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恋を忘れる薬を2度飲んだ令嬢は、3度同じ商人に恋をした

作者: 保篠灯
掲載日:2026/06/12


「セレスティア・エルローズ! 僕は無愛想なお前との婚約を破棄し、愛らしいフローラと新たに婚約を結ぶ!」

 

 のどかなランチタイムは、そんな言葉で終わりを告げた。


 声のした方へ目を向けると、そこには濃い青の目に隠しきれない怒りをにじませた我が婚約者――エドガー・ヴァルハルト様と、怯えたようにピンクブラウンの目を潤ませるフローラ・アーデン男爵令嬢がいた。

 ふたりはまるで恋人同士のように、お互いに身を寄せ合っている。

 

 ついに来てしまったか。

 私が感じたのは、それだけだった。


 ちょうど食べ終わったところで良かった、と胸をなで下ろしながら口元を拭く。それから手早く食器をまとめ、トレーを手に立ち上がった私は、エドガー様へと向き直ってニッコリと笑顔を作った。

 

「かしこまりました」

「お前は嫉妬のあまりフローラに嫌がらせを……って、待て! どこへ行く!」

 

 言うだけ言って、さっさとこの場から立ち去ろうとした私を、エドガー様は必死の声で呼び止めた。 

 

 けれど私は振り向かなかった。

 今までの経験で、嫌というほどわかっている。どうせ何を言っても、私の声が届くことはない。

 慣れたと思ったけれど、改めて考えるとやはり悲しい。

 けれども、悲しんでいるとバレるのも――つけ込める隙があると思われるのも癪だ。振り返らぬまま、できるかぎりそっけなく、端的に告げる。

 

「婚約破棄には賛同いたします。その他の条件などは、エルローズ家とヴァルハルト家の話し合いにて決定いたしましょう。……それでは、所用がございますので失礼いたします」

「な……」

 

 去り際、チラリと二人へ目をやると、私の反応が予想外だったのだろうか。エドガー様とフローラ様は、ポカンと口を開けて固まっていた。


 いったい何がそんなに驚くことだったのか。私のことを散々無下に扱ってきたくせに、今さら婚約破棄に取り乱すとでも思っていたのだろうか。

 彼らだって腐っても貴族。いくらなんでもそこまで考えなしなはずが……いや、二人ならありえない話でもないかもしれない。本当に何も考えていなかったのかも。

 だとしたら余計に、婚約破棄にはせいせいする。

 

 そんなことを考えながら、廊下を突き進んでいく。

 向かうのは彼がいる場所だ。

 

 貴族の子女たちが通うこの学園には、予約制のサロンがいくつかある。

 その中にひとつだけ、事実上、その人専用の応接室と化しているサロンがあるのだ。

 

 深呼吸をして、部屋をノックする。

 

「どうぞ」

「……失礼します」

 

 部屋に入ると、褐色の肌に映える金色の目と視線がかち合った。

 人好きのする……けれどもどこか胡散臭いような笑顔を浮かべていた彼の目が、私を捉えた瞬間、苦々しく歪む。

 

「……セレスティア嬢。これで何度目ですか」

「三度目です」

「聞いているのはそういうことじゃないでしょう」

 

 性懲りもなく訪れた私を見て、彼――ノア様は大きくため息をついた。……どうやら呆れられてしまったらしい。

 

「それで、今回は何を?」

「〝恋を忘れる薬〟を」

 

 やや雑に尋ねられる。私は彼の金色の目をまっすぐに見つめて答えた。

 初めて来たときは気後れしていたけれど、三度目となれば流石に慣れる。


 そう、三度目。

 私は彼に――〝金さえ積めば、どんな願いも叶えてくれる〟と呼び声高いヴェスパー商会の代表・ノア様に――同じ薬を既に二回いただいている。

 すべては、同じ人への恋心を忘れるためだ。

 

 片想い病。

 私、セレスティア・エルローズは、そう呼ばれる(やまい)にかかっている。

 

 病、と言ってもその症状は単純だ。

 感情が高ぶることにより、コントロールできなくなった体内魔力が、身体に美しい模様の(あざ)として浮かび上がる。ただ、それだけ。

 この病にかかる人のほとんどが、片想いを拗らせた人。だから、ついた呼び名が〝片想い病〟。

 

 治療法は二つ。その恋が成就するか、その恋を忘れるか。

 

 また、一説によると、片想い病によって身体に現れた痣は、恋した相手の特徴を反映しているらしい。

 そして、おそらくその説は正しい。

 

「……念のため、痣を拝見しても?」

 

 言われて、私は制服の袖を捲り上げる。肩のあたりまで来た段階で、濃紺の痣が顔を出した。

 もはや見慣れたその痣は、美しい唐草(アラベスク)模様を描いている。

 私の好きな人が持つそれと、同じ色彩。片想い病の名は伊達じゃないらしい。

 あまりのわかりやすさに、思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 

「本当にまた同じ相手ですか。アンタも懲りないな」

 

 ノア様がまたため息を吐いた。いつもは丁寧な彼の口調が珍しく崩れている。

 怒られているのに、その口調になんとなく親しみを感じてしまって、思わず口元が緩む。

 すぐに咎めるように鋭い視線が飛んできて、私は慌てて咳払いをした。

 

「こほん。……自分でもわかっています。でも、何度も好きになってしまうのだから仕方ないではありませんか」

「……そうですか」

 

 ノア様は静かに呟いて立ち上がった。

 彼は鍵のかかった戸棚を開け、奥から小瓶を取り出した。戻ってきて、私の前のテーブルに瓶をコトンと置く。

 それはもはや見慣れてしまった、薄青の液体の入ったガラスの小瓶だった。

 

「どうぞ。ご所望の、恋を忘れる薬です」

「ありがとうございます」

「残念ながら、こちらで在庫は終了となります。次回以降は取り寄せになりますので、注文の際はご注意を……」

「その必要はありません」

 

 遮る形で言うと、ノア様は目を見開いた。

 

「結果がどうであれ、ここに来るのはこれが最後です」

「そうですか。それは賢明なご判断です」

「最後に少し、私の話を聞いていただけますか? もちろん、お代はお支払いします」

「話、とは?」

 

 足を組み、首を傾げるノア様に、私は早まる鼓動を抑えながら告げた。

 

「私の好きな人の話です」

 

 

 ***

 

 

 私とエドガー・ヴァルハルト伯爵令息の婚約が決まったのは、まだ十歳にも満たない頃だった。

 

 子爵家の娘と伯爵家の息子。

 家同士の繋がりを強くするための、よくある政略結婚。


 けれども、幼い頃から金髪碧眼の美男子として有名であったエドガー様は、幼い私にとってはまるで絵本の中の王子様のようで。

 エドガー様はあまり優しい人とは言えなかったけれど……まだ夢見がちなところもあった私は、彼の濃い青色の目に見つめられるたび、素直に喜んだものだ。

 

 どうせ結婚するのなら、エドガー様を支えられる、素敵な女性になろう。

 そう思った私は、婚約を結んだその日から、よりいっそうの努力をした。


 勉学に励み、礼儀作法を学び、お茶会にも積極的に参加した。

 エドガー様の美貌には敵わなくても、彼に並んだときに見劣りしないよう、容姿には気を遣った。


 幸いにも、エルローズ家特有の銀髪と母譲りの紫の瞳は社交界では比較的珍しく、またエドガー様の色彩との相性がよかったようだ。

 もちろん、お世辞も多分にあっただろうけど……努力の甲斐あってか、二人揃って招かれたお茶会や舞踏会で並んで立つ私とエドガー様は、よく「お似合いだ」と褒められた。

 

 けれど、努力は必ず報われるものではないらしい。 

 

 春の終わり頃。中庭を歩いているとき、噴水の向こうから笑い声が聞こえた。

 

「エドガー様、それでは授業に遅れてしまいますわ」

「構わないだろう。どうせつまらない講義だ」

 

 楽しそうな声に、足が止まった。

 見れば、私の婚約者であるエドガー様が、フローラ・アーデン男爵令嬢の肩を抱いていた。

 

「そうだフローラ、今度の休暇はどこへ行きたい?」

「まあ、そんな……エドガー様のせっかくの休暇に、私のような者がご一緒してしまっていいんですか?」

「ああ、君は思慮深いな。遠慮するな、どこにでも連れて行ってあげよう」

 

 甘い声の二人にまず思ったのは「こんなに人目につくところで、いったい何を」だった。


 いや、もしかしたら何かの間違いかもしれない。ほら、例えばフローラ様が倒れそうになったのを、エドガー様が支えただけ、とか。

 ……なんて、必死にこの光景を正当化しようとしたけれど、ダメだった。

 エドガー様は、フローラ様しか目に入っていないとばかりに濃い青の目を潤ませて、彼女のハニーブロンドの髪に唇を寄せた。フローラ様もまた、自身のピンクブラウンの目を愛おしげに細め、エドガー様の仕草を当然のように受け入れている。

 

 実はこのところ、学園内で、二人の関係についての噂をよく耳にするようになった。


 〝エドガー・ヴァルハルト伯爵令息が、婚約者以外の女性を堂々と連れて歩いている〟


 でも、貴族社会では根も葉もない噂なんてものは日常茶飯事。エドガー様の噂もあくまで噂に過ぎないはず。

 ……そう飲み込もうとしていたのに。

 

「……っ」

 

 突きつけられた現実は、とてもじゃないけれど、冷静に受け入れられるものではなくて。

 だから私は何も言わず、その場を通り過ぎようとして――

 

「おや、エルローズ嬢……でしたか?」

 

 ――穏やかな声に呼び止められた。


 振り返ればそこには、濃紺の髪を後ろで束ねた、エキゾチックな顔立ちの青年が立っていた。


 初対面だけれども、彼が誰かは聞かなくてもわかった。

 彼は、ノア様。王都でも有名な大商会・ヴェスパー商会、その若き代表――金さえ積めばどんな願いも叶えると言われる商人だ。


 本来なら貴族しか入れないはずのこの学園に、貴族とのパイプを作るため、多額の寄付金を使って「特別聴講生」として入学したという珍しい人。彼に目をつけられたが最後、骨の髄まで金銭を搾り尽くされる……と、校内でも噂が絶えない方だ。

 聞けば本来予約制の校内サロンの一室も、今は彼の商談のための応接室と化しているのだとか。

 

 そんな人が、私にいったいなんの用があるというのか。

 そう身構えた私に、ノア様はわずかに微笑んで言った。

 

「顔色が悪いですね」

「……え、」

 

 拍子抜けして、マヌケな声が漏れてしまった。

 令嬢らしからぬ声が自分の口から出たことに遅れて気がついて、慌てて口元を抑える。

 

 ――落ち着け。

 

 私は動揺が明らかにならないよう慎重に、けれども深く息を吐いた。つとめて平静を装いながら、小さく微笑み返す。

 

「……そうでしょうか?」

「そうですよ。食事は?」

「きちんと取っています」

「嘘ですね」

 

 あまりにも迷いのない言葉に、今度は目をぱちくりしてしまった。

 それほど、私の様子はわかりやすかっただろうか。

 確かにここ最近、婚約者の噂のことが頭から離れなくて、食事が喉を通らないことが増えた。夜もなかなか寝付けなかったところに、先ほど嫌な場面を目の当たりにしてしまった。疲れていたことは、確かに否めない。

 けれども、それを初対面の彼に見抜かれてしまうなんて。

 いったい何が目的なんだろう。これにつけ込んで何か買わせようとでもしているのだろうか。そう思ったら、正直に疲労を認めるのも癪だ。

 

「ええと……」

 

 どう答えたものか。

 悩んだ私がしばらく黙り込んでいると、ノア様は吐き捨てるように言った。

 

「浮気性で不誠実な婚約者殿に対して、そこまで心を砕く必要はないと思いますが」

「うわき…………フフッ」

 

 予想外のセリフ。しかも、ものすごい嫌味。

 急に飛び出てきた婚約者の悪評に、私は小さく吹き出してしまった。

 

 すると、ノア様は微笑みを深めて言った。

 

「笑えるなら結構です」

 

 そのときだった。

 胸の奥が、小さく熱を持ったのは。

 

 

 

 

 

 その日から、ノア様とはたまに話をするようになった。

 話す内容はあたりさわりなく、授業のことや、最近の流行のこと、それから婚約者の愚痴など様々だ。

 どうして私を気にかけてくれたのかはわからないけれど、まあ、商人ならではの色々な目論見があるんだろう。例えば、エドガー様とフローラ様という話題の二人の関係者として、ゴシップを聞き出そうと思って、だとか。

 どういう理由だとしても、私にとって気兼ねなく話ができる人は貴重で、ありがたかった。

 

 気づけば、私の中では、ノア様の存在がずいぶんと大きいものになっていた。

 ……いや、存在が大きいなんて、そんなものじゃない。


 正直に言おう。私は、彼に惹かれていた。

 もちろん、男性として。


 自分でも、なんて簡単な女なんだと笑いたくなるような話だと思う。大商人の手腕に――それがノア様の思惑かどうかは知らないけれど――まんまと引っかかってしまうなんて。

 でも、惹かれる自分を止めることはできなかった。

 

 わかっている。この恋は実らない。実らせてはいけない。


 相手が〝浮気性で不誠実〟とはいえ、私は婚約者がいる身。

 それに、ノア様は大商会の代表とはいえ平民だ。いくら私が気にならなくたって、貴族と平民という身分差は簡単に無視できる問題ではない。

 

 だから、私はこの気持ちに蓋をした。

 ……はず、だった。

 

「……っ!」

 

 ある朝のことだ。目覚めてすぐ、肩に違和感を感じた。

 いつもと違う感覚に吸い寄せられるように目を向けて、息を呑む。

 

 そこには、濃紺の唐草模様がくっきりと浮かんでいた。

 

 ――片想い病だ、と直感的に理解した。


 まさか、自分がなってしまうなんて。

 驚く反面、妙に納得している自分もいた。ノア様への想いは、諦めようとするほどに強くなっているのを自覚していたから。

 

「……綺麗な痣」

 

 肩を撫でながら呟く。思わずうっとりしてしまうほど、痣は美しい色と模様をしていた。

 片想いによってできた痣は、一説によると想い人の特徴を示すことが多いという。

 これが私の、ノア様への想いの形。そう思うと嬉しくて……同時に切なかった。

 

「早く消さないといけない、わね」

 

 片想い病。その名が表すとおり、この痣を見れば誰もが「セレスティア・エルローズは誰かに片想いをしている」と理解するだろう。

 そうしたら、この痣が誰の特徴を示しているかということも、やがてバレてしまうかもしれない。それは避けなくてはいけなかった。

 

「片想い病の痣を消すためには……恋の成就か、忘却が必要」

 

 呟いてから、選択肢の無さに思わず笑ってしまった。

 

「そんなの……忘れるしか、方法がないじゃないですか」

 

 

 

 

 

 〝恋を忘れる薬〟

 片想い病の痣を消すための方法を手当たり次第に調べた結果、私が辿り着いたのは、そんな単純な名前の魔法薬、ただ一つだけだった。


 けれどもこの薬は、入手がかなり困難ということで知られていた。


 魔法薬とは、希少な素材を大量に用い、繊細な魔力コントロールで長時間煮詰めることによってようやく完成する薬の総称。

 その中でも、〝恋を忘れる薬〟はそれなりに作成が難しいらしい。


 つまり、この薬を作ることができる人はかなり限られる。

 この学園でも魔法薬作成の基礎は学ぶけれど、私のような素人が作ろうと思って作ることができるものではないらしかった。

 

 でも、この薬を入手する手段が、一つだけある。

 

 予約制のサロンが立ち並ぶ一角、その最奥。

 私は意を決し、噂で聞くばかりだったその場所のドアを叩いた。

 

「どうぞ」

 

 作り物めいた穏やかな声を受け、ドアを開ける。

 

「ご来訪、心より歓迎いたします。紳士淑女の皆さまの願いを叶えます、ヴェスパー商会でございます」

 

 瞬間、朗々とした謳い文句が響いた。

 目が合うよりも先に、彼――ノア様が、こちらへ恭しく頭を下げていた。


 ここは、ノア様専用という噂がまことしやかにささやかれているサロンだ。

 ヴェスパー商会、という紹介の仕方を聞くに、どうやら彼の商談用の応接室と化しているという噂は本当らしい。

 室内には、これもヴェスパー商会の取り扱う商品だろうか、異国情緒漂う品々が、所狭しと並べられている。

 私が知る、他のサロンの様相とは大違いだった。

 

「おや、エルローズ嬢ではないですか。こちらでお会いするのは初めてですね」

 

 私が面を食らってしまって黙り込んでいるうちに、頭を上げていたらしいノア様に声をかけられた。

 ニコリと浮かべられた笑顔は、部屋の雰囲気のせいか、いつもより怪しく感じてしまったけれど、その声には聞き慣れた親しみが滲んでいた。少しだけ安堵する。


 どうぞお掛けください、と促されるまま、ソファに腰掛ける。

 私が腰を下ろすのとほぼ同時に、部屋の隅にいたらしいメイドがお茶を用意してくれた。どうやらヴェスパー商会はメイドの質も高いらしい。お茶が置かれるまで、まったく気配がしなかった。

 そして、お茶も適温でおいしかった。

 

「さて、本日はどういったお悩みで?」

 

 私がティーカップを下ろしたのとほとんど同時に、ノア様はよりいっそう笑みを深めて切り出した。


 ――来た。


 思わず体に入ってしまった力を抜くべく、私は小さく息を吐いた。それから背筋を伸ばし、努めて毅然とした態度を作る。

 

「まず、確認させてください。こちらでお話しした内容が、外へ漏れることはありますか?」

 

 するとノア様は、心外だ、とばかりに首を振った。

 

「まさか! 商売は信頼が第一です。お客様のお悩みも、購入された商品もすべて、当商会から外部へお話しすることはありません。相手が上級貴族であっても、です。……まあ、お客様が喧伝されるのを止めることもありませんが」

「そうですか。それを聞いて安心しました」

 

 やはり、ヴェスパー商会は信頼できる。

 確信が持てた私は、制服の袖を、二の腕が見えるまで思い切り捲り上げた。

 

「っ!? き、急に何を……」

 

 ノア様が、驚いたようにサッと目を背けた。どうやら、令嬢の肌を見まいとしてくれたらしい。

 ……けれど、それでは意味がない。

 

「こちらを見ていただきたくて」

 

 私が肌を見せつけたのが単なる奇行ではない、ということを伝えるべく、できるだけ落ち着いた声で告げる。

 それが功を奏したらしい。おずおずとではあったけれど、ノア様の視線が少しずつこちらへ向けられた。

 やがて、私の見せたいものが――肩にできた痣が、目に入ったらしい。

 

「……片想い病ですか」

「はい」

 

 得心したように呟かれた言葉に頷く。

 するとノア様はドキマギとした様子から一変、和やかな雰囲気になった。

 

「それはそれは、お気の毒に」

「笑わないのですね」

「なぜ笑うんです?」

「……いえ、失礼しました」

 

 思わず漏れた本音に、心底不思議そうな顔で返される。

 それを見て、自分が無意識の内に予防線を張っていたことを自覚した。


 エドガー様じゃあるまいし、この人が――ノア様が、他人のことを笑うなんてあるはずがない。

 もしそうだったら、私はノア様のことをここまで好きになっていないのだから。

 

「では、お望みは惚れ薬ですか?」

 

 惚れ薬。その選択肢は考えもしなかった。

 もし、私が惚れ薬を手にしたら。その顛末を、瞬時にシミュレートする。

 結論は、すぐに出た。

 

「いいえ、〝恋を忘れる薬〟をいただけますか」

「〝恋を忘れる薬〟、ですか。可能ですが……本当によろしいのですか? 自慢ではありませんが、当商会で扱う惚れ薬の効果は評判ですよ」

「ええ。こうするしかないんです」

 

 惚れ薬を使って、ノア様に私のことを好きになって貰ったとしても、状況は変わらない。

 私には婚約者がいて、ノア様とは身分差がある。結局恋が叶うことはないのだ。


 だったら、夢を見るよりもいっそ――全部忘れてしまいたい。

 

「承知いたしました。……では、少々お待ちください」

 

 切実に笑った私に、何か感じるものがあったらしい。ノア様はそれ以上聞かずにそう言って、メイドへ何やら指示を出した。


 しばらくして、メイドは部屋の奥から小さなガラス瓶を持って戻ってきた。

 コト、と音を立てて、目の前のテーブルに置かれる。美しい装飾の施された瓶だった。中にはキラキラと輝く薄青の液体が入っている。

 少なくともその色は、私が事前に調べてきた〝恋を忘れる薬〟の特徴に合致していた。

 

「どうぞ。ご要望の品です。一瓶すべて飲み干していただくことで、即座に効果を発揮します」

「ありがとうございます。お代は……こちらで足りますか?」

 

 代金について触れられるより先に、私は用意してきた金貨を差し出した。

 この薬の相場より、少しだけ上乗せした額だ。

 

「ええ、問題ありません。では、契約成立ということで」

 

 ノア様は金貨にザッと目を向けて、すぐにニコリと笑みを作った。良かった。足元を見られる可能性もあったけれど、なんとか足りたらしい。

 これで、眠れぬ夜とはおさらばできる。ホッと胸を撫で下ろしながら、私は席を立った。

 

「エルローズ嬢」

 

 部屋を出る間際、ノア様に声をかけられた。

 

「何かあればまたお越しください。それこそ、『やっぱり惚れ薬が欲しい』なんてご要望も、どうぞ気兼ねなくお申しつけくださいね。まあ、お代はいただきますが」

「……ふふ」

 

 交渉を終えて安心していたからだろうか。普段とは違う饒舌なノア様の様子に、私はつい笑みをこぼしてしまった。

 

「商人としてのノア様は、なんだか生き生きしていますね」

「……当然です。こちらが本分ですから」

 

 ノア様はほんの少し目を丸くした。

 それから、優しげな笑顔になって言う。

 

「エルローズ嬢」

「今度はなんでしょう?」

「その男のこと、忘れられるといいですね」

 

 自分の顔から、表情が抜け落ちたのがわかった。

 不意に、心臓を針でつつかれたような心地がした。

 

 ノア様はきっと、〝その男〟が誰を意味するかわかっていない。だから、単純に私を……学園内でたまに話をする知人の選択を、応援するつもりで言ってくれたのだろう。

 その言葉が、私にとってどれだけ残酷か知らずに。

 

「……ええ」

 

 サッと背を向け、なんとか頷く。

 そのまま礼をして、足早に部屋を出た。

 

 どうか、ノア様に変な風に思われていませんように。

 祈りながら、逃げるようにその場を後にした。

 

 

 

 

 

 〝恋を忘れる薬〟の効果は素晴らしかった。


 その夜、私はノア様に言われたとおり、購入した小瓶の中身を一気に飲み干した。

 喉を不思議な爽快感が通り過ぎていく感覚があって、数秒後。私は、胸の中にあった熱がスッと引いていくのを実感した。


 ゆっくりと目を閉じ、ノア様の顔を思い浮かべる。

 これまでは彼のことを思うたび、胸が痛いほどに締め付けられた。

 

 ――けれども、今は痛みを感じない。

 

「よかった……」

 

 心の底から安心して、私は耐え切れず涙をこぼした。

 

 

 

 

 

 それからしばらく、私は比較的心穏やかな日々を過ごした。

 もちろん、エドガー様とフローラ様のことは相変わらず頭の痛い問題だった。けれど、叶わない恋心という一番苦しい問題が片付いて、ようやく心の余裕ができた。

 

 そろそろ、目の前の問題にきちんと向き合おう。エドガー様と、ちゃんと話をしよう。


 そう思った矢先のことだった。

 

「セレスティア! 君はいったいなんてことをしてくれたんだ!」

 

 放課後。エドガー様を探していた私が、中庭に差し掛かったとき――突然、後ろから強く腕を掴まれた。


 いきなりのことに怯えながら振り向く。そこには、整った顔立ち全面に怒りを顕にしたエドガー様が立っていた。

 

「エドガー様? そんなに声を荒らげてどうなさったんですか」

「しらばっくれるな、君がやったんだろう!」

「だから、いったい何が……」

「フローラの持ち物がなくなった。思い当たる節もないという。なら、犯人は君しか考えられないだろう!」

 

 恐怖に竦む身体をなんとか宥めて訊ねた私に、エドガー様はますます苛立ったように大声を出した。

 ただごとではない雰囲気があたりに満ちて、少しずつ人だかりが増え始める。

 

 このままではいけない。まずは場所を変えないと。

 これ以上騒ぎを大きくしないよう、穏やかに笑って声をかける。

 

「エドガー様。残念ながら私は何も知りません。単に物がなくなった、というだけなら、先生方にもご相談のうえで捜索された方がよいのでは? 私も一緒に方法を考えます、まずは場所を移しま……」

「しらばっくれるなと言っただろう!」

 

 ――バチン!

 

 大きな音と共に、頬に今まで感じたことのないほどの衝撃。遅れて、ヒリヒリと燃えるような痛みが襲ってきた。

 

 エドガー様にぶたれたのだと理解するまで、それからたっぷり十秒はかかった。

 

「君も愚かだな。本当に無実なら、もっと慌てて否定するはずだろう。この状況で何も知らないと答えるなんて、〝自分が犯人だ〟と言っているようなものだ」

「……え」

「そんなふうに冷静ぶるのが、後ろめたいことがある何よりの証拠だ」

 

 何を言われているのかわからない。犯人扱いされたから違うと言っただけで……フローラ様の失せ物なんて知らないから知らないと言っただけで、どうして私が犯人ということになってしまうのか。

 

 わけがわからなくて、ただただ、怖い。

 

「観念しろ、セレスティア。君以外に犯人は考えられないんだ。今から共にフローラの元へ行くぞ。そして謝罪のうえ、賠償するんだ」

 

 腕を掴まれたまま、半ば引きずられるようにして連れていかれる。体は竦むばかりで、抵抗の一つもできやしなかった。


 ああ、エドガー様は昔からそうだった。自信に満ち溢れる反面、思い込みが強くて、人の話を聞いてくれない。伯爵家よりも家格の低い子爵家の生まれである私の話は、なおさら。

 それでも。私が我慢すれば、と。私がいっそう賢くなって、上手くエドガー様を窘めて、上手く立ち回れば、と。そう思って努力を重ねてきた。


 でも、気づいてしまった。

 

 ――もう、無理だ。

 

「……っ、嫌」

「――お言葉ですがヴァルハルト様」

 

 私が錯乱しかけた刹那、エドガー様を呼び止める鋭い声があった。


 声に驚いたのかエドガー様の力が緩んで、私は咄嗟に腕を引き抜いた。

 そんな私に一瞬だけ不愉快そうな視線を寄越した後、エドガー様は声の主に向き直る。

 

「なんだ、お前は……ああ、噂の商人か」

「ご存じでしたとは、光栄です。ヴェスパー商会を営んでおります、ノアと申します」

 

 足元から頭の先までジロジロ見て、ようやく合点が行ったらしいエドガー様に対し、ノア様は恭しく頭を下げた。

 

「で? 平民が僕に何の用だ」

 

 腰の低い態度に気をよくしたのか、エドガー様の声のトーンがわずかに上がる。

 ノア様は、その小さな変化を見逃さなかった。

 

「失礼を承知で申し上げます。エルローズ嬢が犯人と思われるのでしたら、正式な証拠を揃えたうえで糾弾なさった方がよろしいかと」

「……なんだと?」

「〝婚約者以外の女にうつつを抜かす令息が、証拠もなく婚約者を殴った〟」

「っ」

「周囲にはそう見えております」

 

 微笑みを絶やさずに語ったノア様に反して、エドガー様の表情はみるみるうちに曇っていった。

 慌てて周囲を見回している。本当に今の今まで、人だかりができていることに気づいていなかったらしい。

 けれども、今さら慌てたところでもう遅い。見物者はまさにノア様が語ったとおりの目で、エドガー様を見つめているのだから。

 

「まあ、仮に彼女が犯人だったとしても……女性の頬を打つ権利は、伯爵家にも存在しないと思いますが」

 

 そう告げるノア様の声は穏やかだった。

 けれど、これまでとは打って変わって――その金色の瞳は、少しも笑っていなかった。

 

「っ……キサマ、平民のくせに」

「ああ、そうそう! ヴァルハルト様、フローラ・アーデン嬢の失せ物についてお困りでしたら、どうぞ当商会へ。髪飾りでも宝石でも、貴族令嬢に相応しい一流品を揃えておりますので」

 

 いたたまれなさの度が過ぎて、怒りに変わったらしい。ワナワナと震え始めたエドガー様に、ノア様は一瞬垣間見えた冷たさが嘘のようにニコリと笑う。

 

「もちろん、代金はいただきますが……貴方様も紳士たるもの、愛する女性を悲しませたままにはなさらないでしょう?」

「あ、ああ……」

「流石でございます! それでは、ご用命の際はどうぞ当商会のサロンへお越しください。最高の品をご用意してお待ちしております」

「……くっ、わかった。セレスティア! 次はないぞ!」

 

 そして、舌戦となればどう足掻いても商人の独壇場。

 ようやく勝ち目がないと悟ったらしいエドガー様は、やがて捨てゼリフを吐いて逃げて行った。

 

 脅威は去った。だから、もう安心していい。

 頭では理解できたけれど、私は呆然としたまま動けずにいた。

 

「……セレスティア嬢!」

 

 そんな私に、ノア様が駆け寄ってくれる。

 

「……ノアさ、」

「黙って。まずは冷やします」

 

 ノア様は言うが早いかポケットを探り、取り出したハンカチを躊躇なく噴水に沈めた。取り出したそれを絞り、頬にあててくれる。

 そのうちじんわりとした冷たさが染みてきて……同時に視界が潤んだ。

 

「う………っ……」

「っ、まだ痛むのですか?」

 

 涙を堪えきれなかった私を、ノア様は普段の穏やかさや冷静さからは考えつかない困り声を出しながら心配してくれる。

 不器用な優しさに、さらに涙が湧き上がってきてしまった。

 

「ひとまず、サロンに行きましょう。お茶でもお出しします。ああもちろん、今回はお代は結構ですよ」

 

 静かに泣き出してしまった私をあやすようにわざとおどけたノア様は、そう言って優しく手を引いてくれた。

 



 そしてノア様のサロンに着く頃、私は否応がなく悟ってしまっていた。

 

「ノア、様。申し訳ありませんが……また、お願いを……聞いていただけますか……?」

「もちろんです。どんな内容ですか?」

 

 ソファに腰かけて、前回と同じメイドに、心が安らぐというハーブティーを入れてもらって。

 ようやく話ができる程度に落ち着いた頃、私は嗚咽混じりに切り出した。

 

「……〝恋を忘れる薬〟を、もう一度いただけますか」

 

 ノア様の笑顔が、ピシリと固まったのがわかった。

 

「……どうしてです? 前に差し上げた薬は……まさか効かなかったんですか?」

「いいえ、薬は効きました」

「では、なぜ」

「……また、好きになってしまったんです」

 

 ハンカチで涙を拭いながら告げる。

 絞り出した声は、自分でも「消え入りそうだ」と笑ってしまいたくなるほどに、か細かった。


 私の答えた理由に、ノア様が呆気に取られたのがわかった。

 自分でも愚かだとわかっている。大金を叩いて魔法薬に縋ったのに、また不毛な恋に落ちてしまうだなんて、バカみたいだ。


 でも、抗えなかった。

 あんな風に――ヒーローみたいに助けられてしまったら、好きにならずにはいられない。


 いや、本当はわかっている。さっきのできごとがなくたって、私は近いうちにまたノア様を好きになっていた。


 だって、ノア様ほど優しい人を、私は他に知らない。

 

「お代はお支払いします。ですからどうかまた、私に薬を売ってください」

「わかりました」

 

 やがてノア様は、私の決死の懇願を聞き入れてくれた。

 前回と同じ戸棚から取り出された同じ小瓶が、同じようにテーブルに置かれる。

 そして私も前回同様、代金を払おうとして――今日は急なことだったから、金貨を用意して来ていないことに気がついた。

 

「今日はお代は結構で……」

「いいえ」

 

 少し悩んで、髪飾りを外した。

 念のため目の前に持ってきて、装飾を確かめる。今はもう採れないという希少な宝石のついた、自分の持っている中でもお気に入りのものだ。見る限り、目立つ傷はついていない。

 それがわかって、安心した。これなら、売り払えば前回用意した金貨と同等くらいにはなるだろう。

 

「こちらで足りますか」

「……ええ、充分です」

 

 髪飾りを差し出すと、ノア様は呆れたように笑って頷いた。

 

「次はないようにしてくださいね」

「……お約束はできません」

 

 どこか悲しそうな表情で釘を刺される。

 私は曖昧に笑って誤魔化した。

 

 ――私はきっと、またこの人を好きになる。

 

 そんな、拭いきれない予感があったから。

 



「エルローズ嬢」

 

 ようやく涙が止まった私がサロンから去ろうとしたとき、ノア様は葛藤混じりの声で私を呼んだ。

 そういえば、さっきはセレスティアと名前で呼んでくれたのに、戻ってしまった。

 

「どうぞ、セレスティアと呼んでください」

「……では、セレスティア嬢。一つ聞きたいことが」

「なんでしょう?」

 

 提案が受け入れられて、名前呼びに喜んだのも束の間。

 

「……そんなに好きですか、その男」

 

 ノア様は、どこか苦々しそうにそう訊ねた。

 

「好きです」

 

 間髪入れずに答える。

 

「忘れたいほど?」

「忘れなければならないほど、です」

「……そうですか」

 

 まっすぐ答える私に、やがてノア様は力なく微笑んだ。

 

「アンタもバカな人ですね」

 

 珍しく崩れたノア様の口調。その心配と嘲りの入り交じった声音に、私はなんとなく察した。

 

 ――ノア様は私の想い人が誰なのか、気づいたのではないだろうか。

 

 聡いノア様のことだ。以前見せた私の肩の濃紺が誰を示すのかなんて、ちょっと考えればすぐに思い至ってしまうに違いない。

 しかもその紺色は、ノア様にとっては見慣れた色のはずなのだから。

 

 つまりは実質的な、失恋宣言。

 そうに違いないのに、私はなぜか落ち着いていた。

 

「存じています」

 

 答えた声は、自分でも不思議なくらい凛として、澄んでいた。

 

 

 

 

 

 薬はまた、素晴らしい効果を発揮した。

 けれども予感していたとおり、私がノア様に惹かれてしまうのは、どうしても抗いようのないことらしい。

 

 三度目の恋は、二度目よりも早かった。

 

 

 ***

 

 

「私の好きな人の話です」 

 

 そう告げた途端、ノア様はわざとらしく大きなため息を吐いた。

 

「……嫌ですね」

「え?」

「嫌です、とお伝えしたんです。貴女の好きな人の話なんて、どれだけお金を積まれたって聞きたくありません」

 

 心底嫌そうな声に驚いて、思わず聞き返す。けれども、返ってきた言葉は変わらなかった。


 正直、この展開は予想していなかった。

 ノア様が私の好きな相手を察している――それはわかっていた。そして、ノア様が私の気持ちに応えるつもりがない、ということも。

 

 でも、ノア様は大商人。お代さえ用意すれば、告白を聞くくらいはしてくれると思っていたのに……まさか断られてしまうなんて。

 

「だいたい、見る目がないんですよ。貴女は」

「どうしてそんなことをおっしゃるんです」

「その痣を見ればわかります。相手はろくでもない男だ」

 

 言葉を失った私に、ノア様は追撃してくる。

 酷い言いように、ムッとした。

 

「……ノア様に私の気持ちはわからないでしょう!」

「多少ならわかります。オレも同じ病気になりましたから」

「……え?」

 

 驚く私をよそに、ノア様は右手の手袋を外した。

 

「好きな女性が、何度も何度も同じ相手に恋をして、しかもその助けをオレに求めて来る。おかげさまでこのザマです」

 

 姿を現したのは、銀色の薔薇。

 月光を溶かしたような色合いの痣が、彼の手の甲に咲き誇っていた。

 

「……片想い、病」

「ええ、貴女とお揃いですね」

 

 呟いた声は、ほとんど音にならなかった。

 それでもノア様には問題なく聞こえたらしい。投げやりな肯定が返ってくる。

 

 それじゃあ、さっきの言葉が――目の前で咲く薔薇の痣が指し示すのは、つまり。

 

「……まあ」

 

 それしか言えなかった。言えるはずもなかった。


 私の肩が、薄く発光したのがわかった。

 視線を落とせば、濃紺の唐草模様が、サラサラと光の粒子に変わって消えていくところだった。


 ああ、やっぱりこれって、そういうことなのか。

 消えゆく痣のおかげで確信が持てて、つい笑ってしまう。

 

 一方、ノア様は理解できないとばかりに目を見開いた。

 

「……どうして、痣が消えて」

「あなたが、好きです」

「は」

「私は……セレスティア・エルローズは、他の誰でもなく、ノア様を、強く……お慕いしています」

 

 ずっと押し殺していた本音は、するりとこぼれていった。


 私は動揺して固まるノア様の右手に両手を伸ばした。

 甲に咲く薔薇を覆うように手を添えて、彼の目を見つめる。

 

「商人としてのあなたの手腕とひたむきさが好きです。私を心配してくださる優しさが好きです。でも、私には婚約者がいましたし、ノア様は大商会の代表とはいえ平民。この想いは、叶わない。忘れるしかないのだと自分に言い聞かせて、何度も忘れようとしました。忘れました。……でも、また好きになってしまうのです」

 

 一度言い始めたら、口は止まることを忘れてしまったようだ。

 でも、言葉が溢れて止まらないのも仕方ないと思う。

 

「でも、私はもう婚約破棄された身。最後に、どんな結果になったとしても……失恋したとしても構わないから伝えよう。今日はそう思って、こちらへやって参りました。でも……」

 

 だって、この気持ちは、ずっと胸にしまっておかなければいけないのだと思っていたけれど……今は違うのだ。

 

 一呼吸置いて、ノア様をまっすぐに見つめる。

 

「勘違いでなければ、ノア様も私のことを、(やまい)になるほど想ってくれているのでしょう?」

 

 言い切った瞬間、視線の先で、ノア様の金色の目が見たこともないほど大きく見開かれた。

 

「嘘だ」

「嘘?」

「だって、アンタの痣は濃い青で……アンタの婚約者の瞳と同じ色で………」

「私にとっては濃紺でしたわ。ノア様の髪の色と同じ色です」

「アンタは、自分が傷つかないために浮気者の婚約者への気持ちを忘れようとする、健気な令嬢だとばかり……」

「ノア様だっておっしゃっていたではありませんか。エドガー様のことを〝浮気性で不誠実な婚約者殿〟って。私、そんな人への片想いを拗らせることができるほど無知な乙女ではありません。健気、という部分は否定しませんけれど」

「じゃあ本当に、アンタはオレのことが……」

 

 消え入りそうな声で呟いたかと思えば、ノア様はボン! と音がしそうなほど一瞬で顔を真っ赤にした。

 私の目線から逃れるようにうつむいて、頭をかく。


 それからたっぷり数十秒ほど経った頃、ノア様は赤くなった頬を隠すように片手で顔を覆いながらゆっくりと顔を上げた。

 

「……三度も、オレを好きになったんですか」

「はい」

「オレを忘れるために、オレのところへ来ていたんですか」

「……はい。それしか方法がなくて」

「ひどい人ですね」

 

 そしておずおずと私に目を合わせて、一言。

 

「爵位を買います」

「え」

「元々打診はあったんです。興味がなかったのですが、考えを改めました。領地も、屋敷も、貴族に認められるだけの実績も揃えます。身分を理由に諦めなくても済むように、オレが全部用意する」

「それは、どういう」

「結婚相手が貴族であればいいんでしょう」

 

 ノア様は顔を覆っていた手を外した。それから、彼の右手に添えていた私の両手を包み込むように、強く握りしめられる。

 

「うちの財力ならどうにかなります。まずは一代男爵からですが……今後のことはどうにかします。貴女にも子供にも、一生不自由はさせない」

 

 そうして未だ赤みの残る顔で、けれども力強い目線で、見つめられる。

 

「だから……オレと、結婚してください」 

 

 瞬間。私の心の中で、ぶわりと洪水のように感情が湧き上がった。

 

「本当に私で、いいのですか」

「貴女がいいんです。この痣が見えませんか?」

 

 なんとか絞り出した言葉に、ムッとしながら返される。

 

「病になるほど恋した人が、三度もオレを好きになってくれていたんです。みすみす逃がすわけないでしょう」

 

 殺し文句だ、と思った。


 ただでさえ恋を忘れる薬を二度飲んで、三度も好きになった相手なのに。ここまで想われていたなんて、幸せすぎて倒れてしまうんじゃないかと怖いくらいだ。


 でも、この現実が夢になってしまわないように、きちんと返事をしなくては。

 

「……はい。私も、ノア様がいいです」

 

 そう答えると、ノア様は泣きそうな顔で笑った。

 握ったままの手の中で、銀色の薔薇が淡く光を放つ。

 

 それから間もなく、ノア様の痣もまた、光の粒子に変わっていった。

 

 

 ***

 

 

 私の痣が消えた日から、少し後の話をしよう。


 エドガー様とは、正式に婚約破棄をした。

 公衆の面前での婚約破棄騒動は、ついにヴァルハルト家とエルローズ家、両家の――どちらかというと私の父の怒りを買ったらしい。

 ノア様から助言をいただいたこともあって、エドガー様からはしっかりと慰謝料を受け取ることに成功した。


 それから、エドガー様との婚約が正式に破棄されたのとちょうど同じ頃。

 ノア様は王家に対する多額の献金と、他国との取引における功績が認められ、宣言どおり男爵位を手にした。

 

 では、晴れてノア・ヴェスパー男爵となった彼が一番初めにしたことは?

 答えは、エルローズ家への婚約の打診。

 

 そんなわけで、私はついにノア様の婚約者となったのである。

 

「ノア様、たまにはランチを……って、またお仕事ですか?」

「ええ。もう少しで陞爵(しょうしゃく)の材料が揃いそうなんです」


 たまにはノア様とランチをご一緒したい。そう考えて彼のサロンを訪れた私の目に飛び込んできたのは、書類の山に囲まれるノア様だった。

 むくれながら口にすると、ノア様は書類から目を離さぬまま、楽しそうにそう言った。


 陞爵――つまりは、子爵になる算段がついたということか。

 まだ男爵にもなったばかりなのに、どうやら、もう既に領地を広げる算段がついているらしい。

 

「このままだと、すぐに伯爵になってしまいそうですね」

 

 呆れ半分、褒め言葉半分で言う。

 するとノア様は顔を上げて、きょとんとした顔をこちらに向けた。

 

「伯爵夫人になるはずだった貴女を妻に迎えるんです。これくらいは当然でしょう」

 

 それから、フッと表情を崩した。

 それはまるで、私のことが愛おしくてたまらない、と言わんばかりの笑顔だった。


「……そうですか!」

 

 まんまと高鳴る胸を悟られぬように押さえながら思う。

 この表情を向けられるたびに、私はきっとまた、何度でもこの人を好きになるのだろう。

 


 END


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