十 西へ
西への道は、長かった。
草原が続き、砂漠が続き、また草原が続いた。
水場を探しながら進んだ。一日に三十里進む日もあれば、十里しか進めない日もあった。
アンゴトが言った。
「月氏の都まで、あとどれくらいですか」
「五日」
「本当ですか」
「ソンコの報告では」
ソンコは三ヶ月前に先行していた。月氏に潜り込み、兵の配置を調べていた。
「月氏は準備していますか」
「していない」
「なぜ」
「東胡が滅んだことを、まだ信じていない」
トルゲルが言った。
「信じられませんよね、普通は」
「だから今のうちだ」
ゲレルのことを考えていた。
考えるつもりはなかった。しかし、月氏に近づくほどに思い出した。
草原を一緒に走ったこと。
弓の引き方を笑われたこと。
「嫌いになれなかったから」という声を。
アンゴトが読んでいた。
「会うつもりですか」
「戦に来た」
「わかっています。でも」
「ない」
「本当に」
「ない」
アンゴトは黙った。しばらくして言った。
「タグルは殺しますか」
ボグドは少しの間、黙った。
「降れば、殺さない」
「降らなければ」
「戦だ」
「ゲレルは」
「ゲレルには関係ない話だ」
アンゴトは何も言わなかった。
ボグドも何も言わなかった。
月氏との戦いは、東胡より手こずった。
月氏は強かった。馬が良く、弓が長く、将が冷静だった。
タグルは慢心していなかった。東胡が滅んだと聞いて、すぐに陣を固めた。
「やはり準備していた」
チュルンが言った。
「ソンコの情報が古かった」
「どうしますか」
ボグドは陣を見た。
月氏の陣は堅かった。正面から当たれば消耗する。側面を突こうとすれば、騎兵が出てくる。
「兵糧はどれくらいある」
「十日分」
「月氏は」
「一月以上は持つはずです」
「では、動かす」
「どうやって」
「西に部隊を送る。補給路を断つふりをする」
「ふり、ですか」
「本当に断てるほどの兵はない。しかし、タグルは動く。補給を心配する王は必ず動く」
三日後、月氏の陣が動いた。
右翼の一部が、西に向かった。
ボグドはそこに全力をぶつけた。
鳴鏑が飛んだ。
矢が一斉に放たれた。
右翼が崩れた。
崩れた右翼から、本陣に雪崩れ込んだ。
月氏の中軍が乱れた。
タグルが馬で逃げるのが見えた。
「追うな」
ボグドは言った。
「なぜですか」
「降伏の使者を送る。タグルが生きていれば、部族をまとめて降れる」
「しかし、逃がしたら再び」
「再び来たら、また倒す」
アンゴトは納得していない顔だった。
それでも、追わなかった。
使者を送った。
タグルから返事が来た。
降らない、と言った。
西へ行く、と言った。
ボグドは少しの間、その返書を見ていた。
「追いますか」
ソンコが聞いた。
「追わない」
「なぜ」
「西の果てに何があるか、俺は知らない。知らない場所で戦うのは、得策ではない」
「しかし月氏を生かしておけば」
「西に行けば、月氏はもう匈奴に関われない。草原の西端から先は、別の世界だ」
ボグドは返書を置いた。
タグルの字だった。
太い、力強い字だった。腹の出た男とは思えない字だった。
ゲレルも、今頃西へ向かっているのだろう。
「借りを返す機会が、なくなった」
小さく言った。
誰にも聞こえなかった。
月氏の陣営を接収した。
馬が多かった。食料も武器も。
兵たちが喜んだ。
テムルが来た。
老いた足で、しかし真っ直ぐ歩いてきた。
「月氏が西に去りました」
「ああ」
「東胡も月氏も、いなくなりました」
「ああ」
「草原は、匈奴のものになりました」
ボグドはテムルを見た。
老人の目が、光っていた。
「あなたのお父上が、ずっと目指していたことです」
ボグドは答えなかった。
「お父上は、弱かった。しかし諦めなかった。その積み重ねが、あなたを生んだ」
「テムル」
「はい」
「余計なことを言うな」
テムルは黙った。
しかし、かすかに笑っていた。
南に向かった。
オルドスを取り返すためだった。
蒙恬の旗は、もうなかった。
ソンコからの報告では、蒙恬は死んでいた。趙高という宦官に殺されたと言った。秦は乱れに乱れ、各地で反乱が起きていると言った。
「今だ」
ボグドは言った。
誰も異論を言わなかった。
長城に着いた。
石造りの壁が、地平線まで続いていた。
ボグドは馬を止めた。
この壁を、淳維の子孫たちは何度も見た。
越えられない壁として、あるいは越えてはならない壁として。
「壊すか」
アンゴトが聞いた。
「いらない」
「なぜ」
「壊したら、次に南から来た時に使えない」
アンゴトは笑った。
「なるほど」
匈奴の騎兵が、長城の門を破った。
蒙恬が奪ったオルドスに、匈奴が戻ってきた。
オルドスの草原に立った。
風が吹いていた。
南の風だった。
ボグドは目を閉じた。
ここは、淳維が追われた地だった。
ここは、バータル単于が弓を引いた地だった。
ここは、トゥメンが守れなかった地だった。
そして今、ここにいる。
「父上」
また、声に出した。
「オルドスに戻りました」
風が強くなった。
草が揺れた。
チュルンが一本腕を空に向けた。
アンゴトが剣を上げた。
トルゲルも。ソンコも。テムルも。
五千の兵が、武器を空に向けた。
誰も声を出さなかった。
その沈黙が、一番大きな声だった。
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