88. 耀
「そういえば、陛下のお名前、月という文字が入っていましたね」
空に浮かぶきれいな満月を眺めているうちに、重華はふと晧月が以前書いてくれた晧月の名前を思い出した。
多少なりとも字を勉強したおかげで、今ではそこに月を意味する字が入っていると理解することができている。
「ああ。輝く月、という意味でつけられたんだ。俺が生まれた日が、それは美しい満月の日だったらしくてな」
名前につけたいほどならば、よっぽどきれいな満月だったのだろう、そう思いながら重華はまた月を見上げた。
「父上は長子だし、後に皇帝になることを考えると、月よりも太陽にちなんだ名前にしたかったようだが、母上が譲らなかったらしい」
確かに皇帝ならば、太陽の名前の方がより相応しいのかもしれない。
けれど、重華は晧月には眩しい光を放つ太陽よりも、今目の前にあるような柔らかで優しい光を放つ月の方がよく似合うと思った。
「輝く月……」
重華はなんだかすごく大切なきっかけとなる一言をもらったような気がして、その言葉は何度も何度も呟いた。
最初はそれが何に必要で、どうして大切なきっかけだと思っているのかすらわかっていなかった。
しかし、何度となく繰り返し呟いたことで、重華ははっとする。
「あっ!」
「どうした?」
「舜永様の封号、光り輝く、みたいなのがいいかなって。陛下が輝くお月様なら、舜永様にはその光を受けて一緒に輝くような存在であって欲しいなって」
しかし、重華が知る文字の中で、それを元に思い浮かべることができたのは『光』という文字だけだった。
たまたま近くに落ちていた小枝を拾い上げ、地面に『光』と書いてみたものの、どうもしっくりこない。
「光り、輝く、か……」
晧月は考え込むようにそう呟くと、重華からすっと小枝を奪った。
そして、地面に『耀』という文字を書いてみせる。
「これで、『よう』と読む。光か輝く、という意味を持つ字だ。繁栄という意味もある」
そう言うと、重華の目がぱっと輝いた。
どうやらお気に召したらしいということは、一目でわかる表情だと晧月は思った。
「これっ、これがいいですっ!」
繁栄という意味があるならば、これから領地を与えられ、それを治めていくことになる舜永には、これ以上なくぴったりな一文字だと重華は思った。
しかしながら、そう思ったのは重華だけかもしれない、そんな不安がすぐさま押し寄せてくる。
「あ、でも、舜永様は、気に入るでしょうか……?」
「あいつなら、おまえが決めたなら、なんでも喜ぶさ」
重華が決めたというだけで、どんな封号になろうとも喜んで受け入れるだろう姿が、晧月には容易に想像ができた。
一方で、こうして二人で居る時でさえ、重華が舜永の封号についてを考えていることが、非常におもしろくないと晧月は思った。
「しかし、気に入らんな」
「え……?」
「こんな時まで、あいつのことを考えているなんて」
「ええっ!?」
気に入らないというのは、てっきり封号のことかと思っていた。
晧月からすると、舜永に相応しくないと感じたのかもしれないと思い、せっかく思いついたけれど考え直す必要があるのかもしれない、重華はそんなことまで考えはじめていた。
だが、晧月の言葉は、重華の予想とはあまりにもかけ離れたものだった。
「舜永ばかり、名前で呼ばれているのも、気に入らない」
「はい?えっと、舜永様をお名前で呼ぶの、失礼だったでしょうか?」
だとしたら、もっと早く教えて欲しかった、と思ったけれど、どうやらそういうことではないらしい。
「せっかく名前の話になったんだ。たまには、俺の名前も呼んでみないか?」
「こ、皇帝陛下のお名前を、お呼びするなんて……っ」
誰もが陛下と呼び、その名を口にすることなどない、この国で最も高貴な存在である。
とてもではないが、自身がその名を口にしてよいなどと、重華が思えるはずもなかった。
「どうせ、ここには誰もいない、何より、その皇帝が許可してるんだ。二人きりの時くらい、いいだろ?」
腕を掴まれ、晧月の顔がぐっと近づいた。
ただそれだけで、なんだか逃がさないとでも言われているような感覚に陥る。
「こ、晧月、様……」
緊張しながら、震える声で重華はなんとかその名前を口にした。
すると晧月がふわりと笑って、重華はやり遂げたのだという達成感とともにほっと息を吐いた。
だが、これで終わったと思ったのは、重華だけだった。
「もう一度」
「えっ!?」
一度では終わらないらしい様子に、重華はふたたび緊張し、身体を強張らせる。
「ほら、もう一度」
「晧月様」
今度こそ終わると、そう願って、なんとか震える声で再度その名を呼んだ。
しかし、それでも晧月は終わりにはしてくれない。
「もう一度」
「……っ!も、もう無理ですっ!!」
ただ、名前を呼んだだけなのに、重華の心臓は周囲に聞こえてしまいそうなほどばくばくと煩く音を立てていて、静まってはくれない。
それなのに、晧月は何度も何度も要求し、いつまでも終わりが見えなかった。
これ以上続けると、なんだかおかしくなってしまいそうな気がして、とても耐えられない。
そう思った重華は無理だと主張するかのように激しく左右に首を振ると、晧月から視線を逸らした。
その後、しばらくは二人で月見を続けたけれど、重華にはもう落ち着いて月を眺める余裕などなかった。
数日後、舜永は耀親王に封じられた。
重華の元を再び訪れたのは、当然その報告するためのはずだった。
しかしながら、重華は未だそんな報告らしい言葉は舜永から一言も聞かないうちに、話はおかしな方向へと進んでしまっている。
「新しい王府に、飾りたいんだ。ね、いいだろ?」
「え、ええっと……」
ずいっと詰め寄られ、どこか既視感を覚えながら、重華は身を引いた。
しかし、それで終わる話ではもちろんない。
さらに舜永が距離を詰め、離れるどころかむしろ距離は縮まってしまった。
「兄上の許可が必要なら、今から許可、取ってくるから」
多少なりとも晧月との関係は良好になった。
舜永はもちろん、重華もそう感じている。
今の晧月なら許可してくれそうだ、それは舜永と重華の共通認識でもあった。
「一枚、一枚だけでいいからっ!」
そうして先ほどから舜永が重華に求めているのは、以前も欲しがっていた重華の描いた絵である。
新しい領地の新居に、是非とも重華の絵を飾らせてほしい、先ほどから舜永はずっとそう懇願しているのである。
(そんな大事なところに飾るような、たいそうな絵なんて描けるわけない)
舜永は一番目立つところに飾るから、と言う。
良かれと思ってそう言っているのだろうが、重華からすれば恐れ多すぎる、と思わずにはいられなかった。
(新しい王府に飾るなら、名のある作家たちが作った芸術品の方がよっぽど……)
想像でしかないけれど、親王府ともなればさぞ豪華で立派な屋敷だろうと重華は思った。
そういった場所に相応しい、飾られるべき芸術品というものが、きっと世の中にはたくさんあるだろう、とも。
「なんでもいいんだっ、新しく描いたものじゃなくてもいいからさ、ね、お願いっ!!」
「そこまで必死なんだ、一枚くらいやったらどうだ?それでおとなしくなるだろ」
突然響いた第三者の声に、重華も舜永も驚いたように声のする方へと視線を向ける。
「陛下!?」
その一言を聞くだけでも、晧月と舜永の距離は随分と縮まったような気がする。
重華がそう思っている間に、晧月はあっと今に重華のすぐ傍まで来ていた。
そして、勢いよく舜永の手を重華から引き離す。
そうした晧月の行動によって、重華はようやく自身の手がいつの間にかがっしりと舜永に握られていたことに気づいた。
「ちょ、何するんだよ」
「絵を頼むだけで、そこまで近寄る必要はないだろ」
舜永は晧月の強い力によって、危うく体勢を崩し倒れ込みそうになった。
そのためすぐさま抗議の声をあげたが、晧月の視線は全ておまえが悪いとでも言わんばかりであった。
理不尽な気がしてならなかったけれど、舜永はため息をついて、重華から少し距離を取る。
そんな二人の様子を見て、重華は苦笑することしかできなかった。
「舜永様……じゃなかった、耀親王殿下……」
「言い直さなくていいよ。今まで通り、舜永って呼んでよ」
「あ、ええっと……」
重華は思わずちらりと晧月を見てしまう。
決してそういうわけではないのだが、重華は舜永の名を呼べば呼ぶほど、また晧月と二人きりになった時、晧月の名を呼べと言われるような気がしてならなかったのだ。
残念ながら晧月は、今後重華が舜永の名を呼んだかどうかに関係なく、またそのような要求をするだろうけれども。
「なんなら、呼び捨てでもいいよ?」
その一言に対しては、重華はぶんぶんと首を振った。
(もし、そんなことをしてしまったら、陛下の名前まで呼び捨てにしないといけなくなりそう)
それもまた、決してそういうわけではないのだが、重華はそんな気がしてならなかった。




