下
帰り道を歩きながら、どうにもむしゃくしゃするような気分を抑えきれなかった。
母親は、晃希が六歳の時に恋人を作って出ていった。母さんはもう帰ってこないと告げた父親の顔を、晃希は今でも忘れられない。麻里も同じように父親から捨てられたのだった。
今でこそよく笑うようになった麻里だが、家族になった当初はどうしようもなく暗い、あまり喋らない子だった。そのせいでイジメも受けていたようだった。
家族に裏切られた事実は、麻里の心に深い影を落としていた。その気持ちは、同じ立場の晃希にもよく分かった。だからこそ、新しく家族になった妹をなんとかしてやりたいと晃希は思った。決して自分を裏切らない、自分のことを第一に考えてくれる、そんな家族を与えてやりたかった。例え血が繋がらなくても、確かな絆は作っていけるのだと、証明したかった。
妹を優先していると、付き合う彼女からは不平が出た。まあ当然だろうと晃希も思う。
麻里に好きな誰かができて、その誰かも麻里のことが大好きで、そういった信頼し合える相手が妹に現れるまでは、自分に彼女はいてもいなくてもいいと晃希は割り切っていた。
明日実は随分変わっている。ちょっと晃希が手を差し伸べてやっただけで好きになったと告白してきて、イベント事に付き合わなくても怒らない。自分が後回しにされても笑って許している。麻里のことも本心から可愛がっている様子で、人見知りな妹がよく懐いている。同じ彼女と半年続いたのは初めてだった。
そこまで思い巡らせた時、昼休みに見た明日実の困ったような顔が頭に浮かんだ。
実崎は、昨日の明日実の服装を覚えているようだった。
ピンチを救ってもらって、恐らくは自分のことを一番に考えてくれる相手。
明日実は、実崎のことを好きになるのだろうか。
どうしようもなく胸が重くなるのを感じながら、晃希は家路を辿っていった。
実崎は、本格的に行動を開始したようだった。平日は晃希が麻里を塾へ送っていく日、休日、妹と約束をしている時、狙い澄ましたように部活帰りの実崎と明日実は出会うらしい。大半がグループ同士での行動だが、他のメンバーが所用でいなくなり、二人きりになることもあるようだった。
「私、実崎君に協力するから」
先日、松井にはっきり宣言された。
「あの子、今はまだ赤坂のこと好きみたいだけど、絶対実崎君の方が明日実を大事にしてくれる」
晃希が条件反射のように反論しようとすると、隙を与えず松井は言い募った。
「ウチらさ、駅のロッカーに私服置いて、放課後遊びにいく時着がえてんだよね。だから気付いたんだけど――あの日から明日実、私服でスカート履かなくなったんだよね。暑くなってきたのに、足元もサンダルじゃなくて靴下にスニーカー。制服のスカートも丈が長くなってんの気付いてる? 膝上だったのに、真面目ちゃんみたいに標準の膝丈になってる。――文句があるなら妹優先すること止めてからほざきな!」
敵意の感じられる口調で責め立てられ、晃希は押し黙った。女子のスカート丈など、気付く男子はそういない。それでも、彼氏の立場にいる自分が見過ごしていた事実の数々に衝撃を受けた。明日実は見た目、夏祭りのことなどなかったようにいつも通り日々を過ごしていた。
松井に遮られなかった場合、どの口がどんな厚顔な戯れ言を口走っていたのか。想像がつかなかい。
明日実の携帯には、よく実崎からメールが送られてくるらしい。時には夜に電話で話すこともあると言っていた。明日実が実崎の意図に気付いているのか気になり、晃希は学校帰り、家に寄る途中で訊いてみた。
「なんで実崎って明日実にメールしてくんの?」
「んー」
明日実は考えるように眉に皺を寄せ、目を閉じてから言った。
「助けてくれた行きがかり上気にしてくれてる……んじゃないのかな。私、結構取り乱した姿見せちゃったから。錯乱したイメージがあるんじゃん?」
「……もし好きだって言われたらどうする?」
「はあぁ?」
明日実は目を開き、大袈裟に仰け反った。
「いやないない、ないわー。なんであの実崎君が私に? 晃希、頭だいじょーぶ?」
「……冗談だ」
あー焦った、と明日実は息を吐いていた。実崎の気持ちに気付いているのかいないのか、その状況に喜んでいるのか困っているのかはよく分からない。
「明日実ちゃんだー!」
帰りつくと、麻里は晃希には目もくれず、明日実に突進していった。
「明日実ちゃん、今日何時までいるの? ご飯も食べてく?」
「あー、ここんちのご飯美味しいもんねー」
笑顔で麻里を迎え入れ、好きなようにまとわりつかせていた明日実は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんねー麻里ちゃん。私今日、早く帰らなきゃなんだー。今日は晃希のCD物色しにきたんだよー。また今度ゆっくり遊びにくるからね」
「えー、つまんないのー」
麻里はがっかりした様子で肩を落としながらも、おとなしく引き下がった。
部屋でCDを選び、晃希が明日実と一緒に階段を降りていくと、リビングから麻里が顔を出した。
「ご用事終わったー? お兄ちゃん、塾の課題でどうしても分かんないところがあるの。お願い教えてー」
麻里の情けない声を聴き、途中で立ち止まった晃希を追い越した明日実が、笑いながら階段を降りきる。
そのまま玄関へ向かっている。
「中1も大変なんだねー。頑張れ麻里ちゃん。じゃあ、私帰るから。CD借りてくね、晃希」
「待てって明日実」
晃希も明日実を追って玄関まで足早に歩いていった。
「送ってくから」
「へ?」
すでに扉を開けていた明日実が目を剥く。扉の枠から覗く外の風景と、晃希の顔を見比べてから言った。
「ってまだ五時過ぎじゃん。別に送ってなんてもらわなくていいって。麻里ちゃんの宿題見てやんなよ」
「いいから」
晃希は靴を履きながら、麻里をふり返った。
「帰ってから見てやるから」
「うん、分かった」
麻里は嬉しそうに笑っている。
「お兄ちゃん、明日実ちゃんにラブラブー」
「言ってろ。行くぞ明日実」
「え? うん。じゃあ麻里ちゃん、ごめんね?」
「そんなの気にしないで明日実ちゃん。お兄ちゃん、ごゆっくりー」
――こいつ、いつの間にそんなからかい覚えたんだ?
夏の夕暮れ、まだまだ明るい中を、晃希と明日実は歩いている。
晃希は歩幅を合わせ、明日実が小走りにならなくてもいい速さで進んでいた。 右手には家並みが続き、左手前方には広い月極駐車場が見える。
「晃希、あのさ」
家を出てから俯き加減にじっと黙っていた明日実が、おもむろに口を開いた。
「私にあんなことがあったからって気つかってない?」
「気を使うって?」
「だってさぁ、晃希が麻里ちゃんの頼み事あとに回してまで私を送ってくなんて、変じゃない? しかもこんな時間帯に――あ、そういや!」
隣を歩く明日実が気がかりな様子で晃希を見上げた。
「私が襲われたこと麻里ちゃんに言ってないよね?」
「大丈夫、言ってない」
晃希が頷いて答えると、明日実は目に見えて安堵していた。
「良かった。責任でも感じられたら可哀想だからねー。――で、話を戻すんだけど、別に実害もなかったしあんなのなんでもないんだからさー、今度からああいう時は麻里ちゃんの言うこと聞いてあげなよね」
「お前って……」
思わず笑いが込み上げてきて、晃希は噴き出してしまった。
「すっかり俺に毒されてんのな。麻里第一になってる」
腹を抱えてしつこく笑っていると、なによーと不満そうな声が聞こえてきた。
「晃希に麻里ちゃんの可愛さを刷り込まれちゃったんでしょー」
晃希は口を尖らせてぶつぶつ言っている明日実を眺めた。一番気を使い、何もかもを譲ってきたのは一体どちらの方なのか。心が折れそうな恐ろしい目に遭っても晃希を責めず、麻里に優しくできる明日実の横顔は、今まで出会った誰より綺麗に見える。
もしも、間に合うのなら。
まだ、明日実の気持ちが晃希を向いているのなら。手遅れでないのなら。
晃希は明日実の頭にぽんと手を置いた。
「別に気を使ったわけじゃねーよ。俺が明日実ともうちょっといたかっただけ」
「えー?」
頭の重りを捕まえようとするように中途半端な位置に両手を挙げてから、明日実はびっくりしたように言った。
「晃希にそんなこと言われたの初めてかも」
「うん、俺もそんなこと思ったの初めて」
「そこは黙っとけ!」
晃希は、拳を振り上げる明日実にくすぐったいような気持ちを覚えながら逃れた。
途中の自販機で晃希は烏龍茶、明日実にはリンゴジュースを買って、まだ暮れない町を二人でずっと歩いていた。
一学期最後の日、帰る準備をしていると明日実たちのグループが賑やかに騒いでいた。
「帰ろーぜ明日実、何してんの?」
「あ、もうちょっと待ってて」
自分の席に座る明日実が答え、その隣に別の椅子を持ってきて座っている松井が晃希を見上げた。
「あした明日実の誕生日でしょー? 彼女の誕生日に家族旅行へいく薄情な彼氏に変わって、私たちが明日実をお祝いしてあげんのよ」
明日は土曜日で、前々から予定していた巨大テーマパークに二泊三日で遊びにいく出発日だった。麻里が昔からそこの直営ホテルに泊まりたがっており、両親の都合も鑑みて決めた日がちょうど明日実の誕生日に被っていた。
もう二月以上前から計画していて、その時は誕生日にいてやれないこともまあ仕方ない、程度にしか考えていなかった晃希なのだが……
ばつが悪い思いで晃希は明日実に目を向けた。明日実の方もしまった、というような顔で見返してきた。
「や、やーでもほら」
微妙に棘が混じりだした空気を均すかのように、すかさず明日実が口を開く。晃希の彼女はいつも自分を後回しにして、彼氏が皆の不興を買わないよう心を配る。とんだお人好しなのだ。
「それについては晃希も後で埋め合わせしてくれるって言ってたし。あ、晃希知ってる? 由奈の部屋って離れみたいになってて、家から独立した作りになってるんだ。どんなお屋敷だっつー話じゃんね。みんなの彼氏も来てくれるんだって。どうせだから泊まりで夜通しお祝いしてくれるらしいよ。超楽しみ!」
「そうそ。ケーキとかもホールじゃなくて好きなショートケーキいっぱい買って、盛っ大にお祝いしたげるからね。あ、それから――」
言葉を切った松井が晃希を見て挑発的に笑い、また明日実に顔を戻した。
「実崎君も来てくれるって」
「え、ほんと?」
「うん。明日の部活が終わってからだけど、ぜひ参加させてくれって。日曜は休みだからそのままいられるってさ」
「へー嬉しいかも。実崎君て忙しそうなのによく付き合ってくれるよね」
「ほんと、優しいよねー」
晃希は明日実と話し続ける松井をずっと睨んでいた。松井は全く堪えていない様子だった。――こっち見ようともしやがらねえ。
「キャンセルだ」
気がついたら、口が勝手に喋っていた。
「ストップ。中止。取りやめだ取りやめ。明日実はあした松井のウチへ行かないし、俺も旅行には行かない」
「ああ? なに勝手言ってんだよ赤坂」
松井がドスの利いた声で脅しつけてくる。
「そーだそーだ赤坂横暴」
「関白亭主はひっこめー」
残りの二人も口々に悪態を並べ立てる。
「やかましい!」
晃希は握り拳を固めて声を張り上げた。その場が瞬時に静まりかえった。クラスに残っていた連中の目が一斉に集まる。――ちょうどいい、これ以上明日実にちょっかい出すやつが現れないよう、ここで釘を刺しておいてやる。
「明日実は俺の彼女だからな! この先も別れる気はないし、誕生日も俺と一緒に過ごす。文句あるか!」
晃希の主張はそれぞれの交友関係を通じて勝手に広がっていくだろう。
呆気に取られる一同を見渡してから、晃希は明日実の腕を掴んだ。
「帰るぞ!」
そのままの勢いで廊下を進んでいく。
晃希に引っ張られている明日実が後からポツリと言った。
「いいの?」
「なんだよ、嬉しくねえのかよ」
晃希は前を向いたまま憮然と答える。
「いや、そりゃとっても嬉しいんだけどさ。麻里ちゃん、晃希と旅行いくの楽しみにしてるんじゃないの?」
一瞬詰まってから、声を押し出した。
「言い聞かせる……」
その夜、晃希は覚悟を決めてから麻里の部屋へ入った。もう両親には明日行かないことを納得してもらっていた。ホテル代のキャンセル料とフリーパス代は小遣いから返していけと言われた。
「麻里、わりぃ。あした俺行けなくなった」
「なんで、お兄ちゃん!?」
勉強机に座る麻里は、案の定悲しそうな顔をした。晃希は辛い気持ちを押し隠しながら、明日実の誕生日のことを説明した。
麻里は、納得してくれるんだろうか。また裏切られたと心を閉ざしてしまわないだろうか。
「信じらんないお兄ちゃん……」
声を震わせる麻里から晃希は顔を逸らせた。
しかし、その後に続いた台詞は晃希の予想を大きく越えるものだった。
「彼女の誕生日に家族旅行へ行こうとするなんて、何考えてるの?」
晃希は初対面の他人に相対しているような心地で麻里に視線を戻した。目の前で頬を膨らましている少女には、今までそうだと思いこんでいた弱々しさが微塵も感じられない。
「私がお兄ちゃんの彼女だったら絶対バイバイしてる。やだよ私、明日実ちゃんのこと大好きなんだから。ふられないでよね。別れたりしたら、嫌いになっちゃうよ?」
「麻里、お前……」
なんとか声を押し出すと、麻里は真剣な顔でうんと頷いた。
「分かってる。そうさせてきたのは私だよね。お兄ちゃんが私の一番の家族であろうとしてくれたことはずっと理解してた。そのせいで彼女と長続きしなかったのも知ってる。でも、お兄ちゃんに最優先扱いされてるのは気分良かったし、明日実ちゃんはすごい優しかったしでずるずる甘えてた。明日実ちゃんにもほんと酷いことしてたよね」
ごめんなさいと頭を下げ、晃希を見上げた麻里の目は、しっかりと意志が宿ったものだった。
「でも、もう大丈夫。血の繋がりはなくても、どんな時でもお兄ちゃんは家族だって信じられる。これからも、ずっとずっと」
麻里は立ち上がると晃希の傍まで歩み寄り、立ち尽くす兄の手をそっと取った。両手で握り締めるようにし、力強く笑った。
「だからね、これからは明日実ちゃんを第一に考えてあげて。私はもう、昔の泣いてるだけの私とは違うから」
「麻里……」
いつの間に、こんなに大きくなったんだろうか。大人びた顔で笑う麻里は、紛れもなく晃希の庇護から離れようとしていた。
晃希は不覚にも、目頭が熱くなってきていた。
「あ、それから塾の送り迎えももういいからね」
しんみりした空気を払拭するように、麻里があっけらかんと言い放つ。
「いつまでも保護者同伴なんてちょっと恥ずかしかったんだよね。それに私ね、同じ学年に彼氏ができちゃったんだー。塾も同じだから、今度からは彼と行くから」
「はあ!? なんだよそれ。聞いてねーぞそんなこと!」
「そりゃそうだよ。告白されたの今日なんだから。なんかね、私のこと前から好きで、夏休みに入る前だからって思いきって言ってくれたんだって。実は私も前からいーなーって思ってた男子だったんだ。もうチョー嬉しくって。勉強も一緒に頑張ろうねーって約束したのー」
「ばっかお前。いいか、世の中には送り狼って言葉があってだな、そいつこそ一番危険な変質者に豹変するかもしれねんだぞ」
親心からの忠告に返ってきたのは、可愛い妹が寄越しているとはとても信じられない冷ややかな視線だった。
「お兄ちゃん、バカじゃないの?」
妹は、確実に成長しているようだった。
晃希は夏休み、時間が許す限り明日実と会うようにした。
実崎からの連絡は途絶えてはいないようだが、頻度は減っているようだった。実崎が明日実に打ち明けた結果なのか、今は時期じゃないと鳴りを潜めているだけなのか晃希には分からない。明日実も特に何も言わなかった。
二学期が始まる数日前、明日実は映画へ行く時にロングスカートを履いてきた。晃希が驚きを隠して似合うと誉めると、照れたように笑っていた。――かわいかった。
今日も、明日実は晃希のとなりにいる。
間抜けな書き手は『明日実』と『実崎』の漢字(実)が被っていたことに、書き終わってからも気付いていませんでした。紛らわしくて申し訳ないです。最後まで読んでくださってありがとうございました!