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①事件前前夜編

 ジトジトとした雨が降っている。生暖かく湿った空気に肌を晒しながら、林中の泥道を急ぐ。何度も足を取られそうになったが、一刻も早く目的地に着きたかった。


 丁度靴下に水が滲みだした頃、木々の合間に、レンガの朱色が鮮やかな古めかしい洋館が現れた。私の、生家だ。


 この屋敷を訪れたのは実に八年ぶりの事だった。遠く都内での仕事は多忙を極め、盆も正月も、全く帰るが無かったのだ。


 私が勤めるのは、父の興した製菓企業の東京支社だ。世間的にはとんと有名ではなかろうが、業界五本の指に入る実績を誇る巨大資本であり、同業者ならばその名を知らぬ者は居ないだろう。そんな大企業を一代で築き上げた父の手腕を、私は大変尊敬していた。


 その父が、死んだ。肝臓癌だったそうだ。壮年に至ってからはなるべく飲酒を控えていたようだが、やはり若い頃の無理が祟ったのだろう。


 大方の予想通り、私が今日ここにやってきたのは、父の死後の後始末をするためだ。後始末と言っても、単に葬儀を執り行うだけではない。葬儀の後、この館では父の会社の後継ぎを決める会合が予定されていた。


 というのも、父は生前後継者について一切明言せず、また遺言書の類も残さなかった。そのために、遺族と会社重役が一堂に会すこの場で、正式に後継ぎを決めようという話にまとまったのだった。


 しかし私は、殆ど確信していた。後継ぎには、きっと私が選ばれるであろうことを。東京支社にて、肩書きこそ執行役員の私であったが、実質的にはまるで支社長の如く振舞っていた。新事業の提案から、経営方針の転換まで独断でこなしていた私は、誰の目から見ても次期社長に最も近い男だったと言えよう。


 それに対し、私以外の二人の候補はどうだ。会社の重役を務めているどころか、ビジネスのビの字も知らぬうつけものだ。それが一体どうして、父の大会社の跡取りとなるものか。


 私は誇らしいような、それでいてどこか苛立たしいような気持ちで胸を大きく膨らませながら、屋敷のチャイムを鳴らした。


「おかえりなさいませ、幸人さん。貴方のお帰りをお待ちしておりました」


 私を初めに出迎えてくれたのは、住み込み家政婦の昭子さんだった。十年ほど前からこの屋敷に勤めていて、私とは然したる面識も無いはずなのだが、しっかりと顔を覚えてくれていたようだ。


「ひどい雨だよ、道がびちゃびちゃだ」

「お電話頂けたら、お迎えにあがりましたのに」

「それをしたら、昭子さんが大変だろう。他の客人のお世話もあるというのに」


 その気遣いの言葉に照れを覚えたように、昭子さんは表情をどぎまぎとさせた。


「皆もう集まっているのかい?」

「ええ、幸人さんのご到着で全員揃いましたわ」

「そうか、では待たせてしまったのだな」

「あ、いえ決してそういう意味では……」


 不意に皮肉らしい口ぶりをしたせいで、昭子さんは自身の台詞を失言だと捉えてしまったようだった。彼女は、少々他人の顔色を気にし過ぎるきらいがありそうだ。


「気にしないでいい。それより、待たせてしまったのだからご挨拶に伺わないと。今は、皆自室の中かな?」

「はい。先程ティータイムを終えて解散しましたので、大抵の方はお部屋に戻られたかと思います」

「ありがとう。荷物を置いたら早速向かうよ」


 私は客室としてあてがわれた二階の角部屋で手早く着替えを済ますと、和人――私の実の弟であり、後継者候補の一人である――が泊まっているという右隣の部屋の戸をノックした。


 数秒間沈黙が流れたかと思うと、何の返事も無しにドアがゆっくりと開かれる。


「……あ、やあ兄さん。久しぶりだね」


 戸口から顔を出した和人は、私の顔を見るなり、気まずそうに目線をキョロキョロと逸らした。私と会う時、こいつはいつもそうなのだ。どこか後ろめたそうに、ばつが悪いように、常に落ち着かない様子である。


「今しがた到着した。悪かったな、待たせたみたいで」

「いやそんな、兄さんが悪いだなんて……」


 和人は口をもごもごさせながら曖昧な言葉を続けたが、その意味はよくわからなかった。


 見てわかるように、和人はまるでうだつの上がらない男なのだ。何をするにも人並みにできず、動作は緩慢で言葉は。一応父の会社に勤めていると言っても、与えられたのは現場工場の部門リーダーという役目で、経営からは程遠い場所だ。誰がどう見ても、奴は有力な跡取り候補とはかけ離れた存在だろう。


「もういい。私は他の人に挨拶へ行くから」

「あ、うん。じゃあ、また後で」


 弟の部屋の戸が閉まると、私は背を翻して反対側の扉に目を向けた。この戸の奥に、もう一人の跡取り候補が間借りしている。


 男の名は、立木亮真。父の甥にあたる者だ。叔父が夭折してから、父は残された亮真とその母を、甲斐甲斐しく支援してきた。住まいは離れていたものの二者間の交流は盛んで、父は亮真を実子のように可愛がっていたという。その縁があって、今度の後継者候補に選出されたわけだ。無論私自身も彼らと多少の面識がある訳だが、何しろ幼い頃に何度か顔を合わせたきりなので、殆ど印象に残っていない。


 その亮真を、私は幾分か警戒していた。一歳になる前に父を亡くした亮真は、その後すぐに、母の生まれ故郷であるメキシコに移住した。幼少期から優秀な学才を発揮した彼は、現地の最難関大学に進学し、院生になってからは米国ハーバード大学にも留学したという。今秋大学院を卒業予定ということで、未だ社会に出たことの無い青二才であることは確かだが、しかしその輝かしい学歴は私の不安を密かに駆り立てていた。


 まかり間違っても彼に後継の座を渡してはならない。その憂いを打ち消すためには、とかく彼と直接対面して、その人格をこの目で確かめる他ない。


 私は弟の時のそれとはまるで違う面持ちで、亮真の部屋の前に立った。無意識の内に、先ほどより少しだけ丁寧に扉をノックする。


「はーい」


 という愛想のよい返事と共に、ガチャリと戸が開かれる。中から現れたのは、小柄に丸い黒縁眼鏡の、親しみやすそうな人物だった。


「こんにちは、幸人さんですか?」

「ええ、いかにも」

「どうぞ、中にお入りください。立ち話もなんでしょうから」


 私はそのまま室内に通され、二人掛けのソファーに腰を据えた。それで丁度、ガラス製のテーブルを間に挟んで、亮真と向き合う形になった。


「お久しぶりですね、幸人さん。あなたの事はよく覚えていますよ。最後に会ったのは二十年も前の事だけど、以前の面影をよく残していらっしゃる」

「はあ、そうでしょうか。すいません私の方は、昔の事はすっかり忘れてしまったもので……」


 亮真は私が少し気まずそうにするのを見ると、目を皿にして大きくはにかんだ。


「幸人さん、緊張する必要はありませんよ。僕らは実の従兄弟同士じゃありませんか。もっと腹を割って話し合いましょうよ」

「……ええ、そうですね」


 その相槌を打つ頃には、私はすっかりこの従兄弟に圧倒されていた。浅黒い肌に大きな青い瞳、それに筋の通った大鷲鼻といういかにも半毛唐人らしい面立ちの亮真は、典型的な平たい日本人顔の私とは対極的だった。立ち振る舞いの上でも、寡黙で物静かな私とは正反対に、亮真は豊かに表情を動かしながらハキハキと喋り、まさしく才気煥発といった具合だった。もし第一印象で後継者を選ぶというのなら、私は間違いなく彼に敗北していただろう。


 十分余り談笑した後に、私は席を立った。やけに膝から下が重たくて、歩き出すのに少し苦労した。


 いやはや私は、すっかり勝負に負けた気分だった。こんな風に誰かに強烈な劣等感を抱くのはいつ以来であろう。去り際に亮真が「またディナーの時に」と言うのを聞いて、もう一度この気分を味わう羽目になるのかと、ひどくげんなりしたのをよく覚えている。


 しかし、そんな風に意気消沈している場合ではなかった。その場で一服して気持ちを持ち直すと、残りの招待客に挨拶して回った。


 亮真の隣の部屋――即ち私の正面の部屋には、亮真の母と、彼の婚約者が間借りしていた。遠く異国に単身乗り込むのを不安がった亮真が、母国から連れてきたらしい。彼女たちは明後日の会議に出席する訳ではないが、跡取り候補の親類ということで、非常に大事な来賓である。


 二人とも純然たるメキシコ人であったが、日本に滞在した期間も長かったということで、なかなか堪能な日本語で私を歓迎してくれた。と言っても、取り立てて話し込むような話題もなかったため、その訪問は五分足らずで終わった。


 他に、鈴木、廣井、吉川という来賓があったが、これらは皆会社の取締役で、オフィスで頻繁に顔合わせするものだから、特に改まった挨拶をすることもなかった。


 それでようやく部屋周りを終えて自室で休んでいると、間もなく昭子さんがお茶を運んできた。戸をゆっくり開き、部屋に迎え入れてやる。


「お口に合うかどうかわかりませんけど……」

「悪いね、気を遣わせてしまって」


 フルーツのような甘い香りのする紅茶を口に運ぶ。うまい。こんな悪趣味なティーカップに注がれていなければ、もっと美味しく味わえただろうに。


「亮真さんは、どのようなご印象でしたか」

「ああ」


 私は少しドキリとしたのを誤魔化すように、カップを深く傾けるようして持った。


「なかなか侮れない青年だよ。後継者争いの、最大のライバルになるかもしれないな」


 と、殆ど本音ままを、努めて冗談めかして言ってみる。


「まあ、それでは幸人さんも気が抜けませんわね」


 果たしてそれは、きちんと冗談として伝わったようだ。私はほんの少しだけ、緊張が和らぐのを覚えた。


 次いで昭子さんは、私に倣ってか、亮真を讃えるような言葉を並べた。けれど動揺のせいか、言葉はするりと耳から耳へ抜け、まるでその意味を理解できなかった。


 私が茶を飲み干すと、昭子さんはカップを下げて出て行った。チラリと時計に目を遣ると、時刻は間もなく五時になろうかという頃合い。夕食は七時からと言っていた。まだ十二分に時間が余っている。


 私はまだ少し湿っている上着を羽織ると、部屋を出た。食事の時間まで、中庭で時間を潰そうと思ったのだ。窓の外を眺めたところ、もうすっかり雨は上がっているようだったから、きっといい気分転換になるだろう。


 出来れば誰とも会いたくなかったが、それは叶わなかった。階段の踊り場に差しかかかった際、一階の廊下にて、亮真と誰かが話しているのが見えた。相手は、和人だった。大方、トイレにでも行こうとした所に、あのお喋りなハーフ男に捕まったのだろう。


 普通に見れば、社交的な青年が自身の従兄弟と打ち解けんとしている、ありふれた構図に過ぎない。が、捻くれた私には、彼らが後継者争いで手を組むべく交渉しているように思われて、どうも心持ちがよくなかった。けれども幸い、彼らの位置は私の行きたい方向と逆側にあったため、なんとか気づかないふりをしてやり過ごすことができたのである。


 玄関扉の正面にある、大きな二枚扉を開く。雲間から差し込む黄昏の光に照らされた、鮮やかな庭が視界に現れた。名前もわからない様々な植物が、一面に咲き乱れている。植物観賞が好きな父が、長年かけてこの植物園さながらの庭園を造りあげたのだった。知識こそ乏しいものの、きれいな草花を愛でるのは私も嫌いでなかった。夕飯までの暇つぶしとしては、申し分ない戯れとなるだろう。


 中庭中央にある噴水を越えると、更に奥の方に二つの人影があるのに気付いた。思いがけないことに、先客があったのだ。風になびく二対のブロンドヘアーが、西日を反射してギラギラと輝いている。それは、亮真の母と婚約者――カルメンとマリアだった。


 一瞬どうしたものかと迷ったが、無視をするわけにもいかないので、こちらから話しかけることにした。


「こんにちは。何をしているんですか?」


 不意に話しかけられて、二人は少々驚いた面持ちで後ろを振り返る。


「ああ、ユキトさん。こんニちは。ええっと、花を……見ていたんです。カルメンは、花を見るノが好きなので」


 マリアは殆ど淀みない日本語で、状況を説明してくれる。部屋へ訪問した時にも思った事だが、これで初来日というから驚きだ。


 彼女の説明通り、亮真の母カルメンは、庭に咲く花々、特に彼岸花をしげしげと見つめていた。相当、お気に入りのようだ。それでもこちらの視線はしかと察知しているようで、気を遣うように話を振ってくれる。


「幸人くんは、花に詳しいかしら?」

「いえ、恥ずかしながら全く無学でして」


 カルメンは尚も、私でなく花を見つめたまま続ける。


「彼岸花は日本では不吉な花よね。墓地の周りに植えられていて、死を連想させるから。でも、うちの国ではとても好まれる植物なのよ」

「へえ、初めて聞きました」

「母の日に送ったりもするの。亮真も以前、わたしに彼岸花を送ってくれたのだけど、後で日本での因縁を知って慌てふためていたわ。勿論わたしは、全然気にしていなかったのだけれど……」


 少し会話をしただけでも、カルメンは相当教養のある女性であることが推し量れた。私はその話を興味深く聞きながら、この母にしてあの亮真ありか、等と思いを馳せていた。


 とその時、背後から私たちを呼ぶ声が聞こえた。ギョッとして振り返ると、さっき私が通った庭への出入り口に、長い腕を左右に振りながらこちらに近づいてくる亮真の姿があった。


 私は一瞬目を閉じると、刹那に平常心を取り戻し、もう一度従兄弟の姿を注視した。その影は、既に間近に迫っていた。


「……やあ亮真くん、先ほどぶり。一人かい?」

「うん。ずっと誰かと居るのもしんどいからね」


 亮真はわざとらしく大きなため息をついて、感情をオーバーに表現してみせた。


「幸人くんは二人と仲良くなったのかい?」

「いや、仲良くなったというほどでは。単に花の解説を聞いていただけなので」


 そう私が濁すのを、


「そんなコトないワ。もうすっかり仲良しじゃない、わたしたち」


 と、マリアが訂正した。彼女たちの間では、随分仲良しのハードルが低いらしい。


 亮真はそれを聞いても一切の嫉妬らしい素振りを見せず、へらへらと笑っている。つくづく欧米人らしい開けた性格の持ち主だと思った。


「亮真はね、こう見えてとても甘えん坊なのよ」


 そこに、カルメン自身も新たな話題を提供する。人が会話するのを見守るだけなのは、性分に合わないらしい。


「そうなんですか?」

「ええ、昔からわたしが近くに居ないと落ち着かなくて。だから今も、屋敷の中にわたしたちの姿が見えないものだから、こうして慌てて探しにきたのよ」


 母の言葉を聞くなり顔を赤くして狼狽している亮真の様子を見るに、それは本当の話らしかった。少し意外なようで、それでいて「ああそうだろうな」と妙にすんなり納得することもできた。


 カルメンは続けて、亮真の幼少時代の話をしてくれた。そのエピソードは多岐に渡ったが、どれもこれも最後には「亮真は甘えん坊だ」と結論付けるものばかりだった。息子は甘えたがりと言うが、この母親もなかなかの親バカであろう。


 それを聞くのが忍びなかったのか、亮真はマリアを連れてどこかに行ってしまったが、暫くすると戻って来て私たちに語りかけた。


「幸人くん、母さん。もうすぐ夕食の時間だよ」

「ああ、もうそんな時間か」

「わたしたちも屋敷に戻りましょうか」


 取り立てて会話が弾んだ記憶は無かったのだが、いつの間にか多くの時間が流れていた。やはり、誰かと話をしていると時間が経つのは早いものだ。


 私たちは今夜の献立は何だろう等と話しながら、四人連れ立って屋敷の食堂へと足を運んでいった。


 食堂には既に、私たち四人以外の者全員が席についていた。きっとあまりに手持無沙汰だったから、予定時刻よりも早く集まってきたのだろう。


 私は出席者たちの顔色をそれとなく窺った。弟・和人はいつものようにしきりに黒目を動かし、落ち着きのない様子である。馴染みの取締役らは、いくらか改まった表情で、普段よりやや老けて見えた。


 しかし何より気がかりだったのは、祖母の顔色である。大黒柱である父が逝去した今、年長者である祖母は、一時的にとはいえ、一家の最高権力者だった。


 いや、単に歳をとっているというだけではない。戦争で夫を失った祖母は、幼い父を女手一つで育て上げたという。そのため、父は祖母に全く頭があがらず、成人してからも、事業に関して度々祖母の意見を仰いでいたらしい。そうした背景があるからこそ、祖母は今こうして、晩餐会の主席でふんぞり返っているというわけだ。


「おばあ様、お久しぶりです」


 祖母の、その向かって右隣に席を用意された私は、必然的に着席時に挨拶を申し上げることになった。屋敷の到着時には挨拶をしなかったから、これが本日初めての会話となる。


「幸人か。最近碌に顔も見せんで、よくものうのうとやって来れたもんじゃの」


 思った通り、祖母の言葉にはとげがあった。別に、挨拶が遅れた事を怒っている訳じゃない。この人は、私の事を嫌っているのだ。


 私は幼い時分から、両親や祖母――いや周囲の全ての大人に対し極めて従順で、何を言われても「はい、はい」と愚直に従ってきた。その態度が、祖母には不愉快だったらしい。自分の意思を持たず、他人の意見に迎合するばかりの、無機質な子というレッテルを貼られてしまったのだ。


 私自身その自覚はあったが、成人してからはその傾向は薄れ、自分で物事を判断する癖も身に付いた。だが、祖母は未だに、私を意志薄弱のでくの坊だと捉えているらしかった。


 祖母のこの態度が、皆の心象に響くのではないか。そうなればもしや、不動だと思っていた私の後継者の立場揺らぐのではないか。そうした不安が、急に大きく膨らんできた。


 それだから私は、昭子さんが料理を運んできた後も気が気でなく、やたらと早食いに鴨肉やかぼちゃのスープを平らげ、あとはひたすら会がお開きになるのを待った。途中対面の亮真や取締役たちと何度か言葉を交わしたが、これまた殆ど覚えていない。ただ、食後の赤ワインに強烈な酸味を感じたことだけがよく印象に残っている。


 ようやく解散したところで、亮真に「チェスでもしませんか」と誘われた。が、とんとそんな余裕はなかったため、ルールがわからないと理由をつけて断ってしまった。


 自室に戻ると、時刻は八時半だった。まだ床につくのには早すぎる時間だったが、この精神状態では何をするにも捗らないと思って、そのままベッドに潜り込んだ。


 疲れていたせいか、案外早く睡魔は降りてきた。うとうとした意識の中、亮真や祖母の姿が脳裏に浮かんでくる。亮真のあの、薄ら笑いの張り付いた憎らしい顔つき。祖母の、眉間の皺がすっかり馴染みきった、醜く歪んだ表情。


 ――ああ、なんて腹立たしい!私の行く末を阻む者達め。さっさとどこかへ消えてしまえ!!

 そう祈ると、彼らの姿は忽ち消え失せ、私の意識は再び深い闇の底へと沈んでいった。これでいい。やっと眠れる―……。




 ふと、私は覚醒した。先程までまどろんでいたのが嘘みたいに、パッチリと目が見開き、壁掛け時計の針音が不気味なほど大きく頭に響く。まるで体が眠りに落ちるのを拒んでいるかのように、急激に現実に引き戻されたのだった。


 強いストレスにさらされている時、私はこのような事態に直面することがしばしばある。本能的に危機を察知した脳が、眠ったら死んでしまうと、警告を発しているのだろうか。


 経験的に、このままベッドに潜っていても眠りにつけないことはわかっていた。私はベッドから這い出ると、机上のタバコを胸ポケットにしまって、部屋を出た。


 外の風を浴びながら、ゆっくり一服しよう。そうすれば、少しは気分が落ち着くだろう……。


 一階の灯りは、全て消されていた。もう皆寝静まった後なのだろう。これならば、今度こそ誰とも出くわす事はないだろうと、胸を撫で下ろした。


 だから玄関扉を開けた時に、右脇の柱に人がもたれかかっているのを見て、私は驚きのあまり反射的に戸を閉めてしまったのである。


(いや、今の人影は……)


 しかし、残像を脳内で結び直すと、すぐにそれが畏怖に値しない相手だと判ったので、幾ばくも経たぬうちにもう一度戸を開いた。


 私の見当は間違っていなかった。再び外の視界が開けると、向こうも一度戸が開いたことに気づいていたようで、こちらの方をじっくり注視するように顔を向けていた。弟の、和人だった。


「やあ、兄さん。どうしたの」

「お前こそこんな時間に一体…‥」


 と、言いかけた所で、今は自分が思っているほど遅い時間じゃないのだろうと思い至った。


「早く寝ようと思ったんだが、うまく寝付けなくて。お前の方は?」

「僕も明後日の会合が不安で、眠れなかったんだ」


 お前がそんな心配をする必要があるのかと内心嘲笑したが、態度には示さないようにした。


「兄さんは、誰が後継者に選ばれると思う?」

「……私か、亮真だろうな」


 包み隠さず、本音を言った。


「そっか。兄さんが家を継ぐなら、それはそれでいいんだ。けど、あの亮真とかいう男はなんだが信用ならないよ。目つきが怖いし、外国育ちってこともあるから、何を考えているのかよくわからない」

「それについては、私もそう思う」


 和人と意見が合ったのは何年ぶりだろうか。どれだけ性格を異にしてもやはり血を分けた兄弟―……いや、単に二人とも、唐突に現れた異国からの刺客に、理不尽な敵愾心を向けているだけかもしれない。


「僕、何か行動するよ。絶対、あいつに会社を渡しちゃいけない……」




 翌日、予定通り父の葬儀が催された。山中の会場とあって、参列者は近隣の親戚一族や会社の重役に限られていたが、それでも喪主としての私の務めは煩雑を極め、その日は丸一日忙殺されていた。

 そんな中でも印象に残ったことが二つほどあった。


 一つは、亮真の立ち振る舞いである。


 私と違って式中に体が自由だった亮真は、参列者である会社関係者に手当たり次第に声を掛け、自分の存在を認知してもらおうと図っていたようだった。まるで自分が後継者に選ばれた後のために地盤固めをしているかのようで、その浅ましさにひどく呆れさせられた。が同時に、その物怖じしない性格と交渉能力は、必ず社の武器になるとも思われた。


 もう一つは、和人の態度だった。和人は葬儀の最中も、その後も、ずっと亮真に視線を送っていた。それも、あからさまな敵意のこもった視線である。亮真自身も途中からそれに気づいていたようではあったが、取り立てて気にしている様ではなかった。だが、それとは裏腹に、私は危機感を抱いていた。ああいう足らない男は、時としてとんでもなく大胆な行動を起こすことがある。


 何か、間違いがあってはならない―。私は、強く強く、自分を戒めた。


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