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ゴブリンは、興す

帰り道。


下水は相変わらず臭い。


でも、さっきまでいた“偽の王室”よりはマシだ。


血の匂いが薄い。


それだけで、肺が楽になる。


ゴブタが棍棒を引きずりながら歩く。


ゴブ蔵は、少し後ろを歩いている。


足音が薄い。


さっきまで隣にいたのに、気づくと位置がズレている。


「おい」


俺が言うと、ゴブ蔵が肩を竦めた。


「なに、坊や」


殴りたい。


だが、今は報告だ。


---


ヘカテの“王室”に戻る。


あの腹。


あの産婆。


あの平常運転。


ここに戻るたびに、俺の中の常識が一枚ずつ剥がれる。


ヘカテは変わらない。


湿度の中心に、巨大な体を崩さず座っている。


「戻ったのね」


甘い言い回し。


でも、内容は刃物だ。


俺は一歩出て、短く報告した。


「偽の王を殺した」


「横流しの巣は潰した」


「逃げ道も塞いだ」


ヘカテは頷く。


「いい子」


褒め言葉に、胃が少しだけねじれる。


「今日から、名前を持ちなさい」


俺は一瞬、言葉を失った。


名前。


前世でも、俺は名前を持っていた。


でも、持っていない時間のほうが長かった。


番号。


肩書き。


役割。


呼ばれ方だけが変わっていく。


「……名前?」


ヘカテが、淡々と言う。


「ノワール」


「闇の色。下水に似合うわ」


似合う。


似合うかどうかなんて、どうでもいい。


でも。


名前を手に入れるのは、案外うれしかった。


胸の奥が、少しだけ軽くなる。


俺は小さく頷いた。


「分かった」


ヘカテは満足したように目を細める。


「また依頼があれば呼ぶ」


「坊やは、使える」


使える。


結局そこだ。


俺は頭を下げた。


「呼ぶなら、早めに頼む」


ヘカテが笑った。


「いいわ」


---


時間が経つ。


経済と人材のルート。


それが、手に入った。


生きるにしろ、殺すにしろ、情報は要る。


だから俺は、ゴブ蔵を使う。


使う、という言い方が気に食わない。


でも、やることは同じだ。


ゴブ蔵は、裏路地を走って、戻ってくる。


報告は短い。


たまに盛る。


でも、盛り方にも癖がある。


癖は補正できる。


「で、どっちが本当だ」


「本当っぽいほう」


「……」


「冗談」


冗談を言える余裕がある。


それは、生活が少しだけ回り始めた証拠だ。


朝。


配給所の鍋の底が、前より見えにくくなった。


粥が増えた。


混ぜ物じゃない。


ちゃんと腹に溜まるやつだ。


列が伸びても、殴り合いは減った。


列の先頭に立つやつが、ルールを覚えたからだ。


「袋、二つ」


「結び方、一つ」


「数字は声に出せ」


俺が言うと、ゴブリンたちが復唱する。


――復唱できる。


それだけで、下層は少しだけ変わる。


昼。


俺は帳面を開き、昨日のズレを探す。


ズレがあれば、そこを潰す。


潰せば、今日が回る。


ゴブ蔵は戻ってきて、壁に背を預けて言った。


「坊や。中層の拾い物、また増えてる」


「拾い物じゃない」


「じゃあ、落とし物?」


口が減らない。


だが、口が回るやつは、情報も回す。


夜。


ゴブリンたちが寝床に潜り込む前に、俺は一度だけ見回る。


死んでない。


盗まれてない。


起きてる。


それでいい。


生活は、こうやって回る。


---


それと同時に。


俺は気づいた。


部下のゴブリンたちが、変わっている。


進化。


そう呼ぶには、まだ早い。


でも、確実に“できること”が増えている。


ゴブタは、でかくなっている。


それだけじゃない。


武器を扱える。


ヘカテの兵から、でかい剣をもらったらしい。


「……いつの間に仲良くなったんだ」


ゴブタは首を傾げた。


「もらった」


会話にならない。


だが、剣を振る姿は、前よりまともだ。


たぶん。


棍棒と同じ感覚で振ってる。


それでも、前より危なくない。


そして最近は。


ゴブタが“武闘派”の訓練までつけ始めた。


配給所の裏。


瓦礫を片付けた空き地。


ゴブタが剣を地面に突き立てて、部下を並べる。


「ならぶ」


並ぶ。


下層で、並ぶのは珍しい。


「うごく」


ゴブタが半歩踏み出す。


それを真似して、部下も半歩。


「とまる」


止まる。


「ころぶな」


ころぶ。


でも立ち上がる。


それだけで、喧嘩よりマシだ。


殴り方じゃない。


ぶつからない歩き方。


剣の持ち方。


後ろに下がる癖。


ゴブタは難しいことを言わない。


言えない。


だから、体で教える。


結果。


部下の腕に、余計な傷が減った。


武闘派ってのは、強くなるためじゃない。


死なないための型だ。


それを、ゴブタが覚え始めている。


ゴブ蔵は、足音が薄くなった。


気配も薄い。


俺が油断すると、背後を取られる。


「お前、調子に乗るなよ」


「ボスこそ。目、甘くなってる」


腹が立つ。


だが、正しい。


ゴブ蔵は、気に入った若いのを集めて、妙な訓練を始めていた。


走る。


止まる。


隠れる。


報告する。


“目と耳”を量産しようとしてる。


他の部下も、各々変わっている。


特に、取り立てを任せているやつら。


頭が良くなっている。


金の流れを理解し始めている。


……危ない。


頭が良くなると、裏切りも上手くなる。


だから、ルールを先に置く。


俺も。


体が軽い。


手先が器用だ。


背も伸びていた。


前は人間の腰くらいだったのに。


今は、小柄な女くらい。


成長。


それは嬉しいことじゃない。


嬉しいのは、強くなることじゃない。


“回る”ことだ。


---


ちょうどいい。


集団には、名前が必要だ。


俺は配給所の前で腕を組み、みんなを見た。


泥。


臭い。


血。


それでも生きてる。


「名前を決める」


ゴブタが首を傾げる。


ゴブ蔵が笑う。


「スラッジカンパニー」


言った瞬間、空気が一段、熱くなった。


最初は、意味が分からない顔。


次に、理解。


そして、沸騰。


「スラッジ……?」


誰かが口の中で転がす。


「泥だ」


別のやつが笑う。


笑いが、広がる。


下層で笑いは貴重だ。


殴り合いより先に出ると、たいてい損をする。


でも今日は、損じゃない笑いだった。


「スラッジ!」


誰かが叫んだ。


「スラッジ! スラッジ!」


復唱が、勝手に始まる。


――復唱できる。


それは、ルールだけじゃない。


名前もだ。


ゴブタが剣を持ったまま、のろくさく頷いた。


ゴブ蔵が肩を揺らして笑う。


「いいねえ、ボス」


その一言で、列の奥から歓声みたいな声が上がった。


汚泥スラッジから這い出す名前だ。


泥をすすってでも生き残る。


俺だけじゃない。


こいつら全員が、生きられる場所を作る。


それが、ノワールの仕事になる。


――報告は終わり。

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