13.海の見える家
東京駅に着くと崇之が迎えに来ていた。
「先生とは会えたの?」
「ううん… 急用ができて、来週の金曜に都内で会うことにしたの」
「まさか、逃げてるんじゃないよな? 次もこんな調子なら弁護士立てて、
きっちり話をつけてやる!」
話の進展がなかったことにひどく苛立っている。
あのマンションで耕平と離婚話をする気になれず、東京で会うことは
亜希の方から申し入れた。だが、崇之には言い出せなかった。
「これからどこかへ行くの?」
崇之の車は滞在中のホテルの前を通過してもなお走り続けた。
「ああ。それは着いてからのお楽しみ!」
さっきまでの表情とは一変し口元が緩んだ。
車は東京を出て横横道路に入っていた。逗子インターで下りて海岸線を
暫く走ると高台にある一軒の家に着いた。
「ここが日本を発つまでの二人の“愛の巣”」
崇之は片目を瞑りニヤリと笑った。
広いリビングの窓際にはグランドピアノがあった。眼下には湘南の海が
広がり、葉山マリーナに停泊するヨットの灯りが見える。
「どう、気に入った?」
「ええ… でも、ちょっと贅沢過ぎない?」
崇之が木戸グループの関連会社の取締役に名を連ねていることは
耕平に渡した名刺から知っていたが、いったいどのくらいの年収が
あるのか亜希には見当もつかない。同年代の平均年収とは桁違いで
あることは確かのようだ。
音大生は、百万前後の練習用のバイオリンが持てれば恵まれている方
だが、崇之は学生時代から数千万以上する名器、ストラディバリウスを
使いこなしていた。
「ピアノ付の物件、けっこう苦労したんだぞ。ちゃんと調律も
済ませてあるし…」
亜希の反応にがっかりしたように口を尖らせた。
「うん、凄くいい音だわ。ありがと!」
崇之の気持ちに応えるように鍵盤を弾じいてみせた。
「何か弾いてみて?」
「何がいい?」
「うむ… “さすらい人” が聴きたい」
「Ok」
シューベルトの幻想曲第二楽章--
瞑想的な物静かな音色がゆっくとリビングに流れる。
終盤になると、亜希の右手と左手がダイナミックに交差し
ピアニスティクな旋律が響き渡る・・・
「愛してるよ。もう絶対、放さないから… 」
耳元で囁くと崇之は亜希の躰を愛おしむように抱きしめた。
* * * * * * *
早めに病院を出たせいか、待ち合わせのホテルのティーラウンジに
約束の時間よりだいぶ前に着いた。三本目の煙草に火をつけた時、
亜希が少し遅れてやって来た。
「ごめんなさい、こっちで呼び出しておきながら遅れてしまって」
「いや、俺も今来たとこだから…」
亜希は灰皿に目を遣ってくすっと笑った。
半月ぶりに会う妻は、ほのかな色香を漂わせ男に愛されている女の
顔をしていた。
「…すまない、謝ってすむようなことじゃないけど、君には本当に
酷いことをしたと思ってる…」
煙草を揉み消し居住まいを正すように両手を膝の上に置いた。
「…ただ、俺は、」
「耕平さん、もうよしましょ」
耕平の言葉を遮り、バッグの中から離婚届と茶封筒を取り出しテーブルの
上に置いた。左手の薬指からはすでに結婚指輪は消えている。
離婚届の二名の証人欄の一つには木戸崇之の署名と捺印がある。
封筒の中にはマンションの鍵と指輪が入っていた。
「なるべく早くお願いします」
うつむいたまま目を合わさずに言った。
耕平も黙って頷いた。
「木戸さんと、一緒になるんだね」
「ええ…」
亜希は恥じらうように頷いた。
できることならこの場で離婚届をびりびりに引き裂いて、土下座してでも
連れ戻したい。自分のしたことは決して許されることではない、彼女を
愛する資格がないことは誰よりも一番良く分かっている。
自分が今できることは、離婚に同意して一日も早く彼女を自由の身にして
やることしかないだろう。だが、耕平は亜希のことが心配でならない。
木戸は本当に彼女を幸せにできるのだろうか・・・
突然、携帯が鳴った。
耕平は我に返り、発信先を確認するとすぐに電話を切った。ここでこのまま
亜希と別れると思うと堪らない気持になった。
「亜希、あのさ…」
最後まで言い終わらないうちにまた着信音が鳴った。
耕平は舌打ちをして電源を切ると上着のポケットに乱暴に押し込んだ。
「もうすぐなんでしょ、そばに付いててあげないと」
夫の仕草から発信相手を察したようで、笑みを浮かべながら言った。
それは皮肉でも嫌味でもない、いつもの優しい妻の微笑みだった。
「じゃ、もう行くね」
亜希はそれだけ言うと椅子から立ち上がりロビーの向こうに消えて行った。
* * * * * * *
「やっぱり彼女、御曹司とできてたのね。若いのにたいしたもんだわ。
“外科医の妻から資産家の愛人へ華麗なる転身!” 三文雑誌なら、さしずめ
こんな見出しがつきそうじゃない」
耕平が無造作にテーブルの上に置いた離婚届を手に取り、杏子は好き勝手な
ことを言っている。
「愛人?」
彼女が口にした “愛人” という言葉に引っかかった。
「そりゃ、正妻の座は無理でしょ。いくら御曹司が見初めた相手でも、木戸家に
相応しい良家のお嬢様でないばかりか、高村先生の “お手付き” なのよ」
杏子は卑猥な笑みを浮かべた。
(亜希が愛人!?)そんなこと絶対あってはならない。が、確かにあの木戸家が
すんなり亜希を嫁として受け入れることなど考えにくい。例え結婚できたと
しても、ああいう一族の中で跡継ぎを産めない嫁の立場は悲惨なものだろう。
木戸はそんな妻を守ってやれるのだろうか・・・
「私が証人になってあげるわね」
杏子は勝手に離婚届の証人欄に記入しはじめた。
「ねえ、これ出す時、ついでに私たちも籍入れちゃわない?
そうすれば、この子も耕平の実子として戸籍に載るわけだし…」
大きく迫り出した腹を摩りながら猫なで声を出した。
(この女のおかげで俺は大切なものをすべて失ってしまった…)
目の前にいる杏子が、いつか見たホラー映画の愛人役の女優に見えた。
耕平があっさりと離婚に応じてくれたこと、三年間の結婚生活がたった一枚の
紙切れであっけなく終わってしまったことに、亜希は一抹の淋しさを感じた。
もちろん泥沼の愛憎劇を望んでいたわけではないが、心のどこかで耕平が引き
留めてくれること、その素振りでも見せてくれることを期待していたのかも
しれない。先行き不透明な崇之との恋に生きる決心をしたはずなのに、これで
もう絶対に後戻りできないと思うと、急に耕平との穏やかな愛が懐かしくなった。
葉山マリーナに近づくと、車窓の景色が陸地から相模湾の海岸線へと変わって
行く。あの高台に聳える白い家だけが、亜希が戻れる唯一の場所となった。




