12.決別
帰京した二人はとりあえず、亜希は都内のホテルにチェックインし、
崇之は世田谷の実家に戻った。
「崇之さん、黙って家を空けて、今までどこにいたの?
そろそろ結納の日取りやなにかも決めないと…。」
「お母さん、何度も言ってるようにこの話はお断りしてください」
「麗子さんは木戸家にとって申し分のないお相手だし、あちらの
ご両親もあなたのこと、とても気に入っておられるのよ。いったい
何が不満なの?」
「僕には心に決めた人がいます」
崇之はきっぱりと言った。
「なんですって? どちらのお嬢さま?」
「今はまだお話しできません」
「どういうこと? 母親のわたくしにも言えないようなお相手なの?
崇之さん、あなたはこの木戸家の跡取りですよ。木戸の家に相応しい
それなりのお家のお嬢さまでなければならないこと、お分かりよね」
予想していた事とは言え、雅子にとって息子の結婚相手は木戸家に
とって不足のない嫁、良家の子女が絶対条件である。
「とにかく、今回の話は白紙に戻してください!」
「そんなこと、できません!」
「どうしたのかね、二人とも大きな声を上げて?」
二人のやり取りを聞きつけて父の祥吾が部屋に入ってきた。
「あなた、崇之ったら松宮家とのご縁談お断りしてほしいなんてこと
言いだして、親にも紹介できないような人と結婚したいだなんて…」
雅子は興奮して声を詰まらせた。
「好きな人がいるんなら、縁談を進める方がかえって先方に失礼に
なるんじゃないのかね。そもそも、崇之の意思も確かめずに勝手に
突っ走るから」
「あなたはいつもそうやって、崇之の肩ばかりお持ちになるのね。
少しは木戸の家のことも考えてくださらないと…」
総領娘の雅子は、何をおいてもお家が第一という教育を、幼い頃から
徹底して受けてきた。
「崇之も、相手のことが話せないとはどういう事なんだ?」
「すいません、お父さん、もう少しだけ時間をください。
ここへ連れて来て必ずきちんとお二人には紹介しますから」
まだ人妻である亜希のことをここで両親に言うわけにはいかない。
彼女のことが発覚すれば、雅子はどんな手段を使っても阻止する
だろう。
「わかった。雅子、先方には一日も早くお断りしなさい」
祥吾はそれだけ言うと自室に引き上げて行った。
いつも最後の決断は父が下す。祖父の崇正が見込んで婿養子に
迎えただけあって世間一般の婿養子とは異なり、家の実権を握り
妻の雅子も最終的には夫に逆らうことはない。そんな父を崇之は
子供の頃から尊敬している。だが、いくら寛大な祥吾でも息子が
人妻に恋をして結婚まで考えていると事を知ったら、尋常では
いられないだろう。
* * * * * * *
亜希は窓際に佇み、夕日が東京の街をくれない色に染めていく様子を
ぼんやりと眺めていた。
崇之と再会してから急展開していく自分の人生に少し戸惑っている。
耕平と築いた家庭、それは子供たちに囲まれた平凡だが幸せな毎日だった。
これから崇之と歩もうとしている人生、それは本当に彼の言うようにあの
“秘密の花園” で過ごしたような時間の延長線上にあるのだろうか・・・
「亜希、これから祝杯だ! 例の見合い話、カタがつきそうだよ」
夜になってワインを携えた崇之がホテルの部屋に来た。
大きな肩の荷を下ろしたように表情が晴れ晴れとしている。
「さあ、次は君の番だ。僕も一緒に先生に会うよ。そして、離婚届に
サインしてもらう… あれっ、これってちょっと変かな?」
「それって、すごーく変!」
二人は思わず噴き出した。
深刻なはずの離婚話をこういう風に話せるのも崇之を悩ませていた
問題が一つ解決したからだろう。
「明日、長野へ行ってくるわ」
亜希は少し顔を強張らせた。
「本当に、ひとりで大丈夫?」
「ええ」
耕平と顔を合わせるのは気が重い。が、避けて通れない道なら、
なるべく早い方が良い。
翌日、亜希は長野駅からまっすぐ志津江のところへ向かった。
彼女には京都から電話を入れ崇之と一緒に居る事を知らせていた。
「お母さん、心配かけて本当にごめんなさい。」
「耕平さんから事情を聞いた時は、もうあなたのことが心配で
心配で… 京都から連絡もらって、ほっと胸をなでおろしたのよ。」
「すいません、勝手なことして…。」
「仕方ないわね、私があなたの立場でも、同じことをしたかも
しれないわ」
志津江は苦笑を浮かべた。
「亜希ちゃん… 耕平さんのこと、やっぱり許せない?」
「……」
「そりゃそうよね… 亜希に酷いことをしてしまったって、耕平さん
憔悴しきってた。でもねえ、私には分かるのよ “あの人” に
振り回されて、こんな事になったってこと。あなたの事を誰よりも
愛しているってこと。出来ればやり直したいと願ってること」
返す言葉が見つからず亜希は俯いたまま黙っていた。
「…舞、どうしてます?」
「ちゃんと学校に行ってるわよ。あの子なりにパパとママの間に何か
大変なことがあったってことは、分かっているみたいだけど…。」
今度のことで、舞が小さな胸を痛めていることが亜希には一番辛かった。
「…これからの事は、あなたたち二人が決めることで、私がどうこう言う
ことじゃないけど、亜希ちゃんこれだけは覚えておいて。耕平さんとどんな
ことになろうとも、ここはあなたの実家なんだから、何かあったらいつでも
帰っていらっしゃいね」
志津江は声を詰まらせ目頭を押さえた。
これまでの亜希の人生はあまりにも辛いことが多すぎる。
実の娘同然に思ってきた彼女にはどうしても幸せになってもらいたい。
だが、志津江は亜希が木戸と一緒になることに一抹の不安を覚えていた。
亜希は一週間ぶりにマンションに戻った。
ここには家族の思い出がぎっしりと詰まっている。
ついこの間まで二人の明るい声が響いた子供部屋には、亮の匂いがまだ
残っている。子供たちが “パパのお城” と呼んだ、耕平が唯一喫煙を
許された狭い書斎には煙草の臭いがこもり、いつものように読みかけの本が
散乱している。
耕平を憎んでいるわけではない・・・
家族思いで子煩悩で、人一倍優しいくせに照れ屋で、妻への愛情表現が苦手な、
とても “昭和な” 夫だった。イブのコンサートで照れくさそうに放った二言を
思い出し亜希はくすっと笑った。『綺麗だよ、すごく良く似合ってる』おそらく、
あれが最初で最後、最大級の妻への褒め言葉だったかもしれない。
耕平との関係は、心ときめくような恋愛や身を焦がすような恋心から始まった
わけではない。ゆっくりと愛を育み、家族を作り、子供の笑い声が絶えない、
亜希が幼い頃に憧れたような、平凡で暖かい家庭を二人で築き上げた・・・
亜希は頭を大きく左右に振った。ここにいると楽しい思い出ばかりが蘇ってくる。
感傷に流されそうになる自分を振り切るように、スーツケースに身の回り品を
詰め、亮の位牌と写真を持って足早にマンションをあとにした。




