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Samsara~愛の輪廻~Ⅱ  作者: 二条順子
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05.暗雲(1)

崇之がヨーロッパに戻ってから半月が過ぎた。何の音沙汰もない。

あんな苦い別れ方をしたのだから当然かもしれない。

CDプレイヤーから情感豊かなバイオリンの音色が流れてくる。

クライスラーの “愛の悲しみ” ーー コンサートのアンコールに

“愛の喜び” と対になってよく使われる。ピアノとバイオリンの為にかかれた

この曲を二人でよく演奏した。

崇之は、情緒たっぷりで感傷的なメロディーがつづく、この “悲しみ” を

好み、亜希は躍動感溢れる明るく爽快な “喜び” を好む・・・

 彼と過ごしたあの豊潤な時間が、今は遠い昔のように懐かしい。


本格的な梅雨の季節に入り連日うっとおしい天気が続いている。

身体が気だるく熱っぽい。食欲もまるでない。天候のせいだと思っていたが、

そのうち激しい吐き気に襲われるようになり、産婦人科の門をくぐった。

三か月だった。亮が二歳を過ぎた時、亜希は次の子を望み耕平も賛成して

くれた。だから子供ができても不思議はない。むしろ喜ぶべきことなのに、

亜希の心はこの梅雨空のようにどんよりと曇っている。

また以前と変わらない平凡で平和な日常が戻ってきたはずなのに、何かが違う。

崇之と軽井沢に行って家まで送ってもらったあの夜以来、何かが狂い始めた。

何もやましいことはなかったのに、なぜか本当のことが言えなかった。

耕平はそれを見破り二人の仲を疑った。それを知らしめるため、言葉で問い

正す代わりに、妻に屈辱的とも言えるような行為を強いた。

あんな夫は初めてだった。嫌悪感さえ覚えた。

あれ以来、崇之に惹かれていく自分をどうすることもできなかった。そして、

耕平との間にできた心の溝が徐々に深まって行くのを感じるようになった。


お腹の子の父親は夫に間違えないのに、子供の誕生を告げるのを躊躇っている。

耕平はまだ崇之との仲を疑っている。亜希自身、この妊娠に戸惑いを隠せない。

肉体関係はなくても崇之に心を奪われたのは事実で、気持ちの上で夫を裏切った

ことに変わりない。むしろ、その方が身体を許すことより罪が深いかもしれ

ない。そんな母親に抗議するかのようにお腹の子供は母体を苦しめる。

酷いつわりと貧血で体調は最悪の状態だった。それに加え、日に何度もかかって

くる無言電話が亜希の神経を煩わせていた。




* * * * * * * 



「こんにちわ」

「あら、いらっしゃい。ちょっと見ない間にまた大きくなったわね」

志津江は亮を抱き寄せ頬ずりをした。入院していた姉の病状が安定し千葉から

自宅に戻っていた。

亜希は、陽子の月命日には必ず花を携えお線香を上げに来る。「もういいのに」

と何度言っても、それだけは欠かそうとしない。前妻の母親への義理立てだけで

続くものではない。亜希にはそういう古風なところ、人を思い遣る優しいところが

ある。別居してからも電話でよく話をするし、何かあれば「お母さん、お母さん」

と、頼ってくる亜希が実の娘のように可愛いかった。

久しぶりに会う亜希は顔色が冴えず、心なしか痩せたような気がする。


「亜希ちゃん、どこか悪いんじゃないの?」

心配そうに志津江が尋ねると、少しはにかんだように首を横に振った。

その様子から察した志津江が、「もしかして、おめでた?」と言うと、

亜希は小さくこくりと頷いた。

「そう、よかったわね。亮もこれでお兄ちゃんになるんだ」

膝の上でお菓子を頬ばる孫の頭を撫でた。

「耕平さん、喜んだでしょ?」

「…まだ、話してないの」

亜希は俯いたまま、か細い声で言った。

「耕平さんと、何かあったの?」

「……」

「ひとりで抱え込まないで、私にも話してちょうだいな」

娘を思い遣る母のような志津江の言葉に促され、亜希はこの三か月間の

出来事を打ち明けた。


「そう、私が留守の間にそんなことがあったの…。辛かったでしょ…

でもね、亜希ちゃん、あなたはその人と何もやましいことしたわけじゃ

ないんだから、正々堂々としていればいいのよ。そりゃ、夫以外の男性に

心がときめいたり揺れ動いたりするのは、褒められたことではないけど、

長い結婚生活の間には、そんなこと一度や二度はあるものよ。でも、

そのこと、耕平さんには絶対言っちゃダメよ。男はね、妻がよその男の人と

話をするだけでも嫌なものなのよ。

…きっと、この赤ちゃんは二人の仲が元通りになるようにって、神様が

授けて下さったのよ。すぐ、耕平さんに報告しないとね」

志津江の話を聞いているうちに気持ちが楽になったのか、「ありがとう、

お母さん」と言うと、亜希は明るい表情で帰って行った。


居間に戻った志津江は、ほっとした思いで熱いお茶を入れなおした。

だが、亜希の話の中で一つ気にかかることがあった。

最近、無言電話や「あなたの夫は不倫している」と言ってはすぐに切れる悪戯

電話があるという。まさかあの耕平が浮気しているとは考えられないが・・・

志津江はふと、陽子の高校時代の友人が、東京のホテルのレストランで食事を

している耕平と島崎杏子を見た、と話していたのを思い出した。

東京から転校してきた杏子は同級生を小馬鹿にしたようなところがあり、

地元では誰も良い印象を持っていない。あの時は、高校の同窓生なのだから、

一緒に食事をすることくらいあるだろうと、思っていたが・・・

あの杏子ならやりかねないと思った。彼女は昔から耕平に好意以上のものを

持っている。そのことで、娘の陽子がずいぶん悩んでいる時期があったのを

覚えている。志津江は何か嫌な予感がした。



* * * * * * * 



今月は陽子の月命日が休みと重なったため、志津江は耕平たちを呼んで一緒に

食事をすることにした。亜希からその後連絡がないのも気がかりだった。

気のせいか二人の様子がどことなくぎこちない。つわりのせいかもしれないが、

亜希の顔色が悪いのも気になった。


「お義母さん、今日は、ご報告がありまして… 」

食事が終わって暫くすると耕平がおもむろに切り出した。

「…実は、来年二月に、三人目が生まれることになりました」

耕平はちょっと照れくさそうに言った。

「そう、それはおめでとう! よかったわね、亜希ちゃん」

志津江は何も知らなかったように嬉しそうに微笑みかけると、亜希もにっこりと

頷いた。

(何事もなくて何より…)

志津江は、二人の間に波風が立つこともなく “事” が無事に丸く収まった

様子に安堵した。

「ちょっと、子供たち見てくるわね」

二階でテレビを見ている孫たちの様子を伺いに志津江は居間を離れた。


ーー「まだ、疑ってるの!?」

  「君だって、本当のところはわからないんじゃないのか!?」

  「ひどい! あんまりだわ… 」--


下に降りて来ると、居間から二人の激しいやりとりが聞こえた。

やれやれと言うように志津江は溜息をつき二階に引き返そうとした時、

耕平の慌てて声がした。

「どうした、大丈夫か!?」

亜希が下腹を抑え苦しそうにうずくまっている。

「お義母さん、すぐ田代先生に電話してください!」

田代産婦人科は舞と亮が産まれた病院で、この近くにある。

耕平は亜希を抱きかかえるようにして家の前に駐車してある車に乗せ

病院に向かった。


暫くして、亜希が流産したと連絡が入った。耕平は深夜近くになって

憔悴しきった顔で戻ってきた。

「大変だったわね… 亜希ちゃん、大丈夫なの?」

「少し出血があるんで、二、三日は入院になると思います」

「そう、あなたも疲れたでしょ、今、熱いお茶入れるわね」

志津江は急須に湯を注ぎながら言った。

「子供たちは?」

「ママのこと心配してなかなか寝付けなかったけど、さっき、ようやく。

今夜はこのまま寝かせてあげて」

「すみません」

「耕平さん、」

志津江は咳払いを一つしてから居住まいを正した。

「…どうして、亜希ちゃんのこと信じてあげられなかったの?」

穏やかな口調だが、少し責めるような目で耕平の顔を見た。

耕平はえっ、と言うように義母を見返した。

「亜希ちゃん、先月ここへ来たのよ。あなたが、木戸さんっていう

人と彼女の仲を疑っていることで、ずいぶん悩んでいたわ。

耕平さんの赤ちゃんを授かって、これでやっと舞とも亮とも血の

繋がった子供ができるのに、このままじゃ、あなたに喜んでもらえ

ないんじゃないかって…。」

耕平は黙って俯いたまま茶を啜った。

「あのがあなたを裏切るような真似するわけないってこと、耕平さんが

一番よくわかっているはずよ。愛する人に裏切られる苦しみ、悲しみを

一度でも味わった人間は、決して愛する人を裏切らないわ」

亮が生まれてくる経緯を感知している志津江は、語気を強めて言った。

耕平は下を向いたまま、ふーと大きく息を吐いた。志津江はさらに続けた。

「女ってね、お腹に子供を宿すと神経が過敏になって、情緒不安定って

言うの、ちょっとしたことで、イライラしたり涙が出たり……

あなたが、さっき亜希ちゃんに浴びせた言葉は、夫が妊娠中の妻に対して

決して口にしてはいけないことだったわね」

耕平が実の娘の婿であれば、こうもはっきりと口にできないだろうが、

遠慮がない分、志津江の口調は強く耕平を叱責するものになった。

「変な電話がかかってくるようだけど、お願いだから、これ以上あの

悲しませるようなことだけはしないでね」

耕平の浮気に釘を刺すようにきっぱりと言った。

義母にすべてを見透かされ、耕平に弁解の余地はなかった。

重苦しい空気が流れる。その沈黙を破るように耕平の携帯の着信音が鳴り

響いた。


「もしもし、えっ? わかりました。じゃ、直接そっちに向かいます」

田代医院からだった。出血が止まらず附属病院へ転送するという。

「詳しいことは後で連絡します、子供たちお願いします」

それだけ言うと、耕平は血相を変えて飛び出して行った。その只ならぬ

様子に志津江は亜希の無事を祈るばかりだった。

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