「オマエ、ウルサイ」
タイムジェイルで迎える、最初の朝。
「……朝か」
柳は、見慣れない天井をぼんやりと眺めながらつぶやいた。
昨夜は、リーゼロッテの家に用意されていた寝室で休んだ。ベッドは驚くほど寝心地がよく、普段なら朝までぐっすり眠れただろう。
しかし、ここは地球ではない。
外部との連絡手段はなく、帰ることもできない。しかも、レベル60に到達するまで修行を続けると、昨夜のうちに告げられていた。
「……マジで、帰れねえんだよなぁ」
枕に顔を埋めたくなる気持ちをこらえ、柳は身体を起こした。
隣の部屋では、琴もすでに起きて身支度を整えていた。
「おはよう、柳」
「おう……。お前、よくそんな普通に起きられるな」
「いつまでも悩んでいても仕方ないからね。それに、修行する以上は早く慣れたほうがいい」
「分かってるけどよぉ……」
柳がぼやいていると、廊下の向こうから小さな足音が聞こえてきた。
「おっはよー! 起きてるー?」
扉が勢いよく開き、木の葉を髪に飾った小柄な少女が顔を出した。
見た目は幼い少女そのものだが、頭には若葉のような飾りがあり、髪の一部は細い蔓のように揺れている。肌には植物を思わせる淡い模様が浮かび、どこか人間離れした雰囲気を漂わせていた。
「……誰だ、お前?」
「えーっ、昨日紹介されたじゃん! あたし、ドライアド! 今日からお世話係をしてあげるんだよ!」
「ああ、そういやそんな話だったな」
「なにその反応? せっかくかわいいドライアドちゃんがお世話してあげるのに、うれしくないの?」
「自分でかわいいとか言うなよ……」
「はぁ? なにそれ。朝から感じ悪ーい!」
ドライアドは頬を膨らませた。
「ま、いっか! 朝ご飯できてるよ! 早く来ないと冷めちゃうからね!」
そう言い残すと、ドライアドはぱたぱたと廊下を走っていった。
「……元気なやつだな」
「そうだね」
「琴、お前、あいつにからかわれても平気そうだな」
「まだ何もされていないからね」
「……あたしは、もうちょっと苦手かもしれねえ」
柳は深々とため息をついた。
そして、2人は食堂へ向かった。
テーブルの上には、焼きたてのパンに野菜のスープ、卵料理、果物まで並んでいた。見たことのない食材も混ざっていたが、どれも香りがよく、思わず食欲をそそられる。
「おお……!」
柳の顔が、ぱっと明るくなった。
「すげえな。これ、全部食っていいのか?」
「もちろん! あたしが用意したんだから、残さず食べてよね!」
「お前が作ったのか!?」
「そーだよ? なに、文句あるの?」
「いや、ねえよ! いただきます!」
柳はさっそくパンに手を伸ばした。
ひと口食べた瞬間、目を見開く。
「……うまっ!」
「ふふん! 当然でしょ!」
ドライアドが得意げに胸を張った。
「こっちのスープもおいしいね」
琴も一口ずつ味わいながら、感心したようにうなずく。
「野菜の甘みがよく出ているし、香草の使い方も上手だ。これなら、長期間の修行でも食事には困らなさそうだね」
「でしょでしょ! もっと褒めてもいいよ!」
「……ただし、修行が厳しすぎるのが問題だけどな」
柳がぼそりとつぶやいた。
「んー? なにか言った?」
「いや、何でもねえ!」
食事を終えた頃、リーゼロッテが食堂にやってきた。
「皆さん、おはようございます。朝食はどうでしたか?」
「めちゃくちゃうまかった!」
「私も、とてもおいしかったです」
「ふふ。ドライアドが張り切ってくれたようですね」
「えへへ! あたし、こういうの得意だもん!」
ドライアドは褒められて、ますます機嫌をよくした。
リーゼロッテは2人を見上げ、穏やかに告げた。
「では、食事も済んだことですし、そろそろ修行を始めましょうか」
「……ああ、いよいよか」
柳は背筋を伸ばした。
琴も静かにうなずく。
「よろしくお願いします、先生」
「はい。まずは剣術から始めましょう」
リーゼロッテがそう言った瞬間、柳の表情が少しだけ明るくなった。
「おっ、先生が教えてくれるのか?」
「いいえ。私、剣術は専門外ですから」
「……えっ?」
「ですので、今回は専門の先生を用意しました」
リーゼロッテが指先を軽く振る。
すると、訓練場の隅に淡い光が集まり、やがて小さな影が姿を現した。
全身を茶色い毛に覆われた、猿だった。
ただし、普通の猿ではない。
腰には鞘があり、手には使い込まれた剣が握られている。背丈は人間の子供ほどだが、立ち姿には不思議な威圧感があった。
猿は周囲を見渡し、柳と琴を見つけると、じろじろと2人を観察した。
「……コイツラ、オマエの弟子?」
「ええ。剣術を教えてあげてくださいね」
「ワカッタ」
猿は短く答え、それから柳へ視線を向けた。
「オマエ、剣、ツカウ?」
「……使うけど?」
「フーン」
猿は柳の構えを見て、鼻を鳴らした。
「ヘタ」
「……は?」
「オマエ、剣、ヘタ」
「おい、いきなり何だと!?」
柳が一歩前へ出る。
猿はまったく動じず、剣を肩に担いだ。
「オマエ、口、デカイ。剣、ヘタ。オレ、オシエル」
「この猿ぅ……!」
「柳、落ち着いて」
琴が慌てて止めた。
しかし、琴も猿の姿をじっと観察していた。
無駄な力が入っていない。剣を持つ腕も、足の置き方も自然で、いつでも動けるように重心が整っている。
小柄な身体なのに、どこから攻めても反撃されそうな気がした。
「……先生。この猿は、かなりの使い手なのですか?」
「ええ。剣術に関しては、私よりもずっと優れていますよ」
「サル、チガウ」
猿がすかさず口を挟んだ。
「オレ、ケンシ」
「剣士なのかよ!?」
「ソウダ。サル、チガウ」
「いや、見た目はどう見ても猿だろ!」
「オマエ、ウルサイ」
「んだと!?」
「柳……」
琴が額を押さえた。
まだ修行は始まってすらいないのに、すでに先が思いやられる。
猿は柳の前まで歩いてくると、剣を構えた。
「マズ、オマエ。カカッテコイ」
「……あたしとやるって?」
「ソウダ。オマエノ剣、見ル」
柳はにやりと笑い、剣を抜いた。
「いいぜ。後悔すんなよ!」
勢いよく踏み込む。
柳の剣が猿へ迫った。
だが、猿は半歩だけ横へ動いた。
それだけで剣は空を切る。
「なっ――」
柳が体勢を立て直すより早く、猿の剣が手首を軽く打った。
剣先が逸れる。
続いて足を払われ、柳はあっさり地面に転がった。
「いってぇっ!?」
訓練場に、柳の悲鳴が響いた。
猿は剣を肩に担ぎ、倒れた柳を見下ろした。
「オマエ、口ダケか?」
「……っ、この猿!」
柳が立ち上がる。
「もう一回だ!」
「イイヨ」
猿はあっさりとうなずいた。
そして、数分後。
「……っ、くそぉ……!」
柳は再び地面に転がっていた。
今度は剣を弾かれたうえ、足運びを崩されて転倒したのだ。
猿は相変わらず平然としている。
「マダ、ダメ。ムダナ動キ、多イ」
「うるせえ……!」
「オマエ、マタ怒ル。剣、見テナイ」
「……っ!」
柳は言い返そうとしたものの、すぐには言葉が出てこなかった。
悔しいが、猿の言うとおりだった。
相手の動きを見るより先に、自分から攻めようとしていた。剣を弾かれた後も、体勢を立て直すことより反撃を優先していた。
猿はそれを、簡単に見抜いていたのだ。
「……なるほど。確かに、無駄が多い」
琴がつぶやく。
「琴、お前もやる」
「分かった」
琴は剣を構えた。
柳とは違い、すぐには踏み込まない。猿の動きを観察し、間合いを測る。
猿も、琴の様子をじっと見ていた。
「オマエ、ヨク見ル」
「……ありがとう」
「デモ、考エスギ。動キ、遅イ」
次の瞬間、猿が踏み込んだ。
琴は反応して剣を合わせようとしたが、わずかに遅れた。剣を受け流され、肩を軽く打たれる。
致命的な一撃ではない。だが、もし実戦なら、その時点で勝負が決まっていた。
「……っ」
琴は距離を取り、剣を構え直した。
猿は小さくうなずいた。
「オマエ、柳ヨリ、マシ。デモ、マダ弱イ」
「……そうか」
琴は悔しそうに目を細めたが、反論はしなかった。
自分に足りないものがある。それを認めることも、修行の一部だ。
「では、私は魔法の訓練に移りましょうか」
リーゼロッテが穏やかに告げた。
「お二人とも、剣術の課題は見つかったようですね。これから少しずつ直していきましょう」
「少しずつ、ねぇ……」
柳は土を払いながら立ち上がった。
「こっちは、すでにボコボコなんだけど……」
「まだ午前の訓練が始まったばかりですよ?」
「……マジかよ」
柳の顔から、みるみる血の気が引いていった。
そのとき、ドライアドがどこからともなく現れた。
「はいはーい! 倒れた人には回復薬をあげるよー!」
「……あ? いや、別に倒れてねえし」
「えー? さっき地面に転がってたじゃん?」
「もう立ってるだろ!」
「じゃあ、次に倒れたらね!」
ドライアドはニヤニヤと笑いながら、瓶を振ってみせた。
「覚悟しててね! あはっ!」
「……絶対、楽しんでるだろお前」
「そりゃあね!」
「開き直るな!」
こうして、タイムジェイルでの修行が始まった。
午前中は剣術の基礎と反復練習。午後は魔法の訓練と、実戦を想定した動きの確認。夜には、その日に学んだことを振り返る座学が待っている。
レベル60に到達するまで、これを繰り返す。
まだ初日だというのに、柳はすでに帰りたくなっていた。
そして、琴もまた、この場所で待ち受けている修行が想像以上に厳しいものになると理解し始めていた。
* * *
午前の剣術訓練が終わる頃には、柳も琴も汗だくになっていた。
「……はぁ、はぁ……。ちょっと待て……。休憩……」
柳が膝に手をつく。
「オマエ、休憩、多イ」
「うるせえ! 人間には休憩が必要なんだよ!」
「オレ、休憩、イラナイ」
「お前は猿だろうが!」
「サル、チガウ。ケンシ」
「そこは譲らねえのかよ!」
猿は首を傾げた。
「オマエ、口、元気。マダ、デキル」
「いや、そういう問題じゃ……」
「デキル。ヤル」
「横暴すぎんだろ!」
結局、柳はもう一度構え直すことになった。
琴も休憩を挟みながら、何度も同じ動きを繰り返していた。猿は2人の剣筋を見て、少しでも無駄があればすぐに指摘する。
剣を振る角度。踏み込む距離。相手の攻撃を受けた後の足の位置。視線を向ける先。
ほんのわずかな違いが、次の動きを大きく左右する。
柳は勢いのある攻撃を得意としていたが、その勢いに頼りすぎていた。琴は相手の動きを見極めることに長けていたが、考える時間が長くなり、反応が遅れることがあった。
猿は、2人の長所を否定することなく、欠点だけを容赦なく突いてきた。
「柳、剣、振リスギ。戻リ、遅イ」
「分かってるよ!」
「分カッテナイ。マタ、同ジ」
「……っ、くそ!」
「琴、見ルノ、イイ。デモ、見ルダケ、ダメ。身体、動カス」
「……分かった」
琴は短く返事をし、再び構えた。
そして、昼。
「ご飯だよー!」
ドライアドの声が響いた瞬間、柳は剣をしまい、誰よりも早く食堂へ向かった。
「よっしゃ! 昼飯!」
「さっきまで、あんなに疲れていたのに……」
琴が呆れたようにつぶやく。
「飯は別腹だろ!」
「……そういうものなの?」
「そういうもんだ!」
食堂に並んでいた昼食も、朝に負けず劣らず美味しかった。温かいスープに、香ばしく焼かれた肉料理。見慣れない果物も添えられている。
柳は一口食べるたびに、機嫌を直していった。
「……うまい。ここ、飯だけは最高だな」
「それは同感だね」
琴も素直にうなずいた。
リーゼロッテは、そんな2人を見て微笑んでいた。
「食事は大切ですからね。しっかり食べて、午後に備えてください」
「……午後も、あの猿とやるのか?」
「はい。午後は魔法の基礎訓練もありますが、剣術も続けますよ」
「……だよなぁ」
柳はスプーンを置き、天井を仰いだ。
その向かいで、リーゼロッテは小さなカップを手に取った。
「ところで、先生は何を飲んでるんだ?」
「紅茶ですよ」
「……優雅だな、おい」
「ふふ。午後の訓練まで、少し時間がありますから」
リーゼロッテは紅茶を一口飲み、満足そうに息を吐いた。
柳はその姿を見て、何とも言えない顔になった。
「……あたしたちが汗だくで剣振ってる間、先生は紅茶かよ」
「私は指導する側ですから」
「その言葉、便利すぎねえか!?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ!」
琴が小さく笑った。
こうして、タイムジェイルでの最初の一日は、まだ半分も終わっていなかった。
* * *
午後の訓練場。
「では、次は魔法の適性を確認しましょう」
リーゼロッテは2人を前にして、穏やかに告げた。
「剣術だけではなく、魔法も使えるようになれば、戦い方の幅が広がります。まずは、お二人がどのような魔法に適性を持っているのか調べてみましょう」
「適性って、使える魔法の種類が分かるってことか?」
「はい。誰もがすべての魔法を使えるわけではありません。得意な分野もあれば、どれだけ練習しても扱えない分野もありますから」
リーゼロッテは、地面に小さな魔法陣を描いた。
「この魔法陣に手をかざしてください。魔力の反応から、適性を調べます」
最初に呼ばれたのは柳だった。
「よし。やってみるか」
柳が魔法陣に手をかざす。
しばらくすると、魔法陣の中央に黒い光が浮かび上がった。光はゆっくりと広がり、地面に落ちた柳の影へと吸い込まれていく。
「……お?」
柳が自分の足元を見下ろした。
影が、わずかに揺れた。
風もないのに、柳の影だけが不自然に伸び縮みしている。
「これは……」
リーゼロッテが興味深そうに目を細めた。
「柳さんは、闇魔法に適性がありますね」
「闇魔法?」
「はい。特に、影を操ることや、相手の能力を低下させる魔法と相性がよさそうです」
「へえ……。影を操る、か」
柳は自分の影を見つめた。
剣術の訓練では、相手の動きを見て攻めることを求められた。もし影で相手の動きを妨げられるなら、攻撃の機会を作りやすくなるかもしれない。
「それに、相手の身体能力や反応を弱めることもできるのでしょうか?」
琴が尋ねた。
「ええ。もちろん、相手の強さや魔力抵抗によって効果は変わりますが、そういった方向に伸ばせる適性ですね」
「なるほど……」
柳はにやりと笑った。
「いいじゃねえか。相手を弱らせてから斬る。あたしにぴったりだな!」
「ただし、使いこなすには訓練が必要ですよ?」
「分かってるって!」
リーゼロッテは小さく笑い、次に琴を呼んだ。
「では、琴さん。お願いします」
「はい」
琴が魔法陣に手をかざす。
今度は、地面の小石がかすかに震えた。
そのうちの1つがふわりと浮かび上がり、琴の手の動きに合わせて空中を移動する。続いて、近くに置かれていた金属片も浮き上がり、石と並んで静止した。
「……物質操作ですね」
リーゼロッテがうなずいた。
「琴さんは、物質そのものを操る魔法に適性があります。形を変えたり、動かしたり、状況に応じて利用したりできるでしょう」
「物質操作……」
琴は浮かんだ小石を見つめた。
剣を使う自分にとって、武器を扱う技術と相性がよさそうな魔法だった。戦闘中に周囲の物を利用できれば、剣だけでは対応できない状況でも戦術を組み立てられるかもしれない。
「それと、剣を召喚することもできると思います」
「剣を召喚?」
「はい。物質操作の応用として、魔力から剣を形作る方向ですね。ただし、最初から自由自在に扱えるわけではありません。形を安定させることも、実際に武器として使える強度を保つことも、練習が必要です」
琴は真剣にうなずいた。
「分かりました。試してみます」
一方、柳は自分の影を足で踏みながら、何度も動かそうとしていた。
「……こうか?」
影が少し伸びた。
「おっ、動いた!」
しかし、次の瞬間には元に戻ってしまう。
「……あれ?」
「柳さん。影を無理に引っ張ろうとするのではなく、魔力の流れを意識してください。影はあくまで、魔法を作用させる対象のひとつです。力任せに動かそうとすると、制御が乱れますよ」
「うーん……。分かった」
柳は眉を寄せ、もう一度集中した。
琴もまた、小石を浮かせたり、形を変えようとしたりしていた。だが、思ったように動かせず、何度も失敗を繰り返す。
「……難しいね」
「最初はそんなものですよ」
リーゼロッテは2人を見守りながら、丁寧に助言を続けた。
魔法の適性があることと、魔法を使いこなせることは別だ。
これから先、2人は自分の適性に合った魔法を、何度も練習して身につけていかなければならない。
そして、ここで覚えた技術を、魔物との実戦で使えるようにする必要がある。
「今日は基礎を覚えるところまでで十分です。明日からは、剣術と魔法を組み合わせた訓練も始めましょう」
「……明日から?」
柳が顔を上げた。
「はい」
「今日だけでも、かなりきつかったんだけど……」
「まだ初日ですよ?」
「……ですよねぇ」
柳は肩を落とした。
その様子を見て、ドライアドが楽しそうに笑った。
「なに? もう疲れちゃったの? ざぁこ♡」
「お前は黙ってろ!」
「あははっ! 元気じゃん!」
ドライアドはケラケラと笑いながら、回復薬の瓶を振ってみせた。
「明日もいっぱい用意してあげるね!」
「いらねえよ!」
「えー? でも、どうせ使うことになるよ?」
「……っ!」
柳は言い返そうとしたが、何も言えなかった。
残念ながら、ドライアドの予想はかなり当たっていそうだった。
* * *
夕方、訓練を終えた柳と琴は、食堂で夕食を取っていた。
身体は疲れ切っていたが、食事の美味しさだけは変わらない。2人とも、朝と昼に続いて、しっかりと食べていた。
「……なあ、琴」
「何?」
「ここ、飯だけは本当に最高だよな」
「……そうだね」
「修行が終わるまで帰れねえのは最悪だけど、食事がうまいのは助かるわ」
琴は苦笑した。
「食事がまずかったら、もっとつらかっただろうね」
「間違いねえ」
夕食のあと、2人は入浴を済ませた。
湯に浸かっている間だけは、ようやく身体の力を抜くことができた。とはいえ、明日も朝から訓練が待っている。あまり長く休んでいるわけにもいかない。
入浴を終えて共有スペースへ戻ると、リーゼロッテがソファに座っていた。
片手には紅茶のカップ。
もう片方の手には、スマートフォン。
画面を指で滑らせながら、楽しそうに読書をしている。
「……先生、何してんだ?」
柳が尋ねると、リーゼロッテは顔を上げた。
「読書ですよ」
「いや、スマホで?」
「はい。電子書籍です。地球にいた頃、暇つぶし用にたくさんダウンロードしておいたのです」
「たくさんって、どれくらいだよ?」
「小説だけでも、数千冊はあるでしょうか」
「数千冊!?」
柳が思わず声を上げた。
「スマホの中にそんなに入るのかよ!?」
「容量の大きな端末を用意して、あらかじめ保存しておけばいいのですよ。こちらでは通信できませんが、ダウンロード済みの本なら問題ありませんから」
「いや、そういう話じゃなくてだな……!」
琴も呆れたようにリーゼロッテを見つめた。
「……先生は、私たちが修行している間、ずっと本を読んでいるのか?」
「ずっと、というわけではありませんよ。皆さんの訓練を確認していますし、食事も取りますし、紅茶も飲みますから」
「読書の合間にあたしたちを見てんのかよ!」
「逆ですよ。皆さんを見守る合間に読書をしているのです」
「言い方を変えただけだろうが!」
リーゼロッテは、くすくすと笑いながらスマートフォンを胸元に抱えた。
「それに、私まで暇を持て余してしまっては困るでしょう? 皆さんの修行は長いのですから」
「その暇をあたしたちにも分けろ!」
「では、修行が終わったら読書をおすすめしますね」
「そうじゃねえ!」
リーゼロッテは再び画面に目を落とした。
そのとき、ふと手が止まる。
「……あっ」
「どうしました、先生?」
「バッテリーが減っていますね……」
「そりゃ減るだろ。ずっと読んでんだから」
リーゼロッテは、スマートフォンの画面をじっと見つめた。
「……充電、どうしましょう」
「知らねえよ!?」
柳が即座に突っ込んだ。
「ここ、地球じゃねえんだぞ! コンセントなんかあるわけねえだろ!」
「そうなのですよね……。困りました」
リーゼロッテは真剣な顔でスマートフォンを両手に持った。
「このままでは、電子書籍が読めなくなってしまいます……」
「心配するところ、そこかよ!」
琴が少し考えてから尋ねた。
「先生の魔力で、どうにかできないのか?」
「魔力で……充電?」
リーゼロッテは目を瞬かせた。
「なるほど……。魔力を電力に変換できれば、充電できるかもしれませんね」
「いや、できるかもしれませんね、じゃなくて……」
柳の言葉をよそに、リーゼロッテはスマートフォンへ指をかざした。
「ええと……魔力を流して、端末が必要とするエネルギーに変換して……」
淡い光がスマートフォンを包み込む。
数秒後。
「……あら?」
「どうした?」
「充電が増えました」
「はぁ!?」
画面には、先ほどまで減っていたバッテリー残量が増えていた。
「ちょ、ちょっと待て! そんな簡単にできんのかよ!?」
「いえ、初めて試したのですが……。うまくいったようですね」
「初めて!?」
琴も思わず目を丸くした。
「先生、それは地球の技術ではなく、魔法なのか?」
「そうですね。魔力を端末のエネルギーに変換しているだけですから、魔法と呼んでよいと思います」
「そんな魔法、聞いたことねえよ!」
「私も今、考えたばかりですから」
「今考えたのかよ!」
リーゼロッテは満足そうにスマートフォンを抱えた。
「これで安心して読書ができますね」
「……先生」
「はい?」
「その魔法、もっと別のことに使えねえのか?」
「たとえば?」
「いや、だから……」
柳は頭を抱えた。
レベル60を目指す修行の最中に、指導者が新しい魔法を生み出した理由が電子書籍の充電。
あまりにも、この先生らしかった。
そのままリーゼロッテは、何事もなかったかのように読書を再開した。
「……ああ、続きが気になりますね」
「こっちは明日も朝から修行なんだけどな……」
「頑張ってくださいね、柳さん」
「他人事かよ!」
柳の叫びに、琴は小さく笑った。
そして、21時。
座学を終えた2人は、それぞれの寝室へ戻った。
娯楽はない。通信もできない。自由時間に外へ出ようにも、ここは地球とは異なる隔離空間だ。
結局、やることがなくなれば、寝るしかなかった。
「……おやすみ、柳」
「おう。……明日こそ、あの猿に一発入れてやる」
「まずは、今日指摘されたことを直すところからだね」
「……分かってるよ」
柳は布団に潜り込み、目を閉じた。
明日も朝8時には起床。朝食を取ったら、また修行が始まる。
猿に剣術を叩き込まれ、リーゼロッテから魔法を教わり、午後には実戦訓練。夜は座学をして、21時には就寝。
それをレベル60に到達するまで繰り返す。
「……マジで、1か月もつのかよ……」
小さくこぼした柳の声は、やがて静かな寝息へと変わった。
こうして、タイムジェイルでの修行生活が始まった。
まだ初日。
2人は、この先に待ち受ける1か月の厳しさを、まだ本当の意味では理解していなかった。




