06.暗雲(2)
耕平が附属病院の夜間救命に駆け付けると、亜希はすでに手術室の中にいた。
ここに搬送されて来た時には、子宮内にかなりの量の出血があり、すでに
出血性ショック状態で意識が混濁していた。
当直の医師が「子宮全摘の緊急オペになるようです。岡田先生が執刀されますが、
立ち会われますか?」と聞いた。「いや、お任せします」とだけ言うと、耕平は
ベンチに座り込んだ。とても妻の手術に立ち会えるような精神状態にはなかった。
(こんな事になったのは全部、俺のせいだ…)
耕平は両手で頭を抱え込んだ。
亜希から妊娠を知らされた時、どうしても素直に喜べなかった。脳裏に、
木戸崇之の姿がちらつき妻への不信を募らせた。亜希ときちんと向き合うことを
避け、杏子に逃げ場を求めていた。子供の誕生を伴に喜ぶどころか、つわりで
辛そうな妻に優しい言葉一つかけてやれなかった。亜希を苦しめ精神的、肉体的に
追いつめ、こんな最悪の結果を招いてしまった原因はすべて自分にある。
今、手術台の上にいる妻が、子供を失くした上に子宮喪失の事実を知った時の
悲しみを慮ると、胸が張り裂けそうになる。
長い夜が明けた。
回復室から病室に移された時、すでに窓の外は白みはじめていた。
深い眠りから覚めた。身体の上に重りを乗せられたような圧迫感があるものの、
麻酔が覚め切っていないのか、あまり痛みは感じない。頭の中は霧がかかった
ようにぼんやりとしている。流産したことまでは覚えているが、その後の
記憶がはっきりしない・・・
「亜希…」
自分の名を呼ぶ耕平の声がする。応えようとするのだが、上手く言葉にならない。
「…もう大丈夫だよ、何も心配いらないから…。」
何がどう大丈夫なのか、言葉の意味が解らない・・・
--病室の壁が白い… 田代医院のは確かピンクがかった淡いベージュの
はずなのに… 耳元で心拍数や血圧を測るモニターの電子音がする…
医師や看護師たちの慌てたような靴音、救急車の赤く点滅したライト、
けたたましいサイレンの音… --
「ここどこ? 私は、うっっ…」
突然、鋭い痛みが腹部を襲った。
「鎮痛剤の投与、お願いします!」
ナースコールをする耕平の声が遠くで聞こえる。亜希は再び深い眠りに落ちて
行った。
「高村先生、仮眠室で少しお休みになられたらどうですか?」
中年の看護師長が耕平に声をかけた。
「ありがとう、でも大丈夫です」
亜希のそばにずっと付いててやりたかった。そうする以外に、今、自分が彼女に
してやれることは何もない。
「じゃあ、熱い珈琲でもお持ちしますね」
師長は少し笑みを浮かべて病室を出て行った。彼女の眼には、一睡もせず亜希に
付き添う耕平が、若い妻を溺愛する夫の姿に映ったのかもしれない。
* * * * * * *
「お幸せですね、あんな優しい旦那様がいらして… 先生、一睡もせずに
そばに付きっきりでしたよ」
手際良く傷口の消毒と絆創膏交換をしながら師長の松木が言った。
亜希は黙って微笑みを返した。
「松木さん、私、いったいどんな手術を受けたのですか?」
「あとで、岡田先生の方から詳しい説明があると思います」
師長は一瞬、手を止めたが患者の顔を見ずに答えた。
まだ二十代の若い女性にとって子宮を失うことがどんなに残酷なことか、
ベテランの看護師長は熟知している。ましてや、今回のように事前に知らされる
ことなく突然の場合は、そのショックの大きさは計り知れない。
こういう場合は、担当の医師から淡々と事務的に事実だけを告げられる方が良い。
あとは、夫や家族の理解と愛情が心のケアをしてくれる。
「高村先生も同席されるそうです。午後からオペが入っているようなので、
夕方になるかもしれませんね」
耕平のいる脳神経外科の病棟は、中庭を挟んで反対側にある。
夫が同席するということは何か悪い病気でもみつかったのでは、と亜希は少し
不安になった。
「どう気分は、傷口痛まないか?」
夕方遅くになって疲れた顔をした耕平が病室にやって来た。
「あなたの方が病人みたい、寝てないんでしょ、大丈夫?」
「俺は平気だよ」
無理に笑って見せた。
徹夜の後、マンションに帰り数時間の仮眠を摂っただけで、子供たちの着換えを
持って志津江のところに行き、午後からオペをこなした。
耕平はさすがに疲れていた。
「子供たち、どうしてる?」
「心配しなくても大丈夫、お義母さんがちゃんと見ててくれるから。
亮はさすがに寝る前にベソかいたようだけど、舞がお姉ちゃん風吹かせて
しっかり面倒見てたらしい」
「そう… 早く退院しないとね」
「今は何も心配しないで、ゆっくり養生しないと…。」
耕平は時間を確認するように腕時計に目を遣った。
程なくして、担当医の岡田医師が婦人科の川辺を伴って病室に現れた。
「気分はいかかですか? 傷口は痛みませんか?」
岡田は穏やかな口調で言うと耕平と軽く目礼を交わした。
年は五十代前半、頭の毛が薄く少々肥満気味で、外科医というよりは商店街の
愛想の良い世話役という風体だ。
「いいえ、大丈夫です。岡田先生、この度は大変お世話になりました」
夫と同じ病院の先輩医師ということもあって、亜希は少し緊張した面持ちで
丁寧に挨拶した。
岡田は緊急事態でやむなく子宮を摘出した経緯をわかりやすく丁寧に説明した。
一通り言い終わると、「今後のことは、川辺先生の方から」と言って、若い
婦人科医と交代した。川辺は三十そこそこの痩せぎすで度の強い眼鏡をかけた、
いかにも優秀な女医という感じがする。
「子宮が無くなっても卵巣が残されているかぎり、女性ホルモンの分泌は
継続しますから、妊娠が不可能なだけで、女性機能は以前と何ら変わり
ありません」
川辺は言葉の抑揚もなく通り一遍に説明した。
(子宮がない!?… 子供が二度と産めない!?… )
一瞬目の前が真っ暗になった。涙が込み上げてくるのを必死で堪えた。
医者の妻として夫の同僚の前で無様の姿だけは晒したくない。その思いが
何とか感情をコントロールさせていた。
医師たちが「お大事に」と言って病室を出て行くや否や、亜希は枕に顔を埋めた。
--きっと、この赤ちゃんは耕平さんとの仲が元通りになるようにって、
神様が授けて下さったのね。ーー
志津江のあの言葉だけが亜希を支えていた。その子を失ったばかりか、もう
二度と子供を産むことができない・・・
何もかも奪われてしまったような喪失感が亜希を覆った。
(すまない…)
泣き崩れる妻を眼前になす術がなかった。
震える背中を擦りながら、あらためて自分が亜希にもたらした事の重大さを
痛感した。これ以上愛する妻を苦しめることは絶対に許されない。
耕平は、今度こそ何があっても杏子との関係をきっぱり清算することを心に
誓った。




