第百五十話 セバスとかなみ
「ん? お前、セントバーナードか? ──」
──セバス? ねぇセバスは……。
知らない女の子の声が頭の中でリフレインする。
──そっか。じゃあ私の人生はセバスにあげるよ! え、二人のもの? まっ、セバスがそう言うならそれで!
それが誰なのか分からない。
でも、確かに自分の名前を呼ぶ声は心地よく響いてきて、魂はひどく揺さぶられる──。
「──こっちの世界にもいるのか。こんな暑い地域でよく生きてるな」
記憶を無くして数十年。今までこんなことは一度も起こらなかったのに。
それがなんなのか分からないがこの機会、絶対に逃してはダメだと感じた。
目の前の妙ちきりんな生き物に警戒心を見せない男に、意識せず近付いてみる。
「──バフッ(お主、どこから来たんだ)」
どうせ言葉は分からないだろうと軽く吠えると男は手を差し出してきた。
手を乗せて欲しいのだろうか?
危険だ。私が魔物だったらどうするつもりか。無警戒にも程がある。
街の住民だって警戒を解くまで時間を要したのにこの男の何たる隙の多いことか──。とため息をつきつつ私は右前足を差し出して合わせた。
ついでに《回復魔法》で男の獣臭さを消してあげたがそれ以上何かを得られそうな感覚は働かず、もやもやした胸中を抱えてその場を後にした。
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翌日。
昨日と同じルートを散歩して再び彼に会って確かめようと誓った私の目の前に、この辺りでは見掛けない恰好をした少女が現れた。普段は警戒される側の私を気遣うように少女はこそこそと寄ってきた。
「おっきなワンちゃんだ」
「……わんちゃん?」
「そうあなた。こんちには」
可愛げのある少女は丁寧に頭を下げる。しかし驚いた。
昨日の男と同じく特殊言語を話すだけならまだしも、他生物の言葉まで完全に理解している。
特定の個に、イヌになって初めて興味が湧いた。
「聴こえるのか、私の声が」
「うん。イヌとお話が出来るなんてなんだか夢みたい。あ、もしかして珖代が言ってたスゴいワンちゃん? なんか獣の臭いも一瞬で消しちゃったんだってね! スゴいねどんな魔法なの? もしくはスキル? 転生者とか?」
少女はいっぺんに質問すると目をキラキラさせながら詰め寄ってくる。誰かに好奇心を向けられるのは久しぶりだが私は戸惑うことしか出来ない。極力、街人との干渉を避けて来たツケが回ってきたようだ。
「……いや、まあ、回復の魔法の応用で、別に大したことないぞ」
「へー。もしかして、回復魔法って珍しい? あんまり他人に言わない方が良かったりする?」
「そう……だな。その方が助かる」
「わかった!」
年端もいかない栗毛の少女は今の私よりも賢く、そして珍しい生き物に思えた。
言語系に於いてもそうだが回復魔法と聞いて驚かない者はいなかったし、なによりその希少性に気付いて黙っててくれようとするその優しさが不可解だった。こちらから何かしてあげた訳でもないのに。
気付けば私は自分の過去なんかより、彼女のことが知りたくなり彼女に聞いた。
「貴女の名前を聞かせてほしい」
と。すると彼女は自らの名をかなみと名乗った。
「かなみはかなみ。一回スッゴい死んで、色々あって来たんだけど……瀬芭栖 陽姫でいいのかな? 難しい漢字書くんだね、セバス」
「い、今なんと……? カンジ?」
聞けば聞くほど、わけがわからないよ──。状態だった。
「漢字だよ。ほら、気分の感じじゃなくてコッチのさ、漢・字」
そう言うとかなみ殿はしゃがみこみ、『カンジ』とやらを木の棒で地面にほり始めた。
「何語だこれは。なんなんだお主は? そもそもなぜ私の名前を知っている……?」
「漢字は漢字だよセバス。漢字でそう読める漢字だったからセバスって分かったんだよ」
あまり頭のいい方ではないと自覚する私には、理解不能な説明を受けた。
「も、もしや知り合いの知り合いか……? そうだろ、私をからかっているんだろう」
「違うよ、からかってなんかいないよ」
「じゃ、じゃああれか……──過去。お主は、お主らは私の過去を知る者なのか」
「過去? かなみは初めましてだけど」
悪い夢でも見ている気分になり冷たい汗が止まらない。
「な、なんなんだ! 何をしに何処から来たんだお前たちは! 不思議な言葉を使わないでくれ! 頭がおかしくなりそうだ!」
「変なの。かなみずっと日本語で話してるだけなのに」
かなみ殿はしゃがんだままの体勢でひざに頬杖をつき、不思議そうに不思議なことを述べた。
「ニホンゴ──……ぅう」
──!!
それを口にした途端、私の中に知らないはずの思い出が息を吹き返すように一気に流れ込んできて、たちまち眩暈に襲われた。
「大丈夫?」
「ああ」
知らないハズの走馬灯を全身に浴び終えた私は、かなみ殿に支えられていたことに気付き感謝した。
一瞬すぎて覚えていられないことばかりだったが、確かに思い出せたのは私が日本を知っていること。そして、ヒナという掛け替えのないパートナーの存在だった。
「かなみ殿、お礼をさせてくれないか?」
たくさんの大事なことを思い出し、何から手をつけていいか分からくなった私は、ひとまずこの恩を少女に返すことから始めることに決めた。
「お礼? そんなのいいよ。ちょっと支えただけだし」
「取り乱したことも含めて、色々と申し訳なくてだな……、だから返させて欲しい。だから、そうだっ、なにか困ったことがあったら私に遠慮なく頼ってくれ頼む!」
「そっか、じゃあ」
そう言うとかなみ殿はモフモフをお願いしてきた。前世が野良猫だった私はあまりモフられることが好きではなかったが彼女のお願いには好き放題応えた。
ひとしきりモフるのを満足すると彼女はニコニコとお礼を言うが、まだ返し足りない気持ちを伝えると
「一緒に旅でも、する?」と誘われた。
「すまないが、旅はもう終えたんだ……。この街で出来ることであれば聞くぞ」
そう返すとかなみ殿は斜め上を少し眺めながら考え出した。
「んーじゃあ、珖代のこと見守っててもらってもいい?」
「こうだい、とは昨日の男だな。お主の仲間か?」
「うーんとね、かなみの好きな人! かなっ」
屈託のない笑顔で少女はそう言い切る。
「こんなこと言いたくないがやめておけ。彼奴は早死するタイプだぞ。こう見えて私は一国の騎士団を取りまとめてた時期がある。だからそういう奴はすぐ分かる」
「ほんと!? セバスってホントにスゴいイヌなんだね!」
彼女のためを思ってやめるよう説得すると、なぜか真正面から褒められ頭が痒くなった。
「大したことではない。経験を重ねれば誰だってできる」
「だったら余計にお願いしたくなっちゃうなー」
「なぜそうなる」
「珖代ってなーんかいけないことに一人でクビを突っ込んじゃうようなタイプだと思うのね。長いこと独りだったからだと思うんだけど、一回遠くに行っちゃうと帰ってこないように思うんだ。だからね、かなみが隣りに居られない時は近くで見守ってあげてほしいの」
「男の危うさに気付いておきながらその選択か……。苦労するぞ、かなみ殿」
恋は盲目というかなんと言うか……。その恋が如何に面倒かを自覚する少女に “やれやれ” という感想しか湧いてこなかった。
「お母さんもお父さんに苦労してたみたいだし、たぶん遺伝なんだろうね! 危なかっしい男は放っておけないっていう」
よく笑顔でそんなことを堂々と言えるものだ。幼い見た目とは裏腹に、彼女の肝っ玉はかなり据わっていると確信する。
「分かった。極力手伝いはしよう」
「ありがと。セバス」
というわけで、なくなく折れた形ではあるが、彼女の危なかっしい恋を応援することとなった。
その日から私は珖代殿の傍に居ることを心掛けた。日中はほぼかなみ殿に任せて、夜から早朝にかけて。
厩舎の干し草の上で一緒に寝たことは今も懐かしいが、これ以上は敢えて語ることもない、取るに足らない出来事の連続。
結局街の外まで連れ回されて、珖代殿を見守る約束をしたことを何度後悔したことか……。誰とは言わないが、私はあの女神が嫌いです。
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