十三 北の果て
丁零は遠かった。
バイカルの南、森と草原の境目に住む民だった。
馬より鹿を好み、弓より罠を得意とした。匈奴とは別の民だった。
ソンコが言った。
「丁零の族長はトドという男です。五十代で、背が高く、熊のような男だと」
「兵は」
「騎兵は少ない。しかし森の中では手強い」
「森の中では戦わない」
「では、どこで」
「草原まで引き出す」
ソンコは地図を見た。
「丁零の集落は森の中に点在しています。草原まで出てくる理由がありません」
「作る」
理由は簡単だった。
丁零の集落の南、草原との境目に、匈奴の一部隊を置いた。
羊を追いながら、じりじりと北へ向かった。
丁零の狩場に入った。
三日後、トドが使者を送ってきた。
「出て行け」
ボグドは使者に言った。
「ここは匈奴の草原だ」
「違う。ここは丁零の狩場だ。百年前からそうだ」
「百年前は知らない。今は匈奴の草原だ」
使者は怒って帰った。
翌日、丁零の弓兵が森の端に現れた。
ボグドは部隊に命じた。
「退くな。しかし攻めるな」
にらみ合いが三日続いた。
四日目、丁零の騎兵が草原に出てきた。
「今だ」
鳴鏑が飛んだ。
丁零は強かった。
森の民は体が大きく、力があった。接近すると恐ろしかった。
しかし草原では機動力が違いすぎた。
ボグドは正面から当たらなかった。
遠くから矢を放ち、追いかけてくれば逃げ、逃げれば追い、また矢を放った。
三日で丁零の騎兵は疲弊した。
トドが使者を送ってきた。
「降る条件を聞く」
「条件はない」
「降るだけか」
「毎年、毛皮と干し肉を送れ。それだけだ」
「他に何も求めないのか」
「求めない。丁零は丁零のままでいい。ただ、匈奴の旗の下に入れ」
トドは考えた。
三日後、降った。
堅昆はさらに遠かった。
イェニセイ川の上流、北の果ての民だった。
アンゴトが言った。
「どこまで行くんですか」
「行ける所まで」
「兵が疲れています」
「丁零が降った。丁零の兵も使える」
「丁零は信用できますか」
「今は使える。裏切ったら、また戦う」
アンゴトは首を振った。
「ボグド、あなたは疲れないんですか」
ボグドは馬を止めた。
アンゴトが隣に並んだ。
「疲れる」
「では」
「しかし、止まれない」
「なぜ」
ボグドは前を向いた。
地平線まで草原が続いていた。
「止まったら、考える。父のことを。セルガのことを。バヤンのことを。オルダのことを」
アンゴトは黙った。
「動いていれば、考えなくていい」
「それは」
「逃げているのかもしれない。しかし、止まるよりましだ」
アンゴトは何も言わなかった。
風が吹いた。
二人は並んで馬を進めた。
堅昆の族長はアルスランといった。
四十代の、細い男だった。目が鋭く、声が低かった。
最初から降ると言った。
「戦わないのか」
ボグドは聞いた。
「勝てない相手と戦うのは愚かだ」
「賢い男だ」
「東胡が滅び、月氏が西に逃げた。次は我らだと思っていた」
「そうだ」
「いつか来ると思っていた」
アルスランは静かに言った。
「条件は同じか。毛皮と肉を毎年送れば、後は自由か」
「そうだ」
「信用できるか」
ボグドはアルスランを見た。
細い目が、真っ直ぐだった。疑っていた。しかし、疑いながらも見極めようとしていた。
「一度でも嘘をついたら、戦え」
「そうする」
「それでいい」
二人は向き合っていた。
握手はしなかった。
それぞれが馬を返した。
それが、この二人の契約だった。
呼揭も降った。
薪犁も降った。
北の果ての小さな部族が、次々と匈奴の旗の下に入った。
戦ったものもあった。戦ったものには鳴鏑が飛んだ。
一年が経ち、二年が経った。
草原の北の果てまで、匈奴の影響が届いた。
テムルが言った。
「単于、一度帰りましょう」
「まだやることがある」
「何が」
「東の果てに、烏桓と鮮卑がいる」
「また遠征ですか」
「遠征ではない。使者を送る」
テムルは少し驚いた顔をした。
「戦わないのですか」
「烏桓と鮮卑は、東胡が滅んだ後に出てきた民だ。俺が滅ぼしてやった東胡を恐れていた連中だ」
「では」
「頭を下げてくれば受け入れる。抵抗するなら戦う。しかし今は使者が先だ」
テムルは頷いた。
「単于は変わりましたね」
「何が」
「昔は全部戦で解決していた」
「昔は東胡と月氏しか見ていなかった。今は草原全体を見ている。全部戦で解決していたら、兵がいくらあっても足りない」
テムルは笑った。
皺が深くなった。
「賢くなりました」
「うるさい」
テムルはさらに笑った。
三年後、本営に戻った。
長い遠征だった。
チュルンが待っていた。
一本腕で、馬の手綱を持っていた。
「お帰りなさい」
「何か変わったか」
「漢から使者が来ました」
「貢物か」
「はい。絹と米と酒と金。約束通りです」
「他に」
「劉邦が死にました」
ボグドは少し間を置いた。
「いつ」
「三月前です。呂后という女が、今は実権を握っています」
「呂后とはどんな女だ」
「恐ろしい女だと言います。邪魔な者を次々と消していくと」
「漢は安定しているか」
「表面上は。しかし内部は争っています」
ボグドは馬から降りた。
本営の天幕が、懐かしかった。
三年ぶりだった。
「劉邦か」
小さく言った。
「長生きするろ思ったのに、案外短命だったな」
その夜、ボグドは久しぶりに酒を飲んだ。
アンゴトとトルゲルとチュルンと、四人で飲んだ。
ソンコも呼んだ。
テムルも来た。
焚き火を囲んで、誰も大事な話をしなかった。
昔の話をした。
バヤンのことを話した。オルダのことを話した。
李牧の包囲から逃げた夜のことを話した。
月氏の都で、ゲレルに弓の引き方を笑われたことを話した。
アンゴトが言った。
「ゲレルはどこにいるんですかね、今頃」
「西の果てだ」
「会いたいですか」
ボグドは酒を飲んだ。
「借りを返していない」
「それは会いたいということですか」
「うるさい」
みんなが笑った。
焚き火が揺れた。
星が出ていた。
こういう夜が、遠征より疲れが取れた。
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