32 新王と正妃への願い
応接間の扉の前で、これまでピタリと寄り添っていた二人の間に、距離ができた。
エリーゼはフレーゲルから手荷物を受け取り、小脇に抱える。
「では、行ってくる。フレーゲルは中庭で待つよう」
「はい」
「そなたは彼の案内を頼む」
「はっ、承知しました」
エリーゼは先ほどまでの悪戯めいた顔を変え、貴人然とした態度を示し、フレーゲルと使用人に命令した。
彼女の凛々しい表情を見て、フレーゲルも背筋を正した。想いを振り切るべく、気合いを入れてビシリと胸を張る。
応接間の中には王と妃が待っているのだそう。三人で何か大切な話をするそうだ。きっと今後の縁繋ぎの話だろう。
王は正妃と側妃を持つのが一般的であるらしい。エリーゼは再び、妃の位に上がる。そのために城に帰ってきたのだ。
王都へ同行するにあたり、それくらいのことは勉強してきた。もう自分を納得させている。
エリーゼが踵を返す前に、廊下の石床に片膝をついた。胸に手をあて、敬礼の体勢を取りながら、もう片方の手で彼女の白い手を取った。
「良いお時間を、エリーゼ様」
最後に、手の甲に忠誠の口づけを落とした。そんなマナー指導はされていないのに、勝手にやってしまった。
これで恋人ごっこはおしまい。さらには、主と護衛騎士の関係も仕舞いになるのだろう。
次に顔を合わせた時には、王妃と民草の関係だ。
エリーゼは手を振り払うこともなく、優し気に目を細めて、騎士の口づけを受け止めた。
衛兵が扉を開けて、エリーゼは一人、応接間の中へと踏み出す。
そうして扉が閉められたのと同時に、正面奥に座していた王と妃が立ち上がった。
ドレスのスカートを持ち上げ、身を低くして挨拶をする。
「ウルリヒ・オトフリート国王陛下、ならびに、リュミエラ・ヴィクトール・オトフリート妃殿下、ご機嫌麗しく存じます。恐れながら、エリーゼ・ベルホルトは今ここに、帰城いたしました」
王と妃に挨拶をすると、二人も応えて敬礼を返してきた。
「お待ちしておりました、エリーゼ様。ご足労いただき感謝申し上げます」
「帰城を心より歓迎いたします……エリーゼ様!」
優美な室内の装飾を軽く凌駕するほどに、新王と妃は麗しく、立派な姿をしているように感じられた。
形式的な挨拶を終えるや否や、リュミエラが歩み寄ってきて、力一杯、抱擁を交わしてくれた。
「お帰りなさいませ。本当に、よくぞ……よくぞ、ご無事で! ……あぁ、もう泣かないと決めたのに……」
「化粧が崩れてしまいますよ、リュミエラ。あなたこそ、よくぞ成し遂げてくださった……わたくしの無茶な命令を……。どれほど感謝しても足りません」
「まぁ、無茶なご自覚があったのですね……酷いお方」
「ふふっ、ごめんなさいね。でもお互い様よ。わたくしを見事に、囮の駒にしてみせたのだから。策を責め合うのはなしにしましょう」
「……それもそうですね。ふふふっ」
元側妃と正妃の仲、というより、共に育った姉妹のような言葉を交わし、互いの労をねぎらった。
思い切り抱擁を交わし、込み上げてきた涙を拭い、ひとしきり再会を喜び合った後――。ソファーに腰を据えて、本題の話し合いへと移る。
ウルリヒが咳ばらいをして、話を切り出した。
「また時間ができたら改めて、労をねぎらう茶会を開きましょう。――それで、今日のところは、今後についての意思の共有を図りたく思いまして。エリーゼ様にもご意見をいただきたく存じます」
「かしこまりました。まずは陛下と妃殿下のお考えをお伺いしたく」
問いかけると、正面のソファーに並んで座っている、ウルリヒとリュミエラが顔を見合わせた。二人で頷き合い、ウルリヒから話を始める。
「恥ずかしながら、僕は王として未熟な身です。なので、叶うのならば、支えはなるべく多く欲しい。後ろ盾には前王の王太后様、右腕にはリュミエラ妃がいるが、エリーゼ様が戻られたなら、あなたにも補佐を頼みたい」
「光栄でございます。妃殿下のお考えは?」
「わたくしも、陛下に同じです。今度こそ、エリーゼ様と共に並び立ち、国母として力を尽くしていく覚悟でいます。――でも、一つだけ、お願いがございます」
リュミエラは真っ直ぐにエリーゼを見つめ、迷うことなく意見を口にした。
「正妃の位は、わたくしにいただきたい。ウルリヒ様の一番は、わたくしでありたいと望んでおります。僭越な想いではありますが、どうか」
熱の籠った眼差しで、そう訴えかけてきた。
彼女のことは赤子の頃から見てきたが、こういう目は初めて見た。瞳の奥に、熱く煌めく光をたたえている。力強い愛の光が、確かに、見て取れた。
その輝きは、彼女の頭に飾られている正妃のティアラの輝きとも、調和している。
エリーゼは心からの納得をもって、深く頷いた。
「それが良いでしょう。ウルリヒ様の正妃は、あなたであるべきです」
「ありがとうございます。心して、役目をまっとうしたく思います」
「では、恐れながら、エリーゼ様は側妃として、オトフリート新王家へお迎えする形で――」
「いいえ。正妃も、側妃も、もうわたくしには恐れ多い位でございます」
言葉を遮って首を振ると、不意を突かれたウルリヒとリュミエラが目を瞠った。
「厚顔無恥は承知のうえで、わたくしの胸中を、お伝えいたします」
ポカンと呆けた面持ちの二人に、エリーゼはゆっくりと話し始める。今の自分自身の、率直な想いを。
「わたくしはこうして帰城しましたが、『妃エリーゼ』として帰ってきたのではないのです。『ジル=ハイコの見習い学者、リセ』として、帰ってきた次第です」
「学者……?」
「えぇ。民との暮らしの中で、幸せと喜びを知ってしまった、平民の女学者。それが、リセでございます。……滅私奉公を貫いた、以前のエリーゼは、既にこの世にいない。城で、義務の僕として邁進することは、もう、わたくしには、できはしない……そう、自分を評しております」
一度、見たことのない物事を見てしまったら、知らぬ世界を知ってしまったら、手放せない想いを抱いてしまったら――……それ以前の状態には、戻れない。
民草と一線を画した城人として、王を支える裏の女王として……以前と同じように振る舞い、生きることは、もう、自分には難しい。
無理をしたところで、どこかでほころびが出て、遅かれ早かれ自滅する。――そう、今の自分の状況を分析しての言葉だ。
ウルリヒは冷静な面持ちで問いを返す。
「城を下りて、他の道を行く、と?」
「叶うのでしたら。わたくしは民草の中で、公私の幸福を追う方法を探ってみたい。学者として、教師として、皆が幸せに生きる助けとなるような活動をしてみたい。それが、今の率直な気持ちです」
どうしても叶えたい事ができてしまった。どうしたって、放っておけない人ができてしまった。
呪いを負ったその人に、幸せの魔法をかけられるのは、どうやら自分だけみたいなのだ。このめぐり合わせを放り出すなんてことは、もはや、今のエリーゼにはできはしない。
二人は静かに耳を傾けてくれている。
何を思われても構わない。肯定も否定も、すべてを受け止める覚悟で、エリーゼは自らの心を、口にした。
「こんな、国を揺るがす大事を起こしておいて、我儘を極めた、勝手で愚かな願いだとは重々承知しております。でも、それでも、願うことをお許しいただきたい。バルド王権を滅ぼした悪妃エリーゼは、死んだことにしてくださいませんか。わたくしは、リセとして、新たな道を歩むことを望んでおります」
願いを言い切り、胸に手をあてて頭を垂れる。貴人を相手に、物事を希う時の所作だ。
どういう返事がくるのか……緊張に身を固めて、目をつぶって時を待つ。
二人は考えを回しているのか、少しの間、口を閉ざしていたけれど――……ほどなくして、リュミエラが声をかけてきた。
「なんという我儘でしょう。リセ先生は、亡きエリーゼ妃とは似ても似つかない、夢想家でいらっしゃるのですね」
「……妃殿下……。……ありがとうございます。心から……心の底から、感謝申し上げます」
リュミエラは、エリーゼの願いを聞き入れてくれた。エリーゼの死を認め、リセとしての新たな人生を許してくれたのだった。
ウルリヒも苦笑し、少年らしい砕けた笑みを見せる。
「惜しい気はするけれど……仕方ない。まぁ、元々、エリーゼ様はジル=ハイコで没するという前提で、事を進めてきましたしね。生き延びてくださったことが、そもそも奇跡的な僥倖です」
「陛下……」
「ですが、新王権には協力をいただきたい。学者として、識者として、これからもお力添えをいただきたく思います。いや、これは命令としておきましょう」
「承知いたしました。心して、お受けいたします」
命令を受け入れて、エリーゼは再び敬礼を返した。
そうして、はたと思い出し、脇に置いておいた手荷物を漁った。封筒の中から紐綴じの紙束を取り出し、ウルリヒに手渡す。
「早速ではありますが、学者リセとして、こちらの論文をあなた様に。ネッサ博士の呪術の研究書でございます」
「なんと、持ってきてくださったのか! ありがとうございます」
ネッサの研究の後援者は、なんとオトフリート家だったそう。明かされた時には、縁の繋がりに驚いてしまった。
ウルリヒは論文をパラパラと流し見て、ふむと頷いた。
「早急に確認し、実家にも写本を送ります。引き続き、研究に注力していただきたく。オトフリート家は支援を続けます――と、博士にお伝えください」
論文を置いて顔を上げ、ウルリヒはエリーゼを見る。
「民も、城人も、僻地の騎士たちも、皆が幸せでいられるよう、良い国にしていきましょう」
エリーゼは心からの笑みと、深い頷きを返した。
そうして一応、一通りの話を終えた。
二人はまだまだ忙しい身。今日のところはこれくらいで、と、比較的短い時間で話し合いは仕舞いとなった。
深い話は、またゆっくりと時間を取れる時に、労いの茶会も兼ねて場を設けることになったのだった。
一呼吸置いてから立ち上がる。
エリーゼは帰り際に、改めて、二人を前にして敬礼と祝いの言葉を贈った。
「改めて、ご即位おめでとうございます、ウルリヒ国王陛下。そして、リュミエラ妃殿下も、ご婚姻、誠におめでとうございます。ささやかではありますが、新王権発足のお祝いとして、わたくしからは新たな王国憲章の案を献上いたします」
エリーゼは頭の中にあった案を、披露することにした。王権が変わったのだから、王国憲章も変えてしまっていいだろう、との思いで、密かに考えていたものだ。
「『いかなる者も健やかなる心をもって、公私の幸福を願い、己の義務をまっとうせよ』――わたくしは、このような憲章をご提案いたします」
頑なにならず、盲目にならず。柔軟な広い視野で、自他の幸せの道を探すこと。その上で、各々に課された義務をまっとうしていくこと。
新たな王国が健全に発展していくためには、こういう理念が大切なのではなかろうか――。そんなことを思って、この憲章を考えてみた。
「素敵な憲章ですね」
「気に入りました。次の議会で、皆にも問うてみましょう」
リュミエラとウルリヒの眼鏡にも適ったみたいだ。二人は笑みを深めて、聞き届けてくれた。
 




