強さの意味
午後四時。沈みかけた陽光が大学のキャンパスを黄金色に染めていた。黒須龍也は、講義を終えた学生たちの波から少し距離を取るように歩いていた。彼の歩幅は広く、姿勢は常に背筋が伸びていた。まるで剣士のように——というより、彼自身がその名に恥じぬ剣士としての生き方を自らに課していた。
龍也は剣道部には所属していない。彼が学んでいるのは、古流剣術と呼ばれる、日本に古くから伝わる実戦的な流派だった。流派の名は「天心流」。実戦に即したその技は、スポーツとしての剣道とは一線を画す。
田舎で暮らしていた祖父の紹介で、小学生の頃からその道場に通い始めた。剣術を通じて学んだのは、刀の使い方だけではない。「武」とは何か。「強さ」とは何か。そして——「暴力」との違いとは。
しかし、それが分かったとは言い難い。
大学に進学し、都会での一人暮らしを始めてからというもの、彼の中にはある種の虚無感が根付いていた。自分は何のために剣を振るってきたのか。鍛錬を重ねる意味はあるのか。この現代社会において、力を持つことにどんな価値があるのか。
現実において、暴力は忌避されるものだ。争いを避け、平和に生きることが尊ばれる社会。ならば、鍛錬に意味はあるのか?
——強くなって、どうする?
その問いが、彼の胸にいつも残ったままだった。
***
大学からの帰路、龍也は回り道して神社に立ち寄った。繁華街から少し離れた場所にある古い神社で、人影もまばら。境内には夕日が落ち、朱塗りの鳥居が赤黒く照らされていた。
「やあ、黒須君。今日も来たのかい」
社務所の隅に腰掛けていたのは、この神社の神主である佐伯だった。まだ四十代半ばだが、落ち着いた佇まいと穏やかな口調が印象的な人物で、龍也がこの神社に足繁く通うようになってから、親しく言葉を交わすようになった。
「はい。少し、考え事があって」
「剣のことか?」
「……ええ。俺は強くなりたいと思って鍛錬をしてきたつもりでした。でも、最近分からなくなってきたんです。強さって何なんでしょうか。誰かを傷つけるための力じゃないって、頭では分かっているつもりなんです。でも、いざ自分の中の“怒り”とか“恐怖”とかが湧き上がると、それを抑えきれない自分がいる」
佐伯は一瞬、目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
「強さというのは、他者を制する力だけじゃない。自分を制する力でもある。だが、それがどれだけ難しいことか、私も年を取ってようやく少し分かってきたくらいだ」
「……俺にはまだ、分かりません」
「それでいい。若いうちから分かってしまっては、学ぶことがなくなる。学ぶ道の先に“答え”があると思っていれば、迷っても歩いていける」
龍也はその言葉に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
神社を後にしたとき、空には星が瞬いていた。街の喧騒は遠く、冷たい風が頬をかすめる。その夜、龍也は一冊のノートを取り出し、ページの片隅にこう書いた。
「力とは、何のためにあるのか」
その言葉を最後に、ペンを置いた。
***
翌朝、龍也は久々に実家へ電話をかけた。師匠である嶺木宗次郎が体調を崩したという知らせを母から聞いて、心がざわついたからだ。
「お前のことは、あの人いつも気にかけてるよ。あんなに厳しかったのに、今じゃ近所の子どもたちに木刀教えてる」
「……あの人は変わらないですね」
「それが嶺木さんよ。でも、本当に嬉しそうなの。龍也が都会でも剣を続けてるって言ったら、鼻の穴が膨らんでね。誇らしげだった」
電話を切った後、龍也はしばらく無言で天井を見つめた。
嶺木師範の背中を思い出す。
「剣を学ぶ者が恐れるべきは、他人の強さではない。己の弱さだ」
その言葉が、彼の心の奥底に突き刺さっていた。
***
その日の夕方、彼は再び道場へと足を運んだ。大学の課題は山積していたが、それよりも今は剣を振るうことが必要だった。
道場の木床は冷たく、空気は張り詰めていた。木刀を握る手に、自然と力が入る。
「一刀正伝・天心流、型一」
声を発しながら踏み込み、振り下ろす。打ち下ろすたびに、思考の霧が晴れていくようだった。筋肉は悲鳴を上げていたが、どこか心地よい疲労感に包まれていた。
「俺は——まだ、終わっちゃいない」
自分自身に言い聞かせるように呟いたその瞬間だった。
目の前の空間が歪んだ。
「……え?」
視界が揺れた。歪みは渦となり、空間そのものがねじれていく。床も壁も天井も、まるで万華鏡の中に放り込まれたように色彩を失い、重力の向きすら分からなくなる。
「な、何だこれ……!」
足元が崩れ、世界が反転した。
落ちる——という感覚が全身を包む。
光も音もない。あるのは、ただ自分の存在だけ。
そして——次の瞬間、龍也の姿は、現代日本から消えていた。