとうございました」というと、「いえ、とんでもありません」と男の人は穏やかに答えた。
なんとなく、まあ、これでお別れかなって思った時に男の人が言った。
「すみません、いいですか」
「はい、なんですか」
よし、もう「あ、はい」みたいな情けない答え方はしない。
「この後時間ありますか」
「…ふえっ?」
え…え…なに、言ってるんですか。
「あ、あの、なんて」
男の人は私が混乱してることなんて分かってないみたいで穏やかに繰り返した。
「この後時間はありますか、と言いました。僕、この町に初めて来たんですが、どこになにがあるかわかりません。ですから案内をお願いしたいんですが、ダメでしょうか」
男の人はそう和やかに言うと私の反応を待っているみたいだった。
「だ、だけど、私塾が」
けど、改札の電光掲示板の時間を見るともう五時を回ってた。今日は受ける授業は一コマだけ。今から行っても授業はほとんど受けられない。それに、この人はそんなに悪そうな人には(一応)見えない。見ず知らずの女子中学生を誘うっていうのはかなり変だけど。よし、とにかく落ち着け私。
「わっ、分かりました。お付き合いします」
落ち着けなかった。けど、男の人はそんなの全く気にしないみたいだ。
「そうですか。ありがとうございます」
そう言って改札口に向かう。私もその後を慌てて追う。改札を出てから、そういえば忘れてたことがあった。
「あ、あの」
もういい、どうせ私は落ち着きがないよ。
「はい」
「お名前はなんですか。私、弥生、木塚弥生っていいます」
「弥生さん。いいお名前ですね」
そう言ってから男の人は名乗った。
「僕はハロ。ハロと呼んでください」
ハロさんは自由が丘に来たことがないから案内を頼んだっていったけど、私も自由が丘にはほとんど来たことがない。だから、案内役なのにハロさんと私はほとんど並んで歩いている。分かれ道になるとハロさんが私に「どっちにいきますか」と聞いてくるので「こっちに行きましょう」「はい」というやりとりをして進んだ。そして
「弥生さん」
「はい、なんですか」
「僕たちは迷子になってますか」
「……」
「そうですか、迷子は楽しいです」
迷子になった。けどハロさんはそんなことは一切気にしないみたいで、通る道にあるお店を本当に楽しそうに眺めている。私も同じように立ち並ぶ店を眺める。自由が丘には色んなお店がたくさんあった。渋谷とか新宿みたいに大きな店がデン、とあるんじゃなくて、三、四人でやってるブティックとか、手作り家具を売ってるお店とか、ガラスや木でできたオルゴールを売るお店とか、色んな、本当に色んなお店があった。私とハロさんはお店の中には入ったりはしなかったけどそれでも十分に楽しかった。
「あの、ハロさん」
ひとつ気になってて聞きたかったことがあった。
「はい、なんですか」
「その、ハロ、っていう名前、あだ名かなにかですか。あの、ハロさん見た目は日本人に見えるけど、もしかして外国の人?」
けど、外人の名前でもあんまり聞いたことない名前だけど。ハロさんはすると少し困った顔をしてしまった。あれ、なんか悪いこと聞いたかな。
「そうですね、あだ名とは少し違います。ですが、私の大切な人がつけてくれた名前です。気に入っていますよ」
そうこうしてるうちに駅方面の道に戻ってきた。結構周りも暗くなってて、それに久しぶりにこんなに歩いて少し疲れてるのが分かる。横を見るとハロさんは穏やかな顔で前を見て歩いてる。この人は何を考えてるんだろう、何も考えてないのかな。もしかして、少し頭がユルイ人なのか…
「弥生さん」
「ひゃ!ひゃい!」
あっはっは、もうだめだー私。
「あのお店に入ってみませんか」
ハロさんが指さす先には小さなお店があった。近づいてみてみるとアクセサリーを売ってるお店だった。
「入りましょう」
そう言うとハロさんはさっさとお店に入ってしまう。穏やかで優しいけど、ちょっとマイペースだ。
お店はかなり小さくて、お店の右半分がアクセサリーの置いてあるテーブルに占拠されていた。お店はもう閉店間近みたいでお客は私とハロさんだけ。後は売ってるお店のお姉さん一人いるだけだった。お姉さんは、ハロさんに「妹さんですか」と私のことをにこやかに聞いて、それに対して自然に「いえ、恋人です」ってハロさんが答えるのを聞くと笑顔が凍りついた。ハロさんは、「きれいですね」とアクセサリーに目を向ける。お姉さんはお店の奥に行って立って私たちの様子をみることにしたみたい。というか、関わったらまずいって思ったかな。ハロさんは構わず色々と眺めてる。ハロさんって実はかなり性格悪いかも、って思った。
お店の中には色んな種類のアクセサリーが置いてある。宝石とかは絶対使ってないだろうけど、ビーズで作ったブレスレット、ブローチとかがあってかわいい。
「あっ、これ」
「どうしました」
「いや、あの」
これ、このブレスレットかなり、ううん、きれい。なんだろう。宝石じゃないけど、水晶?けど、きれい。なんだろ、この色。
「きれいですね。ドロップのハッカとメロンとイチゴとモモのようです」
「…モモのドロップはないと思いますけど」
「はい、そうです。よくご存じですね」
ご存じでした。ていうかやっぱりハロさん性格悪い。けど、確かにドロップの色に似てる。なんていうか、優しい色だ。そう思うとなんか分んないけどますますきれいに見えてきた。
「買うんですか?」
ハロさんにそう促されるとなんかここで買わないと損するような気がしてきた。よし、買おう。と思ったけど。
「ううん、買いません」
「どうしてですか?」
「お金がないから」
お小遣いは明後日にもらえる。つまり今の私は金欠なのだ。しょうがない。明後日また来よう。
「すみません。商品の取り置きってお願いできますか」
私は奥にいるお姉さんに声をかけた。
「あ、ごめんなさい。今日でここ閉めちゃうの」
「え」
お姉さんの話ではここは一週間限定で借りられるテナントで明日になるとここはもう別のお店になってしまうらしい。
「だから、ごめんなさい」
「あ、そうですか。分かりました」
ああ、そっか、残念だな。と思ったら、ハロさんは私の手からブレスレットを取り上げた。
「へ?(なんですか?)」
「すみません、これをください」
そういってハロさんはあっという間にブレスレットを買ってしまった。ぼーっとしてる私の背中を押して「さあ、行きましょう」と言って外に出た。まだ、よく状況を飲みこめてない私の右手首をハロさんは持ち上げてブレスレットをつけた。
「これは今日のお礼です」
「え、あ、あの」
「今日はとても楽しかったです。弥生さん。ありがとうございました」
「い、いえ、っていうか、えっと」
動揺してる私のことを見つめながらハロさんは笑った。やっぱり、この人は性格悪い。
「それでは、お元気で」
「あ、ありがとうございます!」
私はぴったり九十度のお辞儀をしてお礼を言った。そして顔をあげると、
「あ、あれ?」
ハロさんはもういなかった。周りをみてもハロさんはどこにもいない。駅の方をみてもそれらしき人はいなかった。
「帰ったんだよね…」
しかし、なんだったんだろあの人。まさか、幽霊とか…ってそんなことはないか。…ないよね?
気づくと周りはもう真っ暗になってる。携帯を見ると七時を回ってる。そろそろ帰ろうかな。
夕方と夜の間の自由が丘の空気を感じながら、私は改札口を通り抜けようとする。右ポケットに入ってる財布を出そうとした時にドロップ色のブレスレットが揺れた。
*
「やっと昼休みかー。あ、私ちょっとトイレ行ってくるね」
「ねー、そういえばさ昨日のことって知ってる?」
「ん、なにが」
「あのさ、私のお兄ちゃんが自由が丘の駅で駅員のバイトしてるんだけどさ。五時前くらいだったらしいんだけど落し物があってさ。なんか黒い袋にくるまれてるものだったらしいんだけど、そん中からサバイバルナイフが出てきたんだって」
「うわ、すご。それ危ない人が拾ったらやばかったじゃん」
「うん、拾ったのが親切な人でよかったなー、って駅員の仲間とかと話してたらしいんだけど、けど続きがあってさ。昨日東横線がちょっと運行が遅れたの知ってる?」
「ううん、昨日電車使ってないし」
「実はさ、なんか電車の中で変な男が暴れまわって、それでその騒ぎで遅れちゃったらしいんだけど、そのナイフがさ。そいつが持ってきたものらしかったんだ」
「え、それってもしかして」
「うん、そいつ誰か殺す気とかだったんじゃないかな。なんか警察の人がお兄ちゃんとかに事情聴取してそれでナイフは証拠として持ってかれたらしいし。だけどその男すっごく弱かったらしくてすぐ取り押さえられたから被害者もなかったし、あんまニュースにもなってないから知らないかもね」
「うわ、怖。もしさそいつが無差別に人殺す奴とかだったらその電車乗った人やばかったね」
「うん。けどナイフ落としてんだからかなり間抜けな奴だよね」
「うん、かなり間抜け」
「あ、そうそう。こんな話どうでもいいや。昨日のラジオでさ」
「あ、お帰り、弥生」
「お、ねえねえ弥生。昨日の雅治のラジオ聞いた?」
「もちろんじゃん。やっぱさあ、雅治はさ…」