一皿の価値
クロスは、アシュレイとその番頭グランを伴い、ラグスティアの町にある宿《月影の宿》へ戻ってきた。
石畳の通りに面したこの宿は、夜になると柔らかな灯りが窓からこぼれ、まるで月の光に包まれるような静けさを纏っていた。
宿の扉を開けると、厨房からいい香りが漂ってきて、ホールには食事を終えた宿泊客たちの穏やかな談笑が流れていた。
「よう、クロス。待ってたよ」
厨房の奥から、ラディスがひょっこり顔を出す。カウンターには、やや控えめに微笑むカリナの姿もある。
「おお、アシュレイにグラン。わざわざ来たのかい。……ふふっ、うちで商会の面々と会うなんて、ちょっとした自慢だわ」
「やめてくれよカリナさん。商会のお偉方といっても、君たちとはもう顔馴染みじゃないか」
アシュレイは笑いながら言うと、クロスに向き直る。
「じゃあ、お願いできるかい?」
「ええ、すぐ用意します」
クロスは厨房に入り、前日に仕込んでおいた鍋を再加熱する。
グラスファングのスジ肉を香味野菜とともにじっくり煮込み、余分な脂と獣臭を丁寧に抜いた後、独自に調合した香辛料と果実味噌で仕上げた一品。火を入れ直すと、食欲をそそる濃厚な香りが厨房からホールへと流れていく。
「いい匂いだ……」
グランが小さく呟く。カリナとラディスは笑みを浮かべてうなずきあっていた。
そして運ばれてきたのは、黒陶の深皿に盛られた《グラスファングのスジ煮》。
色濃い煮汁の中に、艶やかに煮崩れたスジ肉が沈み、上には軽く炙った香草と炒めネギが添えられていた。
煮汁はとろみを帯び、器の縁にうっすらと光を反射させている。肉を口に運ぶと、繊維がほろりと崩れ、出汁のコクと甘味、そしてわずかに残したグラスファング特有の野性味が広がる。
「……うまい」
アシュレイは目を閉じ、口の中でじっくりと味を転がすように噛みしめた。
「最初の一口で甘味、次にスパイスの香りが鼻に抜ける。……最後に、肉そのものの滋味が残る……これはすごい」
グランも一口、また一口と箸を止めない。
「……舌触りが滑らかだ。若干の固さはあるが、スジというより上質な脂の抜けたバラ肉に近い……しかも臭みがほとんどない。これは相当手間がかかっているな」
「仕込みに丸一日以上かけました。血抜き、灰汁取り、香味処理……正直、冒険者たちからも敬遠される肉でした。でも、癖さえ抜ければ、滋養も味も抜群で」
「なるほど……これは、商品になる」
アシュレイが興奮気味にグランを見やった。
「グラン、これはもう決まりだ。うちで扱おう。買い取るしかない」
「私も異論はありません。が……条件は確認させてください」
グランは落ち着いた口調のまま、クロスに目を向ける。
「レシピをお売りいただけますか? 一品として、商会で再現し、商品化の体制に入ります」
クロスは一瞬だけ間を置いた後、静かに答えた。
「……売ることは構いません。でも、希望があります」
「どのような?」
「一括での買い取りではなく……レシピ使用料として、利益の三割を継続していただきたい」
アシュレイがすぐに身を乗り出す。
「なるほど、権利収入の形か。面白い! 君の腕なら、それも当然の主張だ」
「ちょっと待ってください、若旦那」
グランがその言葉を遮るように制止する。
「その条件を認めてしまえば、今後似た形の交渉が発生した際に前例となります。慎重に判断を――」
「でもグラン、この料理の完成度を考えたら、その価値はあるだろう? 食材として難易度が高い分、再現性も含めてノウハウは貴重だ」
「確かに。しかし、再現性が不確かで、流通の不安もあるこの素材に、三割の継続支払いはリスクが高い。長期的に見れば、一割でも十分に高額です」
クロスは、少しだけ息を吸って、ゆっくりと言った。
「この味を引き出すには、下処理と煮込みだけでなく、温度調整、煮込み順のすべてが要ります。ただ煮るだけでは、この味にはなりません。知識と経験の積み重ねです」
「いかに良いレシピでも、三割は高すぎます。商品展開には下処理、流通、再現性の検証……すべて商会が負担する以上、前例としても高すぎます」
「ですがこれは、素材の扱いと味噌との組み合わせ、温度や時間の調整も全て含めた“完成形”です。鍋に材料を放るだけでは絶対に再現できません」
クロスは一歩も引かずに言い切る。アシュレイはそれを楽しむように見つめながら、口を挟む。
「ならば間をとって二割でどうだい? 君の技術も考慮しての好条件だ」
「……二割五分。そこなら、文書による詳細な工程提供と、再現試作の協力をします」
グランがやや唇を引き結び、しばし沈黙した後、静かに首を振った。
「……その条件では、商会側のリスクがやや高い。だが、我々としてもこの料理を見過ごすわけにはいかない。……一割五分、それが限度です。品質と再現性の保証があるなら、それが妥当な落とし所かと」
クロスは少しだけ考え――そして、うなずいた。
「……分かりました。一割五分でお願いします」
「契約書の準備は私が行います。詳細は明日以降で」
アシュレイが立ち上がり、クロスの手を握った。
「ありがとうございます」
クロスは深く頭を下げた。
「さすがに商会の交渉はえげつないわね」
と、カリナが感心したように呟いたが、グランは絞り出すように話し出す。
「何を仰る。クロスさんは本当に冒険者ですか?他の商会を相手するより手強い相手でしたよ」
カリナはその口調に何故か嬉しそうな顔で話し出す。
「なら、うちはもう昨日食べてるから――レシピも買わせてもらうわよ」
そう言って、懐から銀貨を十枚、卓に並べる。
「十枚……!?」
「 今なら、うち以外は誰もこの味を知らない。つまり――“うちが元祖”って名乗れるわけ」
「……なるほど、さすがです」
「任せなさい。お客に言うセリフはもう考えてあるの。『月影の宿といえばこの味!』ってね」
すると、隣のラディスが少しだけ咳払いして口を開いた。
「まぁ、問題は“あの肉”が手に入るかどうか、だな」
「……グラスファングのことですか」
「ああ。あれは市場に流れねぇ。そもそも冒険者は狩っても、食べられない肉は持ち帰らないからな」
「そうですね……」
ラディスが腕を組み、にやりと笑う。
「だからさ。お前さんが狩ってくるのが一番早ぇ。文句なしだろ?」
「えっ……また僕が……?」
「“元祖”の責任ってやつだよ」
とラディスがにやっと言い、カリナがそれに乗る。
「当然ね! だってこの料理、あんたの手で完成したんだし、材料も責任持って調達しなきゃ!」
「僕……料理人じゃなくて、冒険者なんですけど……」
「なら、冒険者として調達してきてくれ。 魔物料理の第一人者としての責任ってやつだ」
カリナも苦笑しながら言う。
「ラディス、それはちょっと押し付けが……でもまぁ、素材がなければ売れないのも事実ね」
クロスは、またしても押し切られたような気がして小さくため息を吐いた。
(本当に、どこに向かってるんだろうな、俺の冒険者生活……)
そう思いながらも、どこか嬉しさのにじむため息が、クロスの口からふっと漏れた。




