第五十二話
朝食の後、支度をして王宮の前に止められた馬車に乗り込んだ。
今日はスカイブルーを基調にした、背に淡い薄紫の大きなリボンが羽のようにふんわりと結ばれているワンピース。
どこぞの妖精か、と呆気に取られながら鏡でしげしげと眺めてしまった私を、笑えるものなら笑ってほしい。本気でナルちゃんになりそうで、自分が怖いよ。
さすがシーナが自信を持って造っただけあるな、と何度か感心したことを思う。これを感心せずして、あのド鬼畜野郎の何に感心すればいいのか。
「……姫様?」
軽くため息を吐いた私に、護衛のため一緒に馬車に乗ったランスが首を傾げていた。
「あ…、何でもないの」
「そうですか?あまり遠慮しないでくださいね、悩み事なら何でも聞きますよ。解決はできないかもしれませんが」
正直な意見にくすりと笑ってしまう。
「そうね、ランスは聞くだけ聞いて解決するのはアーサーに任せそうよね」
そしてアーサーは渋面を作ってランスにお説教をして、なんだかんだランスを立てて解決してくれるに違いない。
くすくすと笑いながらそんな光景が思い浮かべる。
ランスはじっとそんな私を見つめていた。
「……姫様」
「うん?」
「抱きしめてもいいで…っ」
ひゅっ
鋭い何かが細く開いた小窓から中に飛び込んでくる。
どすっ
音の方へと顔を向ければ、太い針が馬車の壁に深々と刺さっていた。
「…………」
「っぶねーなー!」
「危ないのはお前の頭だ。今すぐ降りろ、飛べ、消えろ。そして二度と人類として生まれるな」
「あーそうだな」
「……随分物分かりがいいな?」
「当たり前だろ?猫として生まれ変われば、姫様に堂々と抱きしめてもらえ…」
ひゅひゅっ
どすどすっ
「っぶねー!」
「死ににくいお前のために何年も研究した毒も、まずはその異常な身体能力をどうにかしないとかすりもしないか」
かすったらどうなるんだろう……
私が思ったことをランスも考えたらしい。嫌そうに顔をしかめてそれを聞いた。
「……ちなみに、この毒の効能は?」
「そうだな、実験では一か月ほどのたうちまわって死んだ。肉を少しずつ溶かしていく毒なんだが、初めは指先から腐り落ちて、内臓、声帯、耳、最期は眼球が溶けて脳髄に達する。お前の回復力を考えると一カ月より長くはなるかもしれないな」
「……えげつねぇって言うんだぜ、それ。期待してねーけど解毒薬は?」
「今開発途中だ」
解毒薬もない毒を簡単に人に…しかも実の弟に投げるアーサーの精神構造は、いったいどうなっているんだろう。
まともそうに見えて、全然、全く、まともではない私の従者に気が遠くなりそうだった。
しかもしかも、怖いので聞き流したけど、実験てなんだろうか。
…………いや、怖すぎるからやっぱりいい。
聞かなくていいことは聞かない。知ってはいけないことは世の中たくさんある、アーサーの裏の顔だってその一つだ。
現実を見ているようで、絶賛逃避行中の私の心は空の彼方を漂っている。
王城に着くまでそんな私の横でアーサーとランスが争っていたが、私にはその場を鎮める有効な手段は悲しいことに一つも思いつかなかった。
……ホント、今からでも従者の返品交換ってできないかな、なんて考えながら。
無事(私の精神と周りは無事じゃなかったけど)王城に着いて、レオヴィスの待つ部屋に通され、出されたお茶を一口飲むことで気を取り直した。
「……え、と。私の話を先にした方がいいのかな?」
昨日の朝から駆けずり回り、疲れた様子のレオヴィスに遠慮がちに問う。
レオヴィスのこの疲労は、全て私が拉致されたせいだ。それ以外の要因はないと言っていいだろう。
せめてこれ以上煩わせることないように自分から声をかけると、レオヴィスは軽く首を振った。
「いや……こちらの説明を先にした方がいい。ユリフィナにはかなり隠していたことが多いからな」
苦みの強い苦笑は悲しげでもあり、見ているこちらが苦しくなる。
やはり顔がいいというのは得だ……。怒っていいことも隠されていたのに、許してしまいたくなるのだから。
……いやいやいや、許しちゃダメでしょ。これで許したら、顔だけでほだされる馬鹿みたいじゃない!
元々少ない怒りが急速にしぼんでいくのを慌てて引きとめ、必死にかき集める。
馬鹿にはなりたくない。なりたくないけど、内心はともかく申し訳なさそうに心苦しそうな顔の大国の王子相手に、残念ながら声は荒げられなかった。
情けなさすぎるよ私!
自然、私の顔は微妙なものになる。
「……えーと、うん。そうだね、説明は欲しいな」
「……それだけか?もっとあるだろう」
「うん……」
そうは言われても、というのが正直な感想だ。
確かに怒りはある。奴隷魔法などと呼ばれるものをかけられて、その詳細もほとんど説明されず、ただ傍近くにそれとなく軟禁された。
他にも隠していることはあるだろう。私を利用したい理由とか、何をしようとしているのかとか。
自分を利用しようとしている相手に怒りを感じないわけはない。
なのに、でも、と心のどこかが反論する。
レオヴィスは強引だ。傍目にはそう見えないのに、思い通りに事を進める。
詳しい説明はしないし、巻き込んで流して受け入れさせようとする。
彼にはそうまでして叶えたい願いがある。まっすぐに見つめられると流されてしまいたくなるほどに、強い願いが……
私は、それに弱い。簡単に流されてはいけないのだと思っても、その強い眼差しに見つめられると悪い気にならない。
殺伐とした感情が少しでも浮かんでいれば、恐怖で逃げられるのに。
そう思わずにはいられないほどに、まっすぐすぎる目。……この目が、私を捉えて放さない。
せっかくかき集めた怒りを、散り散りに霧散させてしまう。
「……なんか、あんまり怒りが続かないというか……。レオヴィスが何の考えもなく隠すわけないし、きっと隠した理由を聞けば理解できることなんだろうし」
私が呟くような声でぽつぽつと自分の心境を言葉にしていく。
言いながら、ここまでレオヴィスを信じられる自分が少し驚きだった。
私は自他共に認める小心者だ。
物事には慎重になるきらいがあるし、人見知りもする。
……まあ、この世界に転生してからというもの、慎重になる前に物事が進んでしまっている気もするけど。信頼できる人か見極める前に、濃ーーーい人間関係になっている気もするけど!
レオヴィスとはかなり物理的に近い場所にいて、でもほぼ出会ったばかりだと言ってもいいのに、どうしてこうも信じることができるのだろう?
レインに奴隷魔法のことを明かされた時もだ。
私はレオヴィスに奴隷として扱われていたのだと指摘されても、それを一笑に伏すくらいにはくだらない、と思うことができた。
時には強引に、時には言葉巧みに巻き込まれて流されるのに。なぜだろう。
考え―――
例えば警戒する前に優しくされたからとか、容赦なく巻き込んでいく割には私の意思をちらりと確認したりするところとか?九歳には思えないほど大人の対応ができるところとか、時折見せてくれる笑顔が破壊的だとか?
―――考えたけれど、それが人を信じる理由になるかは、私にはわからなかった。
とにかく、私は昨日のことで怒りたいことは特にない。
あるとすれば……
「厳重に結界張ってたのって本当?」
「……ああ」
片眉を上げて不可解そうに頷くレオヴィスに、精一杯睨む。
「そのせいで変な噂が広がってるっていうのも?」
「噂?」
「高貴な籠の鳥とかなんとか。籠の鳥って……恥ずかし過ぎる」
「……怒りたいポイントがそこなのか?というか……それは、俺が怒られるところなのか?」
どう考えてもそれを名付けたのは俺じゃないだろう、と言われてはっとする。
…が、やっぱりそんな名前を付けられる羽目になったのはレオヴィスのせいだ。
「だって、レオヴィスがそんなの張り巡らせるからでしょ?」
「厳重にしなければユリフィナが危険なんだが……」
複雑そうな顔で口を閉じ、はぁ、と大きくため息を吐いて苦笑する。
「……ユリフィナ、お前にかけた魔法のことはあの男から何か説明されたか?」
「うん。昔戦争とかで魔力を補うために、奴隷にかけたんでしょ?ものすごい痛いんだとか、ホントの目的は違ったんだとか、そんな説明だったと思うけど」
「そうか……」
ため息混じりの相槌に小首を傾げていると、おもむろにレオヴィスが立ち上がり私の前で跪く。
非現実的なそのとんでもない光景を前にして、うっかり…そう、うっかりその優雅さに見惚れてしまった私に、
「……ではまず、ユーリトリア王国第三王子レオヴィス・ラウ・ル・シーグィ・ユーリトリアとして、属国領スリファイナ王国第一王女ユリフィナ・エール・ユン・ダ・スリファイナに、深く陳謝する」
そんな爆弾を投下した。
「ひ…っ」
思わず小さく漏れてその後を飲み込んだ悲鳴は、おもりのように胃を重くさせ、心の底からひやりとさせられる。
―――レオヴィスは、王子だ。
それもこのコルダー大陸の最北から最南まで広大な領地と属国を従える、大国の第三王子。王妃陛下を母に持ち、類稀な魔力を持って生まれ、『玉座の地方』と揶揄されるシーグィ地方の次期領主。もしも時代が時代ならば、そして王太子に何らかの欠点が一つでもあったとしたら、実の兄を差し置いて王太子になっていたかもしれない、極めて重要な人物だ。
そんな人が属国の王女でしかない私に頭を下げる。
これは、異常だ。
たとえ私が王子だったとしても、属国の者でなかったとしても、レオヴィスが頭を下げることなどあってはならない。
彼の公的な言動は、国の意思にもなるのだから。
私は…スリファイナの王族として生まれ育った『私』は、これをユーリトリアの意思として受け取りスリファイナの意思として言葉を返さなくてはならない。
ならない……のだけれど。
ごくり、とやけに耳に響いた自分の唾を飲む音に、頭が混乱を治めようとフル回転していることに気づく。
私は、王女としてこれに応えなくては。
―――なのに、震える唇が、その冷静な声に逆らう。
「……頭を……頭を、上げて。そ、そんなこと、しないで。…お願い、レオヴィス……」
『レオヴィス』が『私』に頭を下げている。
頭の中では冷静な声でこれを貸しにしてしまえ、と囁く。属国の地位をもう少し上げるチャンスだと。もしかすればもっと有利な立場になれるかもしれない、と。
だけど。
きっとそうしてしまえば、『レオヴィス』はこれからもっと『私』に容赦をしなくなるだろう。それこそ個人の意思など消し去って。
それは、……嫌だ。私の意思も消さないでほしいし、彼のささやかな意思にも触れたかった。
王子としての務めを果たし、公に私を尽くす彼は個人の意思をあまり出さない。それでも、ほんの微かに揺らす感情は、こちらを見る瞳にささやかな熱を宿す。
―――私は、馬鹿なのだろう。
彼のように公に私を尽くさねばならない身の上で、この状況を国のために尽くせないでいる。
震える唇は、愚か極まりない私の小さな『心』が精一杯に主張した結果。
私は、馬鹿な私はそれを応援したくてたまらない。
「……レオヴィス。お願い……」
繰り返すと、跪いたレオヴィスがゆっくりと顔を上げる。
どこか安堵したような、困ったような顔を。
「これが……二度とないかもしれない、スリファイナのチャンスだったとしてもか?」
ひくり、と喉が鳴る。
何度か震える唇が開閉を繰り返し、やがてきゅっと引き結ぶ。
葛藤が目に薄い膜を張らせる。
鼻の奥がつんとして、それを消し去ろうと首を振った。
「……」
言葉の出ない私の耳に、小さな息を吐く音が聞こえた。
「……本当は……本当は、な。お前にもっと時間をやりたい。この二度とないかもしれない機会を、もっと時間をかけて考えてもらいたいが……」
それはできない。
言葉にならずとも、そう聞こえた。
レオヴィスのまだ幼さの残る端正な顔は、困りながら、……どこか悲しげに、それでもなお強い意志をその赤い目に宿している。
「前も聞いたが……俺は俺の最大限の『力』を貸す。だから、お前のその運命を…『傾国の運命』を、俺にくれないか」
その目に囚われた私の心臓がツキリと軋んだ音がして―――
理由をどこかでわかりながら、慌てて蓋をするように閉じ込めた。
彼は、私の『運命』を欲する大国の『王子』なのだ。
そんなこと、前から知っていたことじゃないかと……自嘲して。




