課題5:僕とボクの話 5
日本に来たのは、百年くらい前だったかな。
お兄さんはそう言いました。
「名前も違ってさ。名前はウィリアム……ウィリアム=ストレイス、っていうんだけど」
その発言はとても流暢でしたが、なんだか言いにくそうでした。
「……なんか、この名前言うの久しぶりすぎて」
むつきの方がしっくりくるかも。と、お兄さんは笑いました。
「そうですね。ボクも名前を聞いた時、なんだかくすぐったかったですし――あ」
ふと。それで思い出しました。
「そういえばボクも。名前を教えていませんでした」
「へ?」
お兄さんは不思議そうに聞き返し、すぐにその意図を理解したのか、手のひらで言葉を遮りました。
「いや、良いよ。大丈夫。しきちゃんは、しきちゃんだし」
「そうですか。では、もし。知りたくなったら、いつでも言ってください」
そう言うとお兄さんは「わかった」と頷いてくれました。
「話を戻そう。僕はイギリスで生まれて、吸血鬼になった」
「吸血鬼に、なった……」
思わず繰り返すと、お兄さんは頷きました。
「そう。僕も人間だった。短い間だったけどね。でも、地元には居られなくて、転々として。ロンドンでしばらく暮らしてた」
それまでも色々あったし、あんまり良い生活じゃなかったなあ、という声は、苦すぎる薬を飲んだ時のようでした。
「僕の国は外の世界を見て、海に出て。色んな物を手に入れて――時には手放して。街は煤と霧で囲まれていって。僕は、それを街の片隅でずっと見ては文句ばっかり言ってた」
ボクは、海外の歴歴史について詳しくはありません。イギリスについて知ってる限りの物を思い出しながら、じっとその話を聞きます。
「そんな僕にも、友人と呼べた人は何人か居たんだ。正体を明かせる程親しくなれたのは少なかったけど、みんな良いヤツだった」
その中にね。とお兄さんの声がふと、穏やかになりました。
「やたら僕の世話を焼いてくるヤツが居たんだ。僕が帰ってくると食事を用意して。身の回りの事も勝手にやって。自分も仕事で忙しかったはずなのにさ。いらないって言っても聞かないで……なんでだろうね。どうしてそこまでしてくれるのかも分からなかった」
いや、今もあんまり分かってないんだけど。と、零れるように言葉が落ちました。
「まったく物好きだよね。でも。僕の正体も話せるくらいの仲にはなった。それでも来るのをやめないで。まあ、そんな物好きが死んで……」
いや。とお兄さんは小さく首を横に振りました。
「僕が、殺したんだ」
それは。短いのに、鉛のように重い言葉でした。
「それで僕はあの街がすっかり嫌になってさ。日本は彼が好きだった国でね。一度見てみたいと思って来たんだ」
うん、来て良かった。と言う呟きは少しだけ嬉しそうでした。
「僕の名前はね、日本で出会った人に付けてもらったんだ。苗字はその人のをずっと借りてるんだ」
返せる日なんてもう来ないのにね。と、ぽつりと呟いたのが聞こえました。それはボクに聞かせるためではない、ただの独り言のようでした。
「あとは、ずっと日本に居て。……生活とか、考え方とか。随分と変わったよ」
ボクはその言葉に首を傾げます。
百年前の日本とは、確かに海外の文化がたくさん入ってきた頃でした。
でも、入ってきた物はみんな新しくて、珍しくて、強くて便利だった。そんな風に見ていたのを覚えています。
なのに、お兄さんにとって、新しかったり珍しかったりした物があったのでしょうか?
ボクの様子に気付いたお兄さんも、軽く首を傾げました。
「あ。その。日本で色んな物が変わったというのが、少し、不思議だったんです」
お話の続きを、と促すと、お兄さんは「そうだね」と優しく頷きました。
「日本に来た頃は、世界中で色んな物が急成長してた時代だったから。なんというか、置いて行かれてるような気がしてたんだと思う。僕が見てきた中では、日本が顕著に映った。色んな文化を吸収して、解釈して、自分の日常に組み込んでいく」
それが、と少しだけ切って続けた言葉は。
「なんだか――羨ましく見えたんだ」
とてもきらきらして聞こえました。
「あの頃の僕はどうしようもなく停滞しててさ。目が覚めたような気がしたんだ。それから色々勉強したよ。お陰で学校も通えてるし、文明の利器も使える」
その知識が生かせてるかはさておきね。とお兄さんは笑います。
難しい本を読んで、パソコンや携帯電話と向き合って。時々レポートに頭を悩ませている姿を思い出しました。時々、課題に文句も言っていますが、どれも楽しそうで生き生きしています。
「そうして百年。色んな人と出会って、別れて。戦争も、天災も、発展も。ずっと見てきた。街は明るくなって、生活も良くなったけど、僕らの居場所は減っていって」
ある意味では住みにくくなったね、と何かを憂うように呟きます。
「それは吸血鬼だけじゃない。人狼、口裂け女。座敷童もそうなのかな。人に危害を与えたら恐れられて、幸運を与えれば面白おかしく取り上げられる」
そんな風にさ、と言葉は続きます。
「人間は未知を怖がって、解明して、知り尽くそうとする。そのまま受け入れてくれた方がずっと楽で平和なのに、僕達のような存在を許さないし、信じない。気持ちは分かるんだけど」
まったく、この時代は生きにくいね。
その声は、初めてお兄さんとご飯を食べた時の話を思い出させる声でした。
「で、僕はそんな世の中でも平和に暮らしていきたい。吸血鬼だって認められなくてもいい。ただ話して、笑って、穏やかに過ごしたいんだ」
お兄さんは自分の手の平を見て。それを組み直して、口元を緩めました。
「手に入れられる限りの平穏と日常を謳歌する。かつてないほどの課題だよ。それくらい、今の生活は気に入ってて。その中に、君や柿原が居てくれたら嬉しい」
「でも、ボクは」
ボクは、そんなお兄さんに、穏やかとは言い難い日々を持ってきてしまいました。
お兄さんは、ボクが言いたいことを察したのでしょう。「うん。そうだね」と頷いて。
「でも、僕が幸せだって認めるまで居てくれるんでしょ?」
と、柔らかい笑顔で尋ねてきました。
さらりと揺れた赤い髪から、普段は隠れてる目が垣間見えて。それになんだかドキッとして。「はい」と答えたつもりの声は、思った以上に形になりませんでした。
「じゃあ、それも課題のひとつってことで頑張るよ」
「はい……」
「ってことで。長くなったけど僕の昔話、おしまい」
そう言って、お兄さんは話を終えました。
「長々と話しすぎたね……」
夜はまだ深くありませんが、時計の針は随分と進んでいました。
「もしかして、これが年ってやつかなあ」
やだなあ、と天井を仰ぐように溜息まじりにぼやいています。
お兄さんはそう言いましたが、ボクにとってはあっという間の時間でした。
「お兄さんは、すごいです」
素直に感想を言うと、お兄さんは「いやいや」と手をぱたぱたと振りました。
「そんな事ないよ。長いこと立ち止まってたし。後ろ向きで、文句ばっかりで」
子供っぽいね。と恥ずかしそうに笑います。
「だから、僕の行動は……正直遅すぎるくらいじゃないかな」
「いえ、それでもボクはお兄さんのこと、すごいと思います」
ボクには、そんなもたくさんのことを考えるだけの視界の広さを持っていません。
隣に立っても、きっとお兄さんの方が広く、遠くを見ていると思います。
お兄さんの行動が遅すぎたというのなら、ボクはどうなのでしょう。
この家に来るまで、何か得た物があったでしょうか?
見て。知って。考えた事があったでしょうか?
ここが天国ですか? と、もう居ない母様に尋ねるだけの日々に。
自分にできることすら分からず、家を転々とするだけだったボクに。
「ボクは、今でもじっとしている気がします」
「そう?」
はい、と頷くとお兄さんは「大丈夫」という言葉をくれました。
「しきちゃんは、ちゃんと歩いてるよ。料理をして、本を読んで。ちゃんと自分にできる事をしっかり全うしようとしてる」
「そう、でしょうか……」
本当に、ボクは前を向いているでしょうか。
その疑問が伝わったのか、お兄さんは言葉を続けます。
「しきちゃんは言ったよね」
「?」
「この家の座敷童で在りたいって」
「……はい」
「それは確かな一歩だと思うよ。自分が望んだ状況だったりそうじゃなかったり――これまで色々あったかもしれないけど、それを全部抱きかかえて自分であろうとしてる」
ね。と言うお兄さんの声は、とても優しくて、耳に心地よくて。
思わず喉の奥がぐっと熱く、詰まったような感じがしました。
ボクも、日常と平穏を手に入れるための何かを考えてみたくなりました。
お手伝い程度しかできないかもしれません。もしかしたら、ただの足手まといかもしれません。それでも。
ボクは吸血鬼のように、大人の男の人のように、強い力はありません。
長く長く生きているはずなのに、外を知りません。
ボクが知っているのは、家の中の事だけです。
ボクがしたい事は、その家の人を幸せにする事です。
だから今のボクが、座敷童なりにできる事を。
「はい。ボクは。座敷童は。――座敷童にできる事を。ちゃんとやります」
「うん。よろしくね」
「はい」
□ ■ □
おやすみ、と言い合って部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
身体のダルさは相変わらず僕に重力の良さを教えてくる。
が。
それと同時に僕の頭の中はさっき話したことでいっぱいだった。
「勢いで……話しすぎた……」
思わず頭を抱えて布団に顔を埋める。
濁したり端折ったりした部分もかなりあったけど。
あまりに久しぶりの思い出話。喋りすぎた。調子に乗った。そんな後悔が痛い。
けど、わずかながら安心感もあった。
僕の話が、しきちゃんにどれだけ残ったかは分からない。
でも、話をしっかり聞く子だから、彼女なりに色々と考えるのだろう。
そんな彼女と一緒にこの現代を、日常を。
人ならざる者同士、手を取り合って攻略していけたら。
それは。きっとすごく嬉しい事だ。
「……問題は、この感情がどっちの物かってのと」
もうひとつ。
話に出した、物好き。
彼のことが離れなかった。
夜の街で見かけた、あの人影を思い出す。
黒い髪の、背の高い男。
顔は隠れていたし、人混みの中だったし。隣に居た少女は知らないけど。
あいつは。間違いなく。
「なんで、居るんだよ……テオ……」
死んだはずの物好きの。死んだ――いや、殺したはずの、友人の。
名前を、呟く。
今日は、いつもの声は聞こえなかった。
ただ微かに、くすくすと笑う声がした。
それがあいつの物なのか。
あの物好きの声なのか。
僕自身の声なのか。
分からないまま、僕の意識は落ちていった。
むつき。過去を大いに語る。
思い出話とは、思いの外長くなったりするものです。彼はこれでも随分と端折ってるつもりなんです。
しきちゃんも以前自分の事を話してましたが、そんなに長くありませんでした。彼女は自分に対して覚えてる事、思ってる事が少ないようです。
毎週日曜更新と言いつつ、がっつりずれ込みました。orz