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狐/KITSUNE 0 雨の匂い  作者: あておす
第一章 助手席
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1/5

第一部 迎え


 十月の始め。時刻は午前零時三十七分。

 東京の夜は、まだ夏の熱を少しだけ引きずっている。今夜はいやに湿気を感じる日だった。

 レイは、駅裏のコインパーキングに駐車した車の中で見ていた動画を閉じ、メッセージアプリを開いた。

 メッセージのやりとりは二十分前で止まっており、さらに追い打ちをかける。

 

 『まだ?』

 

 しばらく待っても既読はつかない。

 この調子で、駐車料金は二回目の加算に入るところだった。

「......またか」

 小さく息を吐く。


 金曜の深夜。顔を上げれば嫌でも目に入る繁華街は、むしろここから活気を帯びるようだった。

 まぶしい看板。タクシーのライト。

 笑いながら歩く男女、そこから香るタバコ。香水。

 低音の漏れるクラブ。誰かの笑い声。


 人の熱がこもる。音も多い。

 視線を向けられているわけじゃないのに、ずっと落ちつかなかった。


 レイは左耳にイヤホンを差し、音楽をかける。

 お決まりのプレイリストにいつもの駐車場、変わらない車窓。再放送みたいだな、ぼんやり思う。

 運転席の窓を少し開ける。

 車内に流れ込んできた空気は複雑な匂いがしたが、その中に雨の匂いを感じる。

 こんな場所でも雨の匂いがするのか。と、ほんの少しだけ落ちついた。

 

 すでに何度かは来ているものの、本当はあまり来たくない場所だった。

 嫌いなわけじゃない。

 でも、ここにいる人たちはみんな夜に馴染みすぎている。

 自分だけ浮いている気がした。

 左耳に聞こえる音楽に割り込んで、通知音がなる。


 『ごめんねてた』

 『ひろいにきて』


 「……最悪......」

 通話をかける。四回目のコール。


 『レイちゃーん』

 「ちゃんで呼ぶな。どこ」

 『んー....』

 空いた間から低い音楽が聞こえてくる。

 『............ここどこ?』

 エンジンキーに手が伸びる。

 

 『位置情報送れば?』

 

 伸びた手が止まる。女の声だ。

 

 『あー......。ばしょおくる』

 そのまま通話が切れる。

 「まじかよ......」

 他に誰かがいる感じじゃなかったし、たぶんそういうことだ。一時間以上待った結果が、兄の痴態と兄の女を見ることになるとは。

 「かえりたい......」

 すると、電話の様子じゃ考えられない速度で位置情報のリンクが送られてきた。

 吐いた息は大きい。

 

 送られてきた住所は、繁華街の少し奥だった。

 大通りから一本入る。

 

 光が近い。

 人との距離も近い。

 知らない店の名前。

 呼び込み。

 笑い声。

 階段の狭い雑居ビル。


 全部、息苦しい。

 レイはフードを深めに被り、垂れる長い黒髪を面倒くさそうにフードに押し込む。それからパーカーの袖へ指を隠しながら、人混みを抜けた。


 指定されたビルは、

 思ったより古かった。

 二階。薄暗い階段。

 木製のモダンな扉。小さなランタンが下がっている。

 扉から、酒と甘い匂いが漂ってきた。

「……帰りたい」

 かなり本音だった。

 ドアの前で、小さくノックする。


 返事はない。


 でも、中から音楽だけ聞こえる。

 ガチャ。

 急にドアが開いた。

 

「お」

 

 出てきたのは、金髪の女だった。

 長い髪。

 涼しげな目元。

 黒いパーカー。

 派手なネイル。

 でも、妙に気だるくて、怖い感じはしない。

 一言で言えば、いい女。だった。

 

「迎え?」

「あ……はい」

「お兄さん寝てる」

「でしょうね」

 その返しに、相手が少し笑った。

 

「入る?」

「いや……」

 レイは部屋の奥を見る。

 

 中はシーシャバーのようだった。

 木製のモダンな内装で、広いテーブルが二つ。各テーブルにシーシャが二台ずつ置かれており、コの字型のソファで反面が囲われている。

 その向かいはカウンターになっており、店主らしき人が、やっと帰るのか。という顔をしている。

 奥のテーブルのソファに、アホは横になっていた。


「…吸ってってみる?」

 内装をまじまじと見ていたからか、金髪の女は親指を立て店内を指さす。

「あ、いえ….今日は、いいです。」

「あはは。賢い」

 興味がないと言えば嘘になるが。明日も仕事があるし、なにより店主らしき人が、断ってくれ!という顔をしているから。

 

「で、これどうやって起こす?」

 リツが部屋の奥を見ながら言う。

 レイもそっちを見る。

 

 兄はソファから半分落ちるみたいな体勢で寝ていた。

 テーブルには口をつけてないだろう氷の溶けた酒。

 片手にシーシャ。

 完全に終わっている。

 

「……蹴ります?」


「あはは、怖」


 でも、ちょっと楽しそうだった。

 リツは部屋へ戻ると、床へ転がっていたクッションを兄へ投げた。

「起きろー」

「んー」

「迎え来てる」

「…レイ?」

「そう」

 兄はゆっくり顔を上げる。


 数秒。


「うわ最悪」

「お前が言うな」

 

 金髪の女と店主が、同時に頷いた。


 兄はかなりふらつきながら立ち上がる。

「ごめんってぇ……」

「何回目」

「今回マジ」

「毎回言ってる」

 会計をしてる金髪の女が吹き出した。


 その笑い方が、なんか自然だった。


夜の人なのに、変に気を張らなくていい。

 不思議な人だ。


「送ってく?」

 女が兄へ聞く。

「いや、レイいるし」

「そっか」

 でも、兄はふらついたまま壁へぶつかった。

「危な」

 レイが思わず腕を掴む。

 兄は笑いながら、

「今日マジ飲みすぎた……」

「知ってる」

「リツ〜、悪いけど下まで来てぇ……」

「どっちだよ」

「階段で死ぬ」

「それはちょっと困る」


 女は、リツ? は、小さく笑いながら、

 パーカーを羽織った。


 外へ出る。


 さっきよりも冷えた風が優しく吹いている。

 雑居ビルの狭い階段を、兄がゆっくり降りていく。


 リツはその後ろ。

 レイは一番下で待っていた。

「レイちゃん、車どこ?」

 兄がふらつきながら聞く。

「ちゃん付けやめて」

「え〜、どこ」

「そこ……」

 少し離れたコインパーキング。レイが指差す。

 兄は「遠……」と呟いた。

「歩け」

「冷たい」

「当然」

 リツがまた笑う。

 三人で夜道を歩く。兄はずっと酔ってる。

 リツは眠そうに笑ってる。

 ため息が漏れそうになるのをこらえる。

 この空気に、慣れる気がしなかった。


 コインパーキングへ着く。

 兄は後部座席へ押し込んだ瞬間、秒で寝た。

「早」

 レイが呆れる。

 リツは開けたままのドアに手を掛けながら、兄を見る。

「これ一人で大丈夫?」

「まあ、慣れてるんで」

「そっか」

 

 繁華街の光が、車体を照らしている。

 

 リツが何かを言おうとした瞬間。


「……途中まで乗ってったら?」


 兄が寝たまま、後部座席でぼそっと言った。


「は?」


 レイが振り返る。

「お前どうせ方向一緒じゃん……」

「寝言?」

「起きてる……」

 リツが笑う。


「じゃあ、お言葉に甘えようかな」


 レイは固まる。

 本当に、ただ迎えに来ただけだったはずなのに。

 気付けば、助手席へ誰かが乗ろうとしている。


 雨の匂いが強くなった気がした。


 助手席のドアが閉まる。思ったより静かな音だった。

 車内へ、少しだけ香水の匂いが入る。

 甘すぎない。なんというか、夜そのものみたいな匂いだった。


 エンジンを掛けながら、バックミラーを見る。

 後部座席では、兄がもう寝ている。

 早い。


「そういえば」

 リツがシートベルトを締めながらこっちに顔を向ける。

「名前、言ってなかったよね。私、リツ」

「あ、さっき兄貴が言ってたの聞きました。私、レイです」

 車を出口へ向かわせる。

「私もお兄さんから聞いてるよ、妹のレイが迎えに来るからって」

「そうだったんですね」

 駐車料金を、抜き取った兄の財布から支払いながらレイは答える。

「ふ、いつもそれやってるの?」

 リツは笑いを堪えてるように言う。

「こいつが悪いんで」

 リツは吹き出した。


 車が静かに走り出す。

 深夜一時半。


 国道へ出る頃には、街の光も少し落ち着いていた。

 高いビルが減る。

 代わりに、深夜営業の店と、オレンジ色の街灯が続いていく。


 リツは頬杖をついたまま、

 ぼんやり窓の外を見ていた。

 さっきまで繁華街にいた人とは思えないくらい、

 静かだった。


「あの」

「ん?」

 リツは外を見ながら返事をする。

「リツさんって彼女さんなんですか?」

 リツはこっちをみる。

「……こいつの?」

 今日一番笑ったようだった。

「はー。ないない。私、タイプ全然違うもん」

 後ろでゴソっと動いた気がする。

「私、もっと静かな人が好きだし」

 間を置いて、続けて言う。

「あと、一人で生きてそうな人」

「なんですか、それ」

 レイも笑いながら言う。

 車体の後ろ側が重くなった気がした。

 たしかに、兄貴がこんな美人捕まえられるわけないか。

「レイちゃんは?」

「え」

「レイちゃんはどんな人がタイプなの?」

 リツはまた、外を見ながら聞いてきた。

「……よく…分かんないです」

 ふ、と笑った気がした。

「そっか」

「あと、レイ。でいいですよ」

 リツはこちらを向く。

「分かった、レイ」

 少し嬉しそうな顔をしていた。

 その時の顔が街灯のオレンジ色に染まってて、なぜか目を合わせられなかった。

 

「でも、ま」

 リツは親指で後ろを指しながら。

 

「こいつはないな」

「そいつはないっすね」


 今度は二人同時に吹き出した。


 そのままパーキングから二十分ほど走ったところで、コンビニが見えてきた。

「あそこのコンビニでいいよ」

「了解です」

 車が止まったタイミングでリツが言う。

「ありがとー。ね、なんか奢らせてよ」

「え、いや。帰り道一緒だったし大丈夫ですよ」

「いいから。お腹すいたでしょ?」

 たしかに、たまたま今日はまともにご飯を食べてない。

「…じゃあ」

「よし」

 そういって先にリツが車から降りる。後ろを振り返ると兄貴は爆睡したままだった。

「……間の悪いやつ」

 小声で兄を罵倒してから、レイはリツを追いかけた。


「うーん、なんもないじゃん」

 リツは棚を見ながら唸っている。

 陳列棚はスカスカだ。

「まあ、もう二時になりますからね」

 リツは腕を組みながらゆっくりと棚を横切っていく。

「だとしても無さすぎじゃない?バイトが発注しなかったんだな」

「バイトもちゃんと考えてますよ」

 レイは笑いながら答える。

「レイは?食べたいのある?」

「うーん。…特にないですね」

「ないんじゃん」

 リツも笑った。

「コーヒーでいいですよ」

「コーヒーじゃお腹膨れないじゃん」

 ホットスナックの方を見ながら話す。

「もしかしてリツさんがお腹空いてるだけ?」

「バレた」

 またふたりで笑いあった。

「ね、レイ。とりあえず飲み物だけ買って出ようよ」

「あ、はい」


 そうしてコーヒーと水二本を持って店を出た。

「はい。レイ」

「ありがとうございます」

 もらったコーヒーをそのまま一口飲む。

 リツが車の後部座席、兄の頭元に一本の水を置きながら言う。

「ブラックなんか飲んで寝れるの」

「寝れますよ。家にいるとコーヒーしか飲まないですし」

「あー、ぽい」

 リツはガードレールに持たれて、水を開けながら笑う。

「リツさんもコーヒー似合いそうですけど」

「タバコ吸うからあんまり飲まないかな。家にいると酒しか飲まないし」

「ぽいっすね」

 リツは楽しそうにまた笑う。

 

 いつの間にか楽に喋っていた。もっと気を使う人だと思ってたのに、繁華街にいたときとは全く違う顔のような気がした。


 気づけばコーヒーは空になっていた。

「レイ、明日仕事?」

「一応仕事です」

 缶をゴミ箱に入れながら答える。

「長く喋っちゃったね」

「あー。そうかもです」

 気づけば、三十分は経っていた。

「でも、昼からなんで全然大丈夫ですよ」

「そうなんだ」

 風が強くなってきていた。

 

「まだ眠くなかったら、ラーメン行く?」

 朝までやってるとこあるんだ。といいながらリツは、ガードレールから立ち上がる。

「行きたいです。お腹空きました」

 

 今日はもう少しだけ、夜に居たかった。


「歩いてすぐだから」

「あ、兄貴忘れてた」

「あ、ホントだ。まだ寝てる?」

 車の中の様子を覗くと足元に落ちていた。

「腰ってあんなに曲がるの?」

 リツは笑い声を抑えながら震えて言う。

 つられて笑いそうになる。

「まぁ、明日は歩けないかもですね」

 リツと吹き出す。

「いい薬になるでしょ。サッと行ってこよう」

「はい」

そのまま、車を置いてラーメン屋に向かった。


 深夜三時前。


 ラーメン屋に入る。

 この時間に、まだこんなに人がいるのかと思った。

 カウンターだけの小さい店。

 白い蛍光灯。

 油の匂い。

 眠そうな店員。

 酔っ払い。

 終電を逃したっぽい客。

 夜の続きをしてる人たちばかりだった。

 

「絶対うまい時間」

 リツがメニューを見ながら言う。

「一番太る時間でもあります」

「やめて」

 レイが笑う。

「レイは?」

「普通ので」

「冒険しないねぇ」

「外したくないんで」

「人生ゲーム下手そう」

「急に悪口」

 くくく、とリツが悪そうに笑う。

 こういう顔を見ると、普通に近所にいるお姉さんみたいだ。


 ラーメンが来る。

 湯気。

 醤油の匂い。

 体に悪そうな油。

 でも、なぜか妙に美味そうだった。

「いただきます」

 二人同時に言う。

 しばらく、食べる音だけになる。


 店内BGM。

 遠くの笑い声。

 箸の音。

 

 レイはラーメンを食べながら、思う。

 今日、ただ迎えに来ただけだったはずなのに。

 なんでラーメン食べてるんだろう。

 横目でリツを見る。チャーシューは最後に残す派のようだ。

 自分のラーメンに視線を戻す。

 でも、来てよかった。


 ありがとうございました。という店員の眠そうな声を背に店を出る。

「あー。美味しかった」

「本当に美味しいですね。ここ」

「でしょ?飲んだ日はだいたい来るんだ」

 だらだら喋りながら車に戻ると、時刻は四時近くになっていた。

「あーあ。また朝帰りだ」

「リツさんは仕事あるんですか?」

「あるけど、時間は自由効くところだから」

 帰ったら寝るよ。と、あくびをしながら言う。

「じゃあ、今日は解散ですね」

「ん」

 そういいながらも二人ともガードレールに腰を掛ける。


「なんか久々かも。こんな静かな夜」

 レイは、リツを見る。

「普段もっと騒がしいんですか」

「んー……騒がしいっていうか」

 少し考える。

「ずっと誰かいる感じ」

 その言い方が、少しだけ疲れて見えた。

 

 トラックや自転車の音が増えてきた。

 目の前を新聞配達の原付が走り抜ける。

 

「私、ああいう朝早い仕事って出来そうにないな」

「分かります。私も起きれないです」

 

 空はまだ暗いのに、町は起き始めている。


「リツさんお酒飲めなくなっちゃいますもんね」

「私は何時からでも飲めるから」

「つよ」

 ふ、とふたりで笑う。


「……帰ろっか」

「……」


ふと、車を見る。兄は起きた様子はなかった。


「こいつも送らないとですしね」

「近いの?」

「私んちから十分くらいです」

「今度なにか奢ってもらいなよ」

「そうします」


 また、雨の匂いがしてきた。


「雨、降るかもですね」

「……よし、帰る」

「そうしますか」


 そういうとリツは、ガードレールから立ち上がった。


「またね、レイ」

「はい、また」


 リツは自分んちの方に歩き出した。

 その背中になにか言いたかったけど、言葉がつかみきれなかった。

 車の方に向きかえり、運転席へ歩く。

 ドアに手をかけた。そのとき。


「レーイ!」


 振り返る。


「連絡先、交換しよ」

 リツが手にスマホを持ちながら振っている。


「あ……はい!」


 連絡先を交換する。

 それだけ。

 本当に、それだけだった。


 リツはパーカーのフードを軽く被りながら、

 小さく手を振った。

 レイも軽く会釈する。

 それから。

 車はまた、朝方の道路へ戻った。


 後部座席では、兄がまだ寝ている。

 空はまだ暗い。

 コンビニ。

 ラーメン。

 助手席。

 全部、まだ名前のない記憶だった。

 

 雨が、降り始めた。

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