表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界剣士の成長物語  作者: ナナシ
二章
73/168

一皿の価値

クロスは、アシュレイとその番頭グランを伴い、ラグスティアの町にある宿《月影の宿》へ戻ってきた。


石畳の通りに面したこの宿は、夜になると柔らかな灯りが窓からこぼれ、まるで月の光に包まれるような静けさを纏っていた。


宿の扉を開けると、厨房からいい香りが漂ってきて、ホールには食事を終えた宿泊客たちの穏やかな談笑が流れていた。


「よう、クロス。待ってたよ」


厨房の奥から、ラディスがひょっこり顔を出す。カウンターには、やや控えめに微笑むカリナの姿もある。


「おお、アシュレイにグラン。わざわざ来たのかい。……ふふっ、うちで商会の面々と会うなんて、ちょっとした自慢だわ」


「やめてくれよカリナさん。商会のお偉方といっても、君たちとはもう顔馴染みじゃないか」


アシュレイは笑いながら言うと、クロスに向き直る。


「じゃあ、お願いできるかい?」


「ええ、すぐ用意します」


クロスは厨房に入り、前日に仕込んでおいた鍋を再加熱する。


グラスファングのスジ肉を香味野菜とともにじっくり煮込み、余分な脂と獣臭を丁寧に抜いた後、独自に調合した香辛料と果実味噌で仕上げた一品。火を入れ直すと、食欲をそそる濃厚な香りが厨房からホールへと流れていく。


「いい匂いだ……」


グランが小さく呟く。カリナとラディスは笑みを浮かべてうなずきあっていた。


そして運ばれてきたのは、黒陶の深皿に盛られた《グラスファングのスジ煮》。


色濃い煮汁の中に、艶やかに煮崩れたスジ肉が沈み、上には軽く炙った香草と炒めネギが添えられていた。


煮汁はとろみを帯び、器の縁にうっすらと光を反射させている。肉を口に運ぶと、繊維がほろりと崩れ、出汁のコクと甘味、そしてわずかに残したグラスファング特有の野性味が広がる。


「……うまい」


アシュレイは目を閉じ、口の中でじっくりと味を転がすように噛みしめた。


「最初の一口で甘味、次にスパイスの香りが鼻に抜ける。……最後に、肉そのものの滋味が残る……これはすごい」


グランも一口、また一口と箸を止めない。


「……舌触りが滑らかだ。若干の固さはあるが、スジというより上質な脂の抜けたバラ肉に近い……しかも臭みがほとんどない。これは相当手間がかかっているな」


「仕込みに丸一日以上かけました。血抜き、灰汁取り、香味処理……正直、冒険者たちからも敬遠される肉でした。でも、癖さえ抜ければ、滋養も味も抜群で」


「なるほど……これは、商品になる」


アシュレイが興奮気味にグランを見やった。


「グラン、これはもう決まりだ。うちで扱おう。買い取るしかない」


「私も異論はありません。が……条件は確認させてください」


グランは落ち着いた口調のまま、クロスに目を向ける。


「レシピをお売りいただけますか? 一品として、商会で再現し、商品化の体制に入ります」


クロスは一瞬だけ間を置いた後、静かに答えた。


「……売ることは構いません。でも、希望があります」


「どのような?」


「一括での買い取りではなく……レシピ使用料として、利益の三割を継続していただきたい」


アシュレイがすぐに身を乗り出す。


「なるほど、権利収入の形か。面白い! 君の腕なら、それも当然の主張だ」


「ちょっと待ってください、若旦那」


グランがその言葉を遮るように制止する。


「その条件を認めてしまえば、今後似た形の交渉が発生した際に前例となります。慎重に判断を――」


「でもグラン、この料理の完成度を考えたら、その価値はあるだろう? 食材として難易度が高い分、再現性も含めてノウハウは貴重だ」


「確かに。しかし、再現性が不確かで、流通の不安もあるこの素材に、三割の継続支払いはリスクが高い。長期的に見れば、一割でも十分に高額です」


クロスは、少しだけ息を吸って、ゆっくりと言った。


「この味を引き出すには、下処理と煮込みだけでなく、温度調整、煮込み順のすべてが要ります。ただ煮るだけでは、この味にはなりません。知識と経験の積み重ねです」


「いかに良いレシピでも、三割は高すぎます。商品展開には下処理、流通、再現性の検証……すべて商会が負担する以上、前例としても高すぎます」


「ですがこれは、素材の扱いと味噌との組み合わせ、温度や時間の調整も全て含めた“完成形”です。鍋に材料を放るだけでは絶対に再現できません」


クロスは一歩も引かずに言い切る。アシュレイはそれを楽しむように見つめながら、口を挟む。


「ならば間をとって二割でどうだい? 君の技術も考慮しての好条件だ」


「……二割五分。そこなら、文書による詳細な工程提供と、再現試作の協力をします」


グランがやや唇を引き結び、しばし沈黙した後、静かに首を振った。


「……その条件では、商会側のリスクがやや高い。だが、我々としてもこの料理を見過ごすわけにはいかない。……一割五分、それが限度です。品質と再現性の保証があるなら、それが妥当な落とし所かと」


クロスは少しだけ考え――そして、うなずいた。


「……分かりました。一割五分でお願いします」


「契約書の準備は私が行います。詳細は明日以降で」


アシュレイが立ち上がり、クロスの手を握った。


「ありがとうございます」


クロスは深く頭を下げた。


「さすがに商会の交渉はえげつないわね」


と、カリナが感心したように呟いたが、グランは絞り出すように話し出す。


「何を仰る。クロスさんは本当に冒険者ですか?他の商会を相手するより手強い相手でしたよ」


カリナはその口調に何故か嬉しそうな顔で話し出す。


「なら、うちはもう昨日食べてるから――レシピも買わせてもらうわよ」


そう言って、懐から銀貨を十枚、卓に並べる。


「十枚……!?」


「 今なら、うち以外は誰もこの味を知らない。つまり――“うちが元祖”って名乗れるわけ」


「……なるほど、さすがです」


「任せなさい。お客に言うセリフはもう考えてあるの。『月影の宿といえばこの味!』ってね」


すると、隣のラディスが少しだけ咳払いして口を開いた。


「まぁ、問題は“あの肉”が手に入るかどうか、だな」


「……グラスファングのことですか」


「ああ。あれは市場に流れねぇ。そもそも冒険者は狩っても、食べられない肉は持ち帰らないからな」


「そうですね……」


ラディスが腕を組み、にやりと笑う。


「だからさ。お前さんが狩ってくるのが一番早ぇ。文句なしだろ?」


「えっ……また僕が……?」


「“元祖”の責任ってやつだよ」


とラディスがにやっと言い、カリナがそれに乗る。


「当然ね! だってこの料理、あんたの手で完成したんだし、材料も責任持って調達しなきゃ!」


「僕……料理人じゃなくて、冒険者なんですけど……」


「なら、冒険者として調達してきてくれ。 魔物料理の第一人者としての責任ってやつだ」


カリナも苦笑しながら言う。


「ラディス、それはちょっと押し付けが……でもまぁ、素材がなければ売れないのも事実ね」


クロスは、またしても押し切られたような気がして小さくため息を吐いた。


(本当に、どこに向かってるんだろうな、俺の冒険者生活……)


そう思いながらも、どこか嬉しさのにじむため息が、クロスの口からふっと漏れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ