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ゴブリンは、対面する

これを里帰りと呼ぶかどうかは、判断が分かれる。


少なくとも俺にとっては「帰る場所」なんて言葉を当てはめるには、臭いが強すぎた。


下層のさらに奥。下水のさらに先。


石と鉄と汚水が混ざった空気が、肺の内側をこすってくる。


「……くっせ」


横を歩くゴブタが、顔をしかめて言った。


文句を言いながら歩けるだけ、こいつは元気だ。


俺は喉の奥の嫌な味を飲み込んで、先を見た。


通路は狭い。


壁際に水が溜まり、靴が沈む。


足音がやたらと大きく聞こえる。


奥へ。


奥へ。


――途中から、雰囲気が変わった。


明らかに装備がいい。


錆びた棒切れじゃない。


刃のついた槍。


革の当て布。


金属の留め具。


見張りのゴブリンが二体。


目の光が、下層のいつもの「腹が減ってる光」じゃない。


仕事をしてる目だ。


俺は反射的に、立ち止まりそうになった。


けど止まったら負けだ。


「用がある」


それだけを顔に貼り付けて歩く。


見張りはゴブタを一瞥し、次に俺を見た。


嫌な沈黙。


だが、すぐに顎をしゃくる。


案内だ。


下水の女王。ゴブリンたちの母。


肉屋が言っていた、ここはアンタッチャブルゾーン。


誰もが手を出したがらない汚泥の底。


その言葉だけで、背中の汗が冷える。


いや。


冷えるのは汗じゃない。


俺の中の「ここで戦ったら終わる」という計算だ。


俺とゴブタは、さらに奥へ連れて行かれた。


通路が広がり、天井が高くなる。


水音が遠くなる。


代わりに、別の音が混じってきた。


……ぬちゃ。


……ぐにゃ。


音の意味を理解した瞬間、胃がきゅっと縮む。


そして、扉。


「王室」と呼ばれる部屋。


俺は、入った。


――そこに、巨大なゴブリンが鎮座していた。


女王。


縦にも横にも、でかい。


柔らかい山のような体。


その腹だけが異様だった。


張り詰めて、しかも、勝手に動いている。


ぐねぐねと。


女王の意思とは別に、腹が生き物みたいにうねる。


周りには、年老いた雌のゴブリンが三体。


産婆。


当たり前みたいな顔で、仕事をしている。


そして女王は、会話をしている最中も――産み続けていた。


小さな幼体が、ぬるりと出てくる。


産婆が受け取り、布で拭い、脇へ運ぶ。


その一連が、流れ作業のように繰り返される。


……こっちが常識を崩されてるのに、向こうは平常運転。


それが一番きつい。


女王の周りには、人間と思われる肉の塊もいくつか転がっていた。


腕。


胴。


形が崩れた何か。


そちらでも。


ゴブリンが、生まれ続けていた。


吐き気が込み上げた。


喉の奥まで来た。


だが吐いたら、終わる。


侮られる。


使い捨てにされる。


俺は歯を食いしばり、息を整える。


「……」


ゴブタは、珍しく黙っていた。


さすがに分かるらしい。


ここは、いつもの下層じゃない。


女王が、口を開いた。


その声は。


想像していたより、ずっと理性的で。


威厳があった。


「用件を」


声を聞いただけで、鳥肌が立つ。


なのに、その目は冷えたまま、俺を“名前のない道具”として見る。


「……坊や」


女王が、そこでわざと呼び方を変えた。


「肉屋のあたりを仕切ってる坊やだね」


「最近、金の流れが妙に整った。臭いが変わった」


けん制。


つまり――見られている。


ブッチャーの件も、下層の回し方も。


この巨体の前では、全部“庭の動き”ってことだ。


俺は息をひとつ飲み込んだ。


知られてるなら、隠しても意味がない。


なら、取引に変える。


「用件を言いなさい」


俺は一歩、前へ出た。


勝負だ。


正義は言わない。


同情も言わない。


ここでは、取引だけが言葉になる。


「安定して、ゴブリンを回してほしい」


「それと、有能なのがいるなら紹介してほしい」


女王の目が、俺を測る。


「対価は?」


「金を出す」


俺は短く言った。


回りくどい説明は要らない。


こいつらは、腹が減ってるから。


女王は、少しだけ首を傾けた。


「金は、悪くない」


「だが、坊やが使えるかどうかを測る必要がある」


使えるか。


そう言われた瞬間、背中が熱くなる。


腹が立った。


でも、ここで怒っても意味がない。


「……測りたいなら、測れ」


女王は口の端をわずかに上げた。


「特別に、依頼を出す」


「それを解決できれば、契約を結ぶ」


俺は即答した。


「内容は?」


女王は、視線を横に流した。


そこにいたのは――小柄なゴブリン。


目が落ち着いている。


耳がやけに大きい。


「依頼の詳細は、“耳目”に聞け」


「うまくいけば、その子を、坊やに付けてあげる」


「優秀な個体よ」


耳目。


目と耳。


情報係。


……欲しい。


今の俺に足りないのは、腕力じゃない。


情報だ。


俺は一度だけ頷いた。


ここで、何を思ったのか女王が笑う。


俺を見下ろして、言う。


「坊や」


刺さる。


だが、言い返したら負けだ。


俺は淡々と返した。


「女王。話を――」


女王が、ぴしゃりと遮った。


「名を呼べ。ヘカテだ」


……面倒くさい。


でも、こういう面倒は安い。


命よりは。


俺は軽く頭を下げた。


「これは失礼」


「レディ・ヘカテ。話を続けてもよいかな」


女王――ヘカテは、満足したように目を細めた。


「いいわ」


俺は視線を“耳目”へ向けた。


依頼の詳細は、次。


ここから先は、こいつの言葉次第だ。


俺は、腹の底の嫌悪感をもう一度飲み込む。


生きる。


そのために、目の前の地獄と対面する。


――これが、俺の戦いだ。

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