十八 旅
ソンコが旅に出ると言ったのは、秋の初めだった。
「どこへ」
アンゴトが聞いた。
「西です」
「西に何がある」
「月氏がいます」
アンゴトは黙った。
ソンコは続けた。
「ボグド様が果たせなかった借りを、代わりに返しに行きたい」
「ゲレルへか」
「はい。生きていれば、もう六十を超えているはずです。しかし、確かめたい」
「何を確かめる」
「覚えているかどうかです」
アンゴトはソンコを見た。
長年草原と漢の間を往来した男だった。顔が黒く焼け、足が少し悪くなっていた。それでも目だけは若い頃のまま、鋭かった。
「ボグドから頼まれたのか」
「頼まれていません。自分で決めました」
「なぜ」
ソンコは少し間を置いた。
「ボグド様は何も言いませんでしたが、最後の年、何度も西の空を見ていました。俺はずっとそれを見ていた」
「そうか」
「それだけです」
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ジーユに報告した。
「ソンコが西へ行きたいと言っています」
「止めるか」
「止めません。ただ、報告を」
ジーユは少し考えた。
「月氏の今の様子も知りたい。情報を持ち帰ってもらえれば」
「そう伝えます」
「ゲレルという女の話は、アンゴトから聞きました」
「はい」
「父上は本当に何も言わなかったんですか。最後まで」
「何も言いませんでした」
「西の空を見ていたと、ソンコは言っているのか」
「はい」
ジーユは窓の外を見た。
西の空が広がっていた。
「ソンコに伝えてくれ。急がなくていい。戻らなくてもいい」
アンゴトは驚いた。
「戻らなくてもいいとは」
「向こうで気に入った場所があれば、そこに住めばいい。年寄りを急かすことはない」
「しかし情報が」
「情報は別の者に取らせる。ソンコには好きにさせてやりたい」
アンゴトはジーユを見た。
ボグドの目に似ていた。しかし、ボグドよりやわらかかった。
「伝えます」
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ソンコが出発する朝、アンゴトとトルゲルが見送った。
ジーユも来た。
「急がなくていい」
ジーユが言った。
「ありがとうございます」
「戻らなくてもいい」
ソンコは頭を下げた。
「戻ります。生きていれば」
「生きて戻れ」
「はい」
ソンコは馬に乗った。
足が悪いので、乗るのに少し時間がかかった。
誰も手を貸さなかった。
ソンコが自分で乗りたいとわかっていた。
乗り終えて、三人を見た。
「ボグド様によく似てきましたね、ジーユ様」
「そうか」
「目が特に」
「父上もそう言われたのか」
「トゥメン様に似ていると言われていました」
「祖父か」
「祖父もまた、李牧に敗れた後のあの目をしていたと、チュルンが言っていました」
ジーユは少し黙った。
「続いているんだな」
「そう思います」
ソンコは馬を西に向けた。
「行ってきます」
「行ってこい」
アンゴトが言った。
草原の風が吹いた。
西から来た風だった。
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ソンコが去った後、三人は少しの間立っていた。
「行けますかね、西まで」
トルゲルが言った。
「行ける。あいつは丈夫だ」
「足が悪いのに」
「馬に乗れれば足は要らない」
ジーユが言った。
「月氏はどこにいるんですか、今は」
「ソグディアナという場所だと聞いています」
「どれくらい遠い」
「片道、三月から半年かと」
ジーユは西を見た。
「父上が月氏を追った後、そんな遠くまで行ったのか」
「追ったわけではありません。月氏が逃げたんです。どんどん西へ」
「逃げた先が、そんな遠い」
「草原はどこまでも続きます。逃げれば逃げるだけ、遠くなる」
アンゴトは西の地平線を見た。
地平線の向こうに、地平線があった。
その向こうにも。
「ゲレルは覚えているだろうか」
独り言のように言った。
「覚えていると思います」
トルゲルが答えた。
「根拠は」
「女は大事なことを忘れない」
アンゴトは少し笑った。
「お前にそれがわかるのか」
「妻に聞きました」
「いつの間に」
「先月、子供が生まれました」
アンゴトは止まった。
ジーユも振り向いた。
「なぜ言わなかった」
「言う機会がなかった」
「それを先に言え」
トルゲルは笑った。
「女の子です」
「名前は」
「ナラン。太陽という意味です」
アンゴトはトルゲルを見た。
白髪が増えた。顔に皺が深くなった。
しかし笑っている顔は、月氏で弓を引いていた頃と変わらなかった。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
ジーユも言った。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
三人は並んで立っていた。
草原の朝だった。
風が吹いていた。
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その夜、アンゴトは酒を飲んだ。
一人で飲んだ。
ボグドと飲んだ夜のことを思い出した。
アンゴトとトルゲルとチュルンとソンコとテムルと、五人で飲んだ夜があった。
今は、チュルンが死んで、テムルが死んで、ソンコが西へ去った。
トルゲルに子供が生まれた。
時間が経っていた。
「経ちすぎだ」
アンゴトは言った。
誰もいなかった。
焚き火だけが答えた。
ぱちぱちと、燃えていた。
酒を一口飲んだ。
ボグドが好きだった酒だった。
草原の酒で、少し苦かった。
「お前も飲むか」
空に向かって言った。
天狼星が輝いていた。
返事はなかった。
「相変わらず無口だな」
また飲んだ。
草原の夜が続いた。
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ソンコから手紙が来たのは、翌年の夏だった。
伝言を運ぶ商人が持ってきた。
アンゴトが読んだ。
「月氏に着きました。ゲレルは生きています。覚えていました。ボグドの名を聞いた時、少し黙ってから、そうか、と言いました。借りは返せないままだと伝えたら、借りなど最初からなかったと言いました。しばらくここにいます。戻る時期はまだわかりません。アンゴトとトルゲルとジーユ様によろしく」
アンゴトは手紙を折りたたんだ。
ジーユに見せた。
ジーユは黙って読んだ。
読み終えて、西の空を見た。
「借りなど最初からなかった、か」
「そう言ったそうです」
「父上が聞いたら、何と言ったでしょうか」
アンゴトは少し考えた。
「うるさいと言ったでしょう」
ジーユは笑った。
静かな笑い方だった。
ボグドの笑い方に、少し似ていた。
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*※ 老上単于の治世、草原は比較的安定していた。しかし漢の国境では小競り合いが続いた。文帝は武力での解決を避け、和親を維持した。この平和な時代が、後の武帝の爆発的な軍備増強を可能にした。草原はまだ、知らなかった。*




