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Samsara~愛の輪廻~Ⅱ  作者: 二条順子
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07.不倫の代償

鬱陶しい梅雨、夏の酷暑を経て青空一面に鰯雲が広がる爽やかな季節を迎えた。

退院した亜希は順調に回復しすっかり元の体調に戻っていた。

明日は舞が小学生になってはじめて迎える秋の運動会だった。


「パパ、あしたは、ちゃんと綺麗に撮ってよ!」

ビデオカメラの手入れをしている耕平に向かって舞は少し命令調に言った。

「パパ、とってよ!」

最近、姉の言うことを何でもオウム返しにする亮がそれを真似る。

「はい、はい、わかってます」

「返事は一回でしょ、パパ」

「でしょ、パパ。」

舞の体操服やはちまきにアイロンをかけながら、亜希は三人のやり取りを

嬉しそうに聞いている。

耕平は週末の東京泊りを止め、土日は子供たちの面倒を見て、家事もよく手伝って

くれるようになった。志津江の言う通り、壊れかけた耕平との関係を修復してくれ

たのは、この世に生を受けることはなかったが、やはり “あの子” だった。

払った代償はあまりにも大きいが、以前のような優しい夫と子供たちとの平穏な

生活を取り戻すことができ、亜希は幸せだった。


「じゃあ、明日のお弁当は腕によりをかけないとね!」

「ママ、頑張ってよ!」

「がんばってよ!」

「亮の名前 “オウム君” に変えなくちゃダメだな」

「それ、いいかもね…。」

家族の楽しい会話が続く中、突然、耕平の携帯が鳴った。

発信先を確認すると少し険しい表情になって自室へ向かった。

このマンションは3LDKだが、三畳ほどの納戸のようなスペースがあり、

耕平はそこを書斎代わりに使っている。

「病院から?」

「うむ…」

暫くしてリビングに戻って来た耕平の表情はまだ硬い。

「じゃあ、これから病院?」

「いや、大丈夫。亮、ボール持っておいで、パパとお外で遊ぼう」

耕平は気を取り直すように息子を連れ外に出た。



電話は杏子からだった。

長期間のニューヨーク出張を終え先週帰国したばかりだった。

亜希の入院前に日本を離れていたので、その間の事情は何も知らない。

彼女が留守の間に “雨降って地固まる” のごとく夫婦関係が修復し全ての

歯車が順調に回り始めたところだけに、杏子の声が悪魔の囁きのように聞こえた。

ニューヨークで新しい恋人でも見つけて、彼女との関係が自然消滅してくれたら

などと、虫のいい事を考えていたが、そんなに都合良く物事が運ぶ道理はない。

学生時代同様、今回の事でも杏子に振り回された感がある。そもそも、彼女の

言葉を真に受け、亜希と木戸の仲を勘ぐり始めた。そして、妄想にでも取り

憑かれたように妻への不信を募らせて行った。


人一倍自尊心の高い杏子のことだから、一歩間違えば大変な事態を招く、いや、

もしかしたら、案外あっさりと別れに応じてくれるかもしれない・・・

耕平は最善の別れ方をあれこれと想定した。“自業自得、身から出た錆” とは

言え、これから直面する難問題のことを思うと気が重くなった。



* * * * * * * 



「やっと、会えたわね…。」

綺麗にネールアートを施した長い指でメンソールの煙草をもみ消した。

メンズ仕立てのカチッとしたスーツを着こなし足を形良く組んでいる姿は、

いかにも仕事ができる女、という感じがする。

「…ねえ、食事はあとにして、うちへ来ない?」

杏子の思惑とは違うが、彼女のマンションの方がレストランやホテルよりも

都合が良いと思った。


「淋しかったわ、耕平…」

部屋に着くといきなり抱きついてきた。

「今日は、大事な話があって来たんだ。」

杏子の身体を制しソファに座ると、煙草を銜えゆっくりと火をつけた。

「あとじゃ、ダメなの?」

不服そうにグラスにブランデーを注いだ。

「もう、終わりにしよう…」

耕平は静かに切り出した。

「何なの、今回は?」

杏子はまたか、と言う顔をした。

「亜希が、流産したんだ…」

「そう、それはお気の毒さま。でも、考えようによってはその方が

良かったんじゃないの。あなただって自分が父親じゃないかも、って

疑っていたわけだし…。」

「そんな言い方はないだろ」

悪意のある冷たい言い方に耕平はむっとした。

「それで、奥さんが可哀想になって私と別れよう、ってわけ?」

冗談じゃないわ、と言うようにグラスの中身を一気に呷った。

「…私はいやよ、絶対に別かれないから!」

杏子はきっぱりと言った。

「耕平、私もあなたに大事な話があるの…」

「…」

「…実はね、妊娠しているの私。もう、四か月よ」

「はあ!?」

耕平は一瞬自分の耳を疑った。

「そんなに驚かなくてもいいじゃない。あなたの子供に間違えないわ、

私には金持ちの御曹司のボーイフレンドはいないもの。なんだったら、

DNA鑑定しましょうか?」

杏子は不敵な笑みを浮かべた。

耕平は嵌められたと思った。なにが、“大人の関係” だ、なにが、

“あなたの家庭を壊すつもりはない” だ。


「俺たち、そんな関係じゃなかったはずだろ?」

「私だって、子供なんか欲しくなかったわ。最初は堕すつもりだった。

でもね、もうすぐ三十八よ。おそらくこれが最後のチャンスだと思ったら…」

杏子はそれまでの態度を一変させ、急に甘えるように耕平に擦り寄って来た。

「…あなたの子供だし、どうしても生みたくなったの。認知してくれとか、

奥さんと別れてくれとか、言ってるんじゃないの。ただ、これまで通り、週に

一回ここへ来てくれればそれでいいの。お願い、耕平」

耕平はもうたくさんだと言うように杏子の身体を払いのけ、ドアノブに手を

かけた。


「絶対に別れないから! あなたの可愛い奥さんがこのこと知ったらどう

思うかしらね。自分が流産した時期を同じくして夫が愛人を孕ませていた

なんて… 私なら、手首を切るかヨーロッパでも地の果てでも恋人のあとを

追うわ、きっと!」

杏子はヒステリックに毒づいた。


杏子のマンションを出た後、頭の中が真っ白でどこをどう歩いたのかまるで

覚えていない。気が付くと新幹線に乗っていた。亜希の入院以来、金曜の夜

帰宅するのは習性になっているらしい。車内販売の缶ビールを立て続け二本

飲んだが、なかなか酔えない。三本目を飲み干すと酔いの代わりに睡魔が

襲ってきた。半時間程うとうとして目が覚めた。

耕平は窓の外に目を遣った。車体は闇の中を突っ走ている。車窓に寄り掛り

深いため息をついた。そう言えば昔、自分と同じような男を描いたハリウッド

映画を見た気がするーー 妻を愛する男が、ふとしたきっかけで知り合った

女と不倫関係に陥り、泥沼のような深みにはまって行く。最後は相手の女が

殺人鬼と化し妻や子供に危害を加えようとするーー確か、そんなストーリーの

ホラームービーだった。杏子の顔がその殺人鬼を演じた女優の顔とだぶる。


耕平は再び深い溜息をついた。

亜希を悩ませていたあの悪戯電話の正体は、おそらく杏子だろう。強引に別れを

強いれば、彼女の激しい性格からして平気で亜希を傷つけるような行動を取り

兼ねない。と言って、このまま杏子との関係を続けるわけにはいかない・・・

耕平は、出口の見えない真っ暗なトンネルの中に迷い込んだ野良犬のような

心境だった。



* * * * * * * 



「もしもし、今ねえ、珍しいお客さまが見えてるの…。」

「?…}

「…杏子さんよ、ちょっと代わるね」

耕平はぎょっとした。杏子が家に来たことはこれまで一度もなかった。

「耕平、しばらくね。実家に帰ってたら、久しぶりに亜希さんや子供たちに

会いたくなってお邪魔してるの」

「いったい、どういうつもりなんだ!?」

妻がそばにいることも忘れ思わす声を荒げた。

「…明日、東京に戻るから金曜辺りどこかでランチでもどう? 電話待ってるわ。

じゃ、奥さまと代わります」

杏子は平然と会話を続けた。

耕平は背筋が凍る思いがした。あれ以来何かと口実を設けては彼女と逢うのを

避けている。そんな耕平の態度に業を煮やし、自分は本気だと言う警告の意味を

込め直接行動に出たのだろう。このまま放っておいたら次は何をしでかすか

分からない・・・



金曜の午後、思い足を引き摺って杏子のマンションに向かった。

早めに帰宅したのか杏子はすでに部屋着に着替えていた。リビングのソファに

深々と座り、相変わらず煙草をふかしている。妊婦の自覚などまるでない。

本当に妊娠しているのかと疑いたくなる。


「やっと、来てくれたわね」

煙草をもみ消しながら耕平を見上げた。

「家まで押しかけてくるなんて、どういうつもりなんだ?」

「近くまで行ったからちょっと寄っただけよ。素敵なマンションじゃない。

奥さんも相変わらず若くて綺麗ね、羨ましいわ…

子供たちも大きくなって、舞ちゃん陽子に似てきたみたいね。亮ちゃん、

赤ちゃんの時はママ似だと思ったけど… やっぱり男の子って父親に似てくる

のかしら。ちょっと神経質そうなとこ、どことなくあの御曹司に似てない?

やっぱり前の男も、」

「そんなことより、これからの事ちゃんと話し合おうじゃないか」

耕平は黙って聞き流していたが、これ以上聞くに堪えないと言うように

杏子の話を遮った。


「だから、この前も言ったように、私は別に認知とか養育費なんて要らないの。

ただ、あなたの子供が欲しいだけ。週に一回来てくれさえすれば、二度と家に

押しかけるような真似はしないわ」

「けど、こんなこと一生続けるわけにはいかないだろ!?」

「じゃ、とにかくこの子が生まれるまで… あなただって今このことが奥さんに

バレると困るでしょ? これまで通りちゃんと来てくれたら、あなたの家庭を

壊すようなことは絶対しないから、約束するわ」


前に聞いたような台詞だと思った。子供が生まれたら、また杏子の要求は

エスカレートするだろう。だが、今はとりあえず彼女の言うことを聞くしかない。

やっと流産のショックから立ち直った妻に、子供を二度と産めない妻に、夫の

愛人の妊娠はあまりにも残酷すぎる。不本意な杏子との不倫関係を継続して

でも、それだけは絶対に回避しなければならない。

耕平は自らに苦渋の選択を強いた。













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