第一話 鏡の中の青い瞳
初めての投稿です。至らない点もあるかと思いますが、どうかよろしくお願いします。
予定ではかなりの長編ですが、完結できるよう頑張ります。
オルディナ暦八七七年、前期春。
ここアストラディアの空気には、いつも水の匂いが混じっている。
夜が明ける頃、川沿いの荷揚げ場には、ぽつぽつと人影が集まり始めていた。
船腹が岸に擦れる低い音。濡れた木箱を運ぶ足音。眠気を追い払うような商人たちの声。
それらが、まだ静かな空気を少しずつ押し広げていく。
街全体には薄い朝靄がかかり、川風には冬の名残の冷たさがあった。
それでも、屋台の軒先には春先の香草が並び始めている。
寒さが和らぐ頃の空気は、いつもどこか落ち着かない。
夜の静けさと昼の喧騒。冬の名残と春の気配。
そのすべてを抱えながら、商業都市の一日は少しずつ形を持っていく。
そんな街角にある宿の二階。間借りしている部屋の中で、黒髪の少年は外套の留め具を締めた。
水色と灰色を基調にした、質素な旅装。街中に紛れる程度には目立たず、それでいて薄手で軽く、見た目より裂けにくい。野外で寝ることもある冒険者にとっては、派手な飾りよりもよほど重要な性質だった。
壁際に立てかけていた片手剣を取り、慣れた手つきで腰の留め具に通す。
飾り気のない鞘が、外套の下でかすかに揺れた。
師匠は昔、冒険者が使うべき武器についてこう言った。
『壊れにくくて手に合えば、だいたい勝ちだよ』
雑な教えだ。
けれど、少なくともこの少年にとっては間違ってはいなかった。
長く使った剣は、重さも、握りの癖も、マナの通り方も手に馴染む。
剣帯を確かめ、机の上に置いた小袋を腰に下げる。
それから、壁際に置いていた旅用の荷を肩にかける。
一通りの支度を終えてから、最後に、壁に掛けた小さな鏡の前へ立つ。
彼自身の蒼い瞳が、こちらを見返していた。
いつもと同じ、水の瞳。
それを確認して、ラヴィは少し長めの息を吐いた。
そこでふと、胸の奥に小さな波紋が広がるような感覚があった。
まただ。
小さな波紋が触れたような、かすかな違和感。
ここ数日、それは少しずつ強くなっている。
鏡に映る瞳の色も形も変わらない。揺れているのは、身体の内側──胸の奥か、腹の底か、自分でもうまく言えない場所だった。
少しの間、鏡の中の顔を見ていたが、そこに答えが浮かぶはずもない。
「仕事、行くか」
階下へ降りると、足音を聞いたのか宿の女将が食堂側から出てきた。
ふくよかな頬に、赤みの強い黒髪がゆるく跳ねている。短く巻いた髪を片手で払う仕草まで、朝の忙しさに慣れきっていた。
「ラヴィ、今から仕事かい?」
黒髪の少年が軽く手を上げる。
「うん。今日も軽く終わらせてくるよ」
「その前に、こっち来て食べていきなさいな」
言われるがままラヴィが食堂まで入ると、女将は当然のように卓の端へ椀を置いた。豆と麦を煮た朝粥だった。湯気の向こうに、刻んだ香草の匂いが混じっている。
「ありがとう。助かる」
「もう少し肉をつけな。剣を振る仕事なんだろう?」
「魔法も使うから、剣だけじゃないよ」
「どっちにしろ腹は減るでしょう」
そう言う女将の顔には、いつもの柔らかな笑みが浮かんでいた。
反論の余地はない。
ラヴィは椅子に腰かけ、椀を受け取った。
匙からのぼる湯気の向こうで、外の通りが動いている。荷車が石畳を鳴らし、川から上がったばかりの男たちが濡れた外套を肩に引っかけて歩いていく。食堂の竈から流れる焼きたてのパンの香りと、荷台に積まれた魚の匂いが、戸口で混ざっていた。
香草の風味を堪能し、椀を空にする。
「ごちそうさま」
「無事に帰ってくるんだよ」
女将は細い眉を下げ、ラヴィの肩に手を置く。
「女将のご飯のお陰で肉が付いたからね」
「はは、なにを言ってんだいこの優男は」
満更でもなさそうな女将に見送られ、ラヴィは宿を出た。
◇
朝の街は、もうすっかり動き出していた。
焼きたての平パンを並べる屋台。荷の数を指折り数える商人。眠そうな顔で桶を抱えた見習いの少年。
水路を往く小舟から聞こえる規則的な音が、街のざわめきの中に溶けていく。
屋台から漂ってきた月果蜜を焦がした甘い香気に、ラヴィは一瞬だけ視線を向けるが、足を止めることなく歩き去る。
通りの先に石造りの尖塔が、薄い朝靄の向こうに見えている。
石畳を踏むたび、街の音が少しずつ大きくなる。
川沿いの広場を抜けると、冒険者ギルドの建物がはっきり見えた。
正面扉の上には、剣と盾、それから六つの属性を示す簡略紋が刻まれている。
その扉を押し開けると、暖炉から流れる薪の匂いが、ぬるい空気と一緒に押し寄せてきた。
掲示板の前では旅装の冒険者が肩を並べ、受付には依頼書を抱えた商人が詰めかけていた。奥の窓口では、術師らしき男が、職員の差し出した書類に目を落としている。
壁際の長椅子では、四人組が依頼書を広げ、低い声で何かを話し込んでいた。
「そういや、教国のあれ、やっと片付いたって聞いたか?」
「少し長引いたが、ようやくか」
「今回も魔眼持ちが何人かやられたらしいぞ」
「うへぇ……。報酬につられて奴も多かったが、俺たちはこっちで地道にやる方が良いな」
「そうだなぁ」
ラヴィの胸の奥で、朝からの揺らぎがかすかに脈打った。
軽く息を吐いて、それを宥める。
──良い依頼は、早い者勝ちだ。
掲示板の方へ足を向けようとした、その時だった。
「ラヴィさん、おはようございます。ちょうどよかった」
振り返ると、栗色の髪を後ろでまとめた女性が、受付の中から依頼書の束を抱えてこちらを見ていた。朝の忙しい時間だというのに、書類の角はきっちり揃っている。本人の性格が、そういうところに出ていた。
目が合うと、微笑みと共に軽く会釈が返ってくる。
彼女がそんな切り出し方をする時は、たいてい、普通の冒険者にとってはあまり良い話ではない。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
しばらくは毎日投稿頑張ります。




