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水面の上の  作者: 犬心
3/8

第2章

        ◆ 2 ◇


 そう、やるからには、徹底的に、ね。


          ◆


「ふあ~ぁ」

 朝、駅のホームで電車を待ちながらあくびを一つ。

 寝不足、というわけではないんだけど、なぜか今朝はいつもより眠い。しこたま眠い。

 人も(まば)らなホームを冷たい風が吹き抜ける。

「ううぅ……。寒……」

 うーむ……きっとこの眠気は寒さの所為(せい)だ。身体(からだ)が、本能が冬眠を求めているのだ。そうだ。そうに違いない。

「ふぁ~~~~あ」

 さっきよりも一段と大きなあくびが出た。

 もしここに栞がいたら、「女子高生が朝っぱらからそんな大あくびしてちゃダメでしょ。そんなの全然萌えないよ」とか何とか言われていたことだろう。でも、今はそばに栞どころか知り合いすらいないから何の問題も――。

「よう。おはよう」

「ひぅっ!?」

 いきなり背後から声をかけられつつ頭に手を置かれて、私はビクッと震えた。

「あ、やっぱ驚いた」

 聞き慣れた声。振り向くと、そこには笑顔の高浜君がいた。

「そりゃ驚くわよ! 背後から気配もなく近づかないでよ! なによ? 忍者なの? 隠密なの? スネークなの?」

「いやー、俺にそんなステルス機能はないはずなんだが……」

 むぅ、と唸りながら、彼は左手で後頭部を掻く。彼は困ったり悩んだりしたときに、よくこの仕草をする。流石(さすが)に二年近くも同じクラスにいると、こういう癖とかも段々分かるようになってくるものだ。私と彼の家は結構近くて、使う駅も同じだから、朝こうして一緒になることもあるし――。ただ、彼はバスケ部の朝練で早く出る日が多いから、ここで会える日はそんなにはないのだけど。

「あれ? そういえば、今日って朝練ない日だったっけ? いつもは火曜日も朝練あったような――」

「んー、そうなんだけど……。今日は、なんつーか、女子に体育館を乗っ取られたんだわ」

 彼は、やれやれ、といった感じで肩を落とす。

「女子に? でも、女子バスケ部だけじゃ持て余すくらいウチの体育館って広いじゃない」

 なにしろ、バスケのフルコート六面分の広さがあるのだ。大抵そのうちの二面はバレーボール部が、二面はバドミントン部が使ってるけど、それでも、残りの二面はバスケ部が使える。女子バスケ部は、確か全員で十七人だから、一面あれば十分な気がする。

「実は昨日の放課後に……」

 高浜君はそこまで言って、「ん? 待てよ……」とか小声で言いながら、何かを考え始める。

「うーん……」

 腕を組んで、真剣に何かを悩んでいる。

「あのー、高浜くーん?」

「おお! そうか!」

 高浜君は突然、犯人が分かった名探偵のような顔で、私に告げる。

「やっぱ教えない」

「なんでさっ!」

 おもわず久しぶりに全力でツッコんでしまった。

 私は当惑しつつ、不敵な笑みを浮かべている彼に尋ねる。

「あのー、あれだけ悩んだ挙句、その回答が『教えない』というのは、どういうことなんですか、高浜祐樹さん……?」

「いやー、その方が面白いと思って」

「はあ?」

 意味が分からない。全然、意味が分からない。

「私に教えないと何が面白いのよ?」

「それはだな――」

 彼は(おもむろ)に自分の左手の腕時計を見ながら言う。

「ま、学校に着けば分かるさ」

「それってどういう意味ー?」

「はは、気にするな」

「むぅ……」

 ――それから電車が来るまでの数分間、ずっと問い詰めてみたけど、結局彼は何も教えてくれなかった。


          ◆


 通学時間というのは、すなわち通勤ラッシュの時間でもあるんだけど、私たちが乗る駅までは結構すいている。とはいえ、席が空いていることは(まれ)で、吊革につかまって行く日が多い。そして、次の駅からどんどん人が乗ってきて、二駅先で誰が見ても完全無欠な満員電車が完成する。

 今日も空いている席はなかったから、私たちは車両端の優先席の前に並んで立った。もうこの位置にいる必要はないんだけど、どうもここにくるのが癖になっているようだ。

 ふと、この電車のこの位置で、彼と初めて会ったときのことを思い出して、ふふ、と笑いが漏れた。そんな私を、彼は不思議そうに見ていたけど、すぐに同じことを思い出したのか、はにかむような笑みを浮かべた。

 ――あれは、今通っている高校の合格発表日の朝だった。

 発表開始時間が午前九時だったから、私が電車に乗ったのは見事にラッシュ時間の真っ只中だった。

 今は全然そんな症状はないんだけど、そのころの私は時々不整脈が出ていた。両親は共働きだったけど、入学試験の日はそれを心配して、母親が仕事を休んで付き添ってくれた。

 その合格発表の日も母親が一緒に来てくれると言ってくれた。でも、症状が出る頻度は減ってきていたし、なにより、合格したら毎日通うことになるのだ。それなのに一人で行けなくてどうする、と私は母親の申し出を断った。

 ところが、電車に乗ってから二駅目を過ぎ、満員状態となった車内で、不意に不整脈に襲われた。

 ――まず、明らかに鼓動が遅くなるのを感じた。そしてすぐに息苦しくなり、そのまま世界が遠のいていくような感覚になった。

「あぁ――――」

 手が吊革から滑りぬけ、そのまま横に倒れそうになったけど、そこは満員電車の中。ほんの少し傾いただけで、隣に立っていた人にもたれかかる形になった。

「ん……? ……あ、あの、大丈夫?」

 その人が動揺しながら声をかけてきた。

 それが、高浜君だったわけだ。

「……大丈夫……じゃないかも……」

 私は少し遠のく意識を引きとめながら、言葉を(つむ)ぐ。

「でも、コレ……たまにあることで……少ししたら良くなるから……」

「そうは見えないぞ! 顔色凄く悪いし――」

 私は目を閉じているから、彼の表情は(うかが)えない。でも、その声から察するに、かなり慌てているようだ。

「……次の駅で降りて……休めば、きっと、大丈夫……」

 どうにかこうにか言葉を紡ぎながら、自分でもかなり呼吸が荒くなっているのが分かる。

「でも、相当辛そうだぞ……」

 そこで、彼は何を思ったか、突然、超真剣に叫ぶ。

「――誰か、この中にお医者様はいませんか!?」

 おいおい。ここは重病人がいる飛行機の中かよ。

 もう声を出すのが辛すぎたから、心の中でそうツッコんでおいた。

 ざわ……ざわ……と、どこかのギャンブル漫画の如く車内がざわめき立つ。

 あー、あんま大事(おおごと)にしないでほしいんだけどなぁ……。

 そう思ったのも束の間。次の駅に着いた。

 私は彼の肩を借りながら、一緒に電車から降りる。そして、すぐそばにあったベンチに腰を下ろした。

「――――――――」

 呼吸を整えながら、高速で伸縮を繰り返す心臓が落ち着くのを待つ。

 彼は私の隣に座って、無言で背中をさすってくれる。

 いや、嘔吐しそうな酔っ払いじゃないんだけど……。

 ――それでも、何か心を落ち着かせる効果があったのか、いつもより早く不整脈がおさまってくれた。

「……ありがと。ずいぶん良くなった」

「そう……か? でも、まだ顔色悪いけど……」

 と、(うつむ)いている私の顔を覗き込んで――。

「うわ。凄い汗」

 言われて、自分の顔が、いや、全身が冷や汗でびっしょりになってるのに気づいた。その所為で、体温がかなり低下しているように感じる。

「――まあ、いつものことなんだけど……」

 自嘲気味に言って、大きく息を吐いた。

「ちょっと待ってろ。今、拭いてやる」

「いや、それくらい、自分で――」

「いいから、じっとしてろ」

「…………はい」

 やっぱりまだ動くのが辛かったから、彼の言葉に甘えることにする。

 彼は水色のハンカチを取り出して、私の顔を優しく丁寧に拭いてくれた。

 なんだか少しこそばゆくて、少し心地よかった。

「こんなもんでいいか?」

「ん――ありがと」

 かなり体調が回復してきたから、彼の方を向いて、言うことができた。

 そのあと、空を仰ぎながら、ボソッと弱音を漏らす。

「――ああ、でもこんなんじゃ、合格してても、毎朝通うの不安だなぁ」

「ん? もしかして、今日合格発表の――」

「そうだよ…………って、もしかしてあなたも?」

「ああ。……なんだ、じゃあ大丈夫だ」

「へ……? 何が?」

「俺もおまえも受かってたら、毎朝一緒に通って、おまえに何かあったら、俺が助けてあげるからさ」

 彼は平然とそんなことを言ってのけた。

「あ、ありがと……」

 言いながら、自分の顔が赤くなってるような気がした。

「……でも、もし私が受かってて、あなたが落ちてたら?」

「ぐぁっ!! 一番あり得そうだけど考えないようにしていたことをっ!!」

 彼は頭を抱えてうなだれる。

「い、いや、大丈夫だよ、きっと」

 咄嗟(とっさ)に根拠のかけらもないフォローを入れる。が――

「あうぅ……」

 彼の心は完全に折れているようだった。

「ほ、ほら、結果なんて見てみなきゃ分かんないんだからさっ。二人とも受かってるかもしれないし、私だけ落ちてるかもしれな……って、それは嫌だー!!」

 今度は私が頭を抱える。

「……おまえ、元気だな」

「や、おかげさまで――」

「…………」

「…………」

 二人とも頭を抱えたまま、横目でお互いを見る。

「……はは。あはははははっ」

「……ふふ。あはははははっ」

 なんだか可笑(おか)しくて、そのまま笑い合った。(はた)から見れば滑稽な二人だっただろう。でも、そのときは本当に楽しかったし、それに、嬉しかったんだ。


          ◆


「――あの頃と比べると、ホントにおまえは頑丈になったよな」

 改札を出て、学校への緩やかな坂を上りながら、高浜君がそんなことを言う。

「頑丈って……。別に間違ってはいないけど、何かもっと良い言葉はないの? こう……例えば『健康』とかさー」

「むぅ……。ん? おおっ!」

 これはまた良い思いつきだ、と言わんばかりに、人差し指を立てる。

「じゃあ、合わせて『頑健(がんけん)』ってことで」

「それだと私が『無茶苦茶強い』みたいに聞こえるんだけど……」

「まあ、いいことじゃないか。頑丈で健康。結構結構」

 なぜか拳を掲げながら言う。

「おかげで俺は何の心配もなく朝練に没頭できるわけだし」

「あー……」

 そういえば、高校一年の始めから数ヶ月、彼はバスケ部の朝練に一度も出ずに、本当に毎日私と一緒に登校してくれた。少し私の顔色が悪かったりすると、彼は優先席に座っているサラリーマンを無理矢理どかせて、私を座らせてくれたりもした。そのおかげで、体調がとても悪くなるようなことはなかったし、少しずつ不整脈も出なくなっていった。七月の頭くらいになると不整脈が出ることはほぼゼロになっていて、全力で運動しても何の問題もなかった。だから彼に、もう付き添ってくれなくても大丈夫だと伝えた。それなのに、彼は「心配だから、一応――」と言って、結局夏休みに入るまでは毎朝一緒に登校してくれた。

「――その節は本当にお世話になりました」

 私はシュタっと敬礼する。

「なんだよ、急にかしこまって。気持ち悪い」

 彼は顔を強張(こわば)らせながら、私から一歩離れる。

「気持ち悪いとか言うなー!!」

 私は頬を膨らませながら、彼に一歩近づく。

「だいたい、おまえが殊勝な態度になるのはほとんどが体調悪いときだから、そういうこと言われると逆に心配になるんんだよ」

「えっ? そう、だっけ……?」

 全く自覚のない私に、彼はグッと顔を近づけてきて言い放つ。

「そうだ。これまでのことをよーく思い出してみろ」

「うーんと……」

 言われるがまま、高校入学時から今までの記憶をトレースする。

「――――あー、確かにそうかも」

「だろうが」

「でも、私だってたまには――――!?」

 反論しようと彼の方を向いて、凄く近くに彼の顔があることに気づいた。

 そりゃもう互いの呼吸が感じ取れるくらいの至近距離だ。

「……………………」

「……………………」

 私は――たぶん彼も――どうしていいか分からず、そのまま固まる。

 おまけになぜか周囲の雑音も聞こえなくなり、時が止まったような感覚に陥る。

 ……ザ・ワールド?

 違うっ!!

 頭の中で謎の葛藤が巻き起こっていた。

「やーやーお二人さん。今日も朝からお熱いではないか」

「ひうっ!?」

「なっ!?」

 突然後ろから声をかけられて、私と彼は瞬時に強力な磁石の同極になったような勢いで離れる。

「うーん、見事な飛び退()きっぷりだねー。ということは、きっと二人はさそり座だなっ。そんなさそり座の二人の今日の運勢は――」

 この無駄にハイテンションで意味不明ことを言っているのは、同じクラスでバスケ部キャプテンの来栖(くるす)(はじめ)。クラスで一番の変人だ。

「俺はしし座だ」

「私……おうし座なんだけど」

 とりあえず私たちは努めて冷静に返答する。が――

「なんと、21点、33点、28点で合計82点のパーフェクトな一日っ!!」

 ――キャプテンは全く聞いていなかった。

「それのどこをどうとったらパーフェクトになるんだよ!」

 相手をしていると疲れそうだから、私はツッコミを放棄する。

 頑張れ高浜君。

「それに、それぞれ何の点数だか全然わからんぞ」

「ふむ。ということは、今日の俺の恋愛運はバラ色だなっ?」

 キャプテンはウインクをしながら言う。その百八十センチ以上ある巨躯(きょく)には全く似合っていない。や、むしろ……キモイ……。

「……頼むから、せめて会話を成立させてくれ」

 早くも高浜君の心は折れかけていた。

「なるほど、なるほど。それにはまず、この数千年後の世界史の教科書のように分厚い言葉の壁を取り払わなければなるまいて」

「薄々勘付いてはいたが、やっぱりお前が喋ってるのは日本語じゃなかったんだな?」

 どうやらコミュニケーション・ブレークダウンが発生していたらしい。

「よしよし、ではエスペラント語で話そうじゃないか」

「無理だっ」

「えすぺらんと?」

 知らない言葉が出てきて、つい口を挟んでしまう。

「どっかの言語学者が作った人工言語だ。人工言語の中では一番使われてるらしいが、この国でエスペラントを話せる人なんて人口の一パーセントにも満たないだろうよ」

「へー」

 私に至っては、話せるどころか、そんな言語があることすら知らなかった。

「ふむ。ということは、今日の俺の恋愛運はバラ色だなっ?」

 キャプテンウインク再び。

「だからどうしてそうなるっ!?」

「いやいや、話が逸れていたから修正したまでさ」

「誰の所為だ、誰の!」

「んー? 佐々岡?」

「わ、私っ?」

 いきなりキャプテンに指を差されてたじろぐ。

「アホだ。こいつ……絶対にアホだ……」

 高浜君は頭を抱えながら言う。

「お前がアホだということは十二分(じゅうにぶん)にわかったから、話の続きをしてくれ。このままでは一向に話が進まない」

「おーけぃ、おーけぃ。そこまで言うのならば仕方ない。今までの話の流れからも分かるようにだ――」

 や、話の流れからは何も分からない、と言いそうになったけど、そんなこと言ったらまた話がややこしい方向へ行きそうだから、私は出かかった言葉を必死に飲み込んだ。

「実は、佐々岡に相談があるのだよ」

「…………え? 私?」

 先の言葉を飲み込むことで一杯いっぱいになっていて、自分に話の矛先が向いていることに気づくのに少々時間がかかった。

「そうだ。佐々岡は清澄栞と親密なようだな」

「え、ああ……まあ……」

 話の流れが掴めず、返事が曖昧になる。

「ふっ。しらばっくれても無駄だぞ。ネタは上がってるんだ」

「ネタ……?」

 そもそも、私はしらばっくれるつもりなんてないのだけれど。

「昼休みに二人で密会したり――」

「一緒に昼飯食ってるだけだろ」

「休日に二人で出掛けて狭いプライベート空間でツーショット写真を撮ったり――」

「それはプリクラだな」

「更には、二人で薄暗い部屋に入り、あーんな歌やこーんな歌を――」

「それはカラオケだ!」

 一つひとつ高浜君がツッコミを入れていく。疲れるだろうに……。

「――そんな都市伝説が」

「都市伝説かよっ」

「む? 学校の七不思議だったか?」

「七つもなかったし、そもそも『不思議』じゃねーよ!」

「まあ、そんなこんなで、佐々岡美月は清澄栞と親密であるというわけだ」

 勝ち誇ったような顔でワハハと笑うキャプテン。

「……分かったから、もう好きにしてくれ」

 あ、高浜君が諦めた。ということは、ここからは私がこの変な生命体の相手をしないといけないのか。……それは何というか、途轍(とてつ)もなく面倒だ。

「そんな佐々岡に相談なんだが――」

 ああ、ようやく話が戻ってきた。

「――清澄と仲良くなるにはどうすればいい?」

「え……………………?」

 あまりにも想定外の質問に私の頭は完全にフリーズした。

 キャプテンはそんな私を真っ直ぐに見据(みす)えて繰り返す。

「だから、清澄と仲良くなるにはどうすればいい?」

「えっ? えっ? なに? 全然話が見えないんだけど――」

 私は助けを求めるように高浜君の方を見るが、彼は小声で「ぼえー」とか言いながら、虚ろな目でどこか遠くを見ている。……どうやら力尽きているようだ。

「だ・か・ら、清澄と――」

「うわっ! 顔が近い、顔がっ!」

 無駄に接近してきたキャプテンから飛び退きながら尋ねる。

「っていうか、なに? なんで急にそんなことを――?」

「ふむ。簡単に言うと、だ」

 そこで彼は思いっきり胸を張って得意げに言う。

「清澄に惚れた」

「…………………………………………はい?」

 私の頭はさっきの二倍くらいの時間フリーズした。

「だから、清澄に惚れた」

 ……………………。

「なぁにいぃぃぃーーーーっ!?」

「なんだとぉぉぉーーーーっ!?」

 私と高浜君は往来の真ん中で同時に絶叫する。

「――ねえ、もしかして、来栖君って――?」

「いや、俺もそれは知らなかったんだが、あの清澄さんに惚れるってことはやっぱり――」

「おいおい、何を二人でヒソヒソ話をしてるんだ?」

「……あの、来栖君って――」

「……なあ、お前って――」

「なんだ?」

「ロリコンだったの!?」

「ロリコンなのかっ!?」

 私たちのセリフは完璧にハモっていた。

 すると、キャプテンは急に神妙な顔になって、小さく頷く。

「……なるほど。哲学的な話か」

「どこがっ!?」

「たとえ同じ年齢だとしても、その容姿が小中学生並の相手を好きになった場合、それをロリコンと言うのか否か。そもそも『容姿』と言っても問題となるのは身長なのか、顔つきなのか、バストサイズなのか――。いや、待てよ、バストサイズよりもむしろトップとアンダーの差の方が問題に――」

 なにやらキャプテンはロリコンについての考察を始めてしまった。そんなことは今考えなくてもネット上の掲示板とかで嫌と言うほど語り尽くされているだろうに。

 だが、キャプテンが真剣に考え込んでいるこの状況は――。

「高浜君、高浜君」

 私は小声で話しかける。

「ん?」

「チャンス、チャンス」

 クイクイと親指で学校の方を指す。

「……ああ、なるほど」

 私たちは小さく頷き合うと、

「せーのっ」

 ダッ、と同時にスタートを切る。

「――つまり、胸の大きさとは、そこに夢が詰まっているかどうかではなく……って、どこへ行くー!? まだ俺の話は終わってないぞー!!」

 叫びながら物凄い勢いで追ってくる。

 うおっ!? 流石はバスケ部キャプテン、瞬発力は伊達(だて)じゃない。

 校門を通ったところで、高浜君が提案してくる。

「二手に分かれよう!」

「了解っ!」

 今にも追いつかれそうになっていて、まともな思考時間がなかったから、即答する。そのまま私たちは弾けるように二手に分かれて逃げる。が、少し冷静に考えてみると――。

「はっ!? いま来栖君に質問されてるのは私だから、追われるのって確実に私じゃん!」

 案の定、キャプテンは迷うことなく私の方へ――。

「まてーい、高浜ー!!」

 来てないしっ!!

 アホで助かった。

「ちょっ、お前の聞きたいことがあるのは俺じゃないだろー!!」

 ああっ! 高浜君が裏切った!

「――はっ!? しまった!」

 と、キャプテンは急ブレーキをかけて、すぐに目標を私に移す。

 でも、今ので随分と距離が開いたから、なんとか逃げ切れそうだ。

「……あれ? でも、いつまで逃げればいいんだろ?」

 キャプテンとは同じクラスだから、今こうして逃げても、あまり意味がないような……。

 いや、考えるな。考えるんじゃない、私!

 とにかく、ホームルームの時間まで逃げきって、有耶無耶(うやむや)にしてやる。

 とはいえ、このまま走り続けるのも正直だるい。

「――だったら!」

 校舎の角を左に曲がり、すぐ右手にある体育館に逃げ込む。

 体育館の倉庫にでも隠れよう。あそこなら、もし見つかっても、なんとか外に出れるくらいの大きさの窓があるから、そこから逃げればいい。

 と、キャプテンから見えていないうちに体育館に入り、そのまま一目散に体育倉庫に駆け込もうとして――。

「ほえっ――――?」

 私の足は、液体窒素にどっぷり()かったかのように、瞬間凍結した。

「し、しおり?」

 なぜかそこには、上下白のジャージを着た栞がいたのだ。

「お? あー、おはよー、美月ー」

 栞は完全に私の方を見ながら、スリーポイントラインの外で軽く足を浮かせてバスケットボールを投げた。

「どったの? こんなとこに来てー?」

 投げたボールの行方(ゆくえ)すら見ずに、私の方へ駆け寄ってくる。そして、なぜか私の前で小さくジャンプして、ちょこんと着地する。それと同時に――。

 ――スパン、とボールがゴールに吸い込まれた。

「美月? どしたのさ、そんな呆気に取られたような顔して――」

「――――」

「みーつーきー」

 栞が私の顔の前でぶんぶんと手を振る。

「あ、あのさ、栞――」

「なぁに?」

「あんた、なにやってんの?」

「あれー? 見て分かんない? バスケの練習だよ。ウチのクラスの女子全員でねー」

「――――」

 絶句している私のことはお構いなしに、栞は笑顔で続ける。

「いやー、美月のクラスも昨日の昼に練習してたんでしょ? ならウチも負けてられないなーと思ってねー。で、どうせやるなら広い方がいいなーと思って、今日はちょっと男子バスケ部の面々には休んでもらったのさー。実力で――」

「……え? 実力?」

「そう、それがね――」

「ねえ、栞ー。女子バスケ部と練習試合しなーい?」

 と、八組の女子が会話に割り込んできた。

「あー、それいいねー。そろそろいい感じに身体もあったまってきたし」

 くい、くい、と身体を左右に捻りながら栞が答える。

「じゃ、また後でねー」

「あ、ちょっと、話がまだ途中――」

 引き留めようとした私の台詞が終わる前に、栞はもうコートの中心まで走り去ってしまっていた。

「足、速すぎ……」

「な? 女子に乗っ取られてるだろ?」

「うわっ!? って、高浜君――」

 体育館の入口付近で一人ぽつんと取り残されていた私の横に、いつの間にか高浜君が立っていた。

「どうして、ここに――? というか、来栖君はどうしたの?」

「ああ、ヤツなら、そこで昇天している」

「は?」

 彼が指さした先を見ると、体育館の外でキャプテンがうつ伏せに倒れてピクピクしている。

 と――。

「ふおぉぉぉっっ!?」

 いきなり奇声を上げて、クネクネ動き出した。

「のああぁぁぁっっ!!」

 クネクネが激しくなる。

「……高浜君、なにしたの?」

「いや、ちょっと、肩こりに良く効くツボを押しただけだ」

 高浜君は変な技能を持っていた。

「……それだけで、あの有様(ありさま)なの?」

「むっほぉぉぉっっ!!」

 クネクネ、クネクネ――。

「よほど肩こってたんだな」

「そんなバカな。あれはただの変態――」

 っていうか、普通にキモい。

「はっは。辛辣(しんらつ)なお言葉なことで」

 ――スパン。

「…………」

 栞のスリーポイントシュートがゴールに吸い込まれていた。

「……そういえば、さっき栞が男子バスケ部に『実力で』休んでもらった、とか言ってたけど、それってどういう意味?」

「ああ、結構前のことなんだけど、そこでクネクネしてる、おまえが言うところの変態が清澄さんにワンオンワンを挑んで負けたんだ」

「よくあることね」

 ありすぎて困るくらいだ。まあ、私に実害があるわけじゃないからいいんだけど。

「まあな。で、その勝負の前にした約束が、『負けた方が勝った方の言うことを何でも一つ聞く』ってやつだったんだ」

「またベタな約束を――」

「でも、勝った清澄さんはずっとその権利を使わなかったんだけど……昨日の夜、来栖ん()に清澄さんから電話があって、いきなり『明日の男子バスケ部の朝練を中止して』とか言われたらしい。で、来栖から男子部員全員に今日の朝練は中止という連絡が回ってきたわけだ」

「なるほど」

 納得だ。納得なんだけど……。

「……あれ? でも、なんでそれを今朝会ったときに教えてくれなかったのさ?」

「んー? だって、その方が面白そうだったから」

 そういえば、今朝もそんなことを言っていたような気がするけど――。

「面白いって……なにが?」

「おまえ、体育館入ってきて驚いたろ?」

「はあ。そりゃまあ……」

「『ほえっ』とか言ってマヌケな顔して固まってたもんな」

「はあぁっ!? み、見てたの!?」

 ボッと自分の顔が赤くなるのが分かる。

「うん。多分ここに逃げ込むだろうと思ったから、先回りして待ってた。いやー、実に面白いものを見させてもらったよ」

 腰に手を当てながら、はっはっはっ、と高笑いする高浜君。

「~~~~っ」

 より一層自分の顔が赤くなっていってるような気がした。


          ◆


「や、やっと追い詰めた……」

 学校の屋上。吹き抜ける北風が、今はオーバーヒートした身体をいい感じに冷却してくれる。

「なんで、私なんかを……」

 逃げ道を失った朱莉が、フェンスに背中を預けて乱れた息を整えながらボソッとと呟いた。

「まったく……この私からここまで逃げ回っておいて、なに言ってんだか」

 自慢じゃないけど、中学の頃は陸上の短距離で学年トップクラスだったのだ。要するに、走りには自信があった。それなのに、朱莉はこの昼休みが始ってから結構な時間私から逃げ続けていたのだ。

「そんな体力とスピードを兼ね備えてる人材を放っておけるわけないでしょうが!」

 ビシッと人差し指で彼女を差しながら、嘘偽りのない言葉を突き付ける。

「今朝、栞のクラスがバスケの練習してるのを見たのよ。したら、あっちには栞以外にも運動神経いいのが揃ってるし、女子バスケ部のキャプテンまでいるわけ」

 他にも、バレーボール部のキャプテン、ソフトボール部のエースピッチャー、テニス部のインターハイ出場者、カバディ部補欠と多士済済(たしせいせい)なメンバーである。というか、カバディ部に補欠がいる状態って、どんだけカバディ部人気なんだろうか……。

「……そう」

 朱莉は私から目をそらして、完全に無関心な声で言う。

「でも、私には関係ない」

「あなたの力が必要なのよ、八組に勝つためには」

「だから、私は別に――」

 彼女の返答には耳を貸さずに、物理的な距離を縮めつつ、まくしたてる。

「朱莉が協力してくれれば絶対に負けない! あの栞がいるクラスに勝ったとなれば、伝説として後世まで語り継がれるかもよ! それになによりアレよ! 八組に勝ったら空閑さんが駅前のあの店のチョコパフェを奢ってくれるのよ! こんな甘くて美味しい素敵な話はなかなか転がってないわ!」

 マシンガンの如く説得の言葉を放ちつつ、朱莉に詰め寄る。

 彼女は一応は私の方を見る。彼女は女子の中ではかなり背が高い方だから、自然、物理的に見下ろされる形になる。そして、いつもの虚ろな目で静かに答える。

「そう……。でも、興味ないから」

「…………」

 冷たい風が、彼女と私の間を通り抜けた。

 低い気温の所為か、彼女の冷たい言葉の所為か、ヒートアップしていた身体と脳が急速に冷めていくような、そんな感覚に襲われる。

「じゃあ……」

 そう言って、彼女は私の横を通り過ぎて行く。

 これ以上、追いかけるつもりも、力尽くで引きとめるつもりもなかった。

 ただ、私は立ち去ろうとする彼女の方へ振り返って、とても冷静に、穏当(おんとう)に、一つの提案をする。

「じゃあさ、ちょっとした昔話を聞いてくれない? 今日は男子も一緒にバスケの練習するとか言ってたから、どうせ今戻っても教室には誰もいないだろうしさ」

「…………」

 朱莉は歩みを止めない。

 それでも、私は続ける。

「まあ、昔つってもそんな昔の話じゃないんだけどね。……ある白くてちっこい万能少女の、中学生の頃の話」

 それを聞いて、朱莉はピタリと足を止める。背中を向けたままだったけど、それで十分。

 私は慎重に言葉を選びながら話を始める。

「中学生のときのその少女ってさ、雰囲気とか態度とかが今の朱莉に凄くそっくりだったらしんだよ」


          ◆


 ――無口、無愛想、無気力。

 それが、白くて小さな少女の印象だったらしい。

 誰と会話することもなく、友達も作らず、授業中もずっと上の空。放課後になればすぐに消えてしまっている。そんな空気のような存在。少なくとも、少女はそうあろうとしていたのだろう。そして、クラスメイトは皆、少女を空気のように扱った。そこにあって、ないもののように。ただ一人の、例外を除いて――。

 彼女には逆にその少女のことが気になって仕方なかったらしい。

 彼女にはそれが意図的なものだとしか思えなかったのだ。

 どうしてそこまでして空気であろうとするのか。

 どうしてそんなに徹底して自分の存在を薄めているのか。

 気になって気になって仕方がなかったのだ。

 でも、それが本当に意図的なものなのか確信は持てなかった。だから、どうにかそれを確かめようとしたけど、とても難儀だった。何度その少女に話しかけても、「ん……」とか「別に……」とかそんな素っ気無い返事しか返ってこなくて、会話をすることすら困難だったからだ。

 そこで、とりあえず彼女は少女を観察することにした。朝、少女が教室に入って来てからずっと――。授業中も休み時間も放課後も。あるときは少女の家まで尾行したこともあった。一歩間違えればストーカーだった。や、間違えなくてもストーカーだった。訴えられたら負けること間違いなしだった。

 少女は彼女がつきまとっていることに気づいているようだったけど、そ知らぬ顔をして無視を貫いていた。

 それが、なんと数ヶ月も続いた。よく飽きなかったものだ。だけど、その間に彼女は幾つかのおかしなことに気づいた。

 まず、体育の時間、女子だけのチーム同士でミニサッカーをしていたときだ。狭いコートの中に十数人もいれば、どんなに運動音痴の()のところにも一度はボールが行くはず。それなのに、その少女は一度もボールに触れなかった。パスされたボールをスルーしてたとか、そんなんじゃなくて、少女はコート内で常にボールが来ない位置に移動し続けていたのだ。彼女と少女が同じチームになったとき、彼女は少女にパスを出してやろうと思ったけど、彼女がボールを持った瞬間から、どんなに探しても少女が視界に入ってこなかった。仕方なく別のチームメイトにパスすると、それまで全く見えなかった少女が視界の隅でスッと移動した。少女はボールを持っている人の死角にずっといたらしかった。それだけでなく、相手チームがボールを持っているときも、どこにいればボールが来ないか分かるみたいで、常に変な位置へ移動していた。

 あと、授業中、少女は教科書も開かず、ノートもとらず、頬杖をついてただぼうっと前を見ていた。教師の話も耳に入っているのかどうかすら怪しかった。それなのに、試験では全ての教科で70点台を取っていた。教科によって数点の差はあるものの、70点未満も80点以上も取ることはなかった。悪くはないが、凄く良いというわけでもない点数。あえてそこを狙っているとしか思えなかった。しかも、授業は全然真面目に受けていないのに、それができていた――。

 彼女は思った。

 その少女は、本当は凄く運動ができて、凄く頭が良いんじゃないか、と。

 なにかの理由で、そのことを隠しているじゃないか、と。

 だとしたら、なんてつまらないことをしているんだろう。

 彼女は人より少し運動ができて、速く走るのが得意。でも、ただそれだけ。勉強は得意じゃなかったし、得意の短距離走も、県で上位に入れる程のレベルではなかった。

 だけど、その白い少女はきっと違うのだ。彼女よりも全然頭が良くて、彼女よりも運動もできて――。それを表に出せば、きっと凄く楽しいに違いない。それはもう嫉妬するほどに。

 じゃあ、なぜその少女は――?

 彼女は考えて、考えて、さらに考えて――。

 そして、考えるのを止めた。

 面倒になったのだ……きっと。

「ねえ、私と百メートル走で勝負しようよ」

「……は?」

 放課後、彼女からいきなりそんなことを言われた少女は目が点になっていた。

「勝負してくれないならー、言い触らしちゃうよ。あなたが天才だってことを――」

「どうしてそ――」

 そこまで言って、少女はしまった、といった顔をして口を(つぐ)んだ。

「ふっふっふっ」

 鎌をかけることに成功した彼女は低い声で笑った。

「じゃあ、一度家に帰って、走りやすい服に着替えて、この地図の場所に来てね」

 そう言って呼び出した場所は、乗用車一台がギリギリ通れるくらいの、人通りもほとんどない静かな路地。

「ここは普段誰も通らないから、思う存分走れるよ。ちなみに、ゴールは大体百メートル先にチョークで線引いといたから」

「……どうして、こんなこと――」

「ま、いいじゃない。これでもしあなたが勝ったら――」

「もう私に関わらないで」

「……分かった。じゃあ、逆に私が勝ったら…………んー、どうしよ。何も考えてなかった。まあ、その時に考えるわ」

「……そう。それで、スタートの合図は?」

「はい」

「……これは?」

「ビー玉。ほら、これを投げてアスファルトに落とせば、音が鳴るでしょ。それが合図」

「ん――」

「はい。あなたの好きなタイミングで投げていいよ」

「……分かった」

 白い少女は小さく頷くと、その小さなビー玉を空高く放り投げた。

 ――結果は、白い少女の圧勝だった。

 タイムで言えば、一秒近くは差があった。

 彼女は泣いた。なんとなく負けることは分かっていたけど、それでも、涙が零れた。

 それは、悔しかったというよりも――。

「――なんで、そんなに、なんでもないような顔してるのさ……?」

「え――?」

「勝ったこと、嬉しくないの? あんなに速く走れて、楽しくないの?」

「……あなたには、分からないよ」

「なにが!? だって、速く走れるのって楽しいし、誰かに勝つのって嬉しいじゃない!」

「……なんでも分かって、なんでもできて、何もかもを誰よりも上手くこなせる。それって、逆につまらなくなってしまうんだよ」

「でも、あなたでも、オリンピック選手とかには勝てないでしょ?」

「そうね」

「だったら――」

「でも、今勝てないだけで、数年かければ、勝てるようになる。それが、明確に分かるとしたら? 普通はそれが分からないから、努力できる。どうすれば出口に辿り着けるのか分からない迷路だから試行錯誤できる。回り道をして、何度も行き止まりにぶつかって――。でも、その過程があるから出口に辿り着いたときの喜びがあるし、過程自体が楽しいのかもしれない。それがもし、出口までが、凄く短い一直線だったら、あなたは楽しいと思える? その出口まで行って、喜べる?」

「本当にあなた、何でもできちゃうんだね……」

「そう。だから――」

「ならいっそ、自分で楽しくしちゃえ!」

「は……?」

「出口が見えてるなら、いきなりそこ指すんじゃなくてさ、自分で分かれ道増やして、行き止まりたくさん作って、目隠しでもして、ついでにぐるぐるバットで千回転くらいしてからスタートすればいいじゃない。んで、ついでに色んな人をあなたが作ったその迷路に巻き込んじゃえば、もっと楽しいよ、きっと」

「――なにその、馬鹿な発想」

 彼女は初めてその白い少女の笑顔を見た。少しだけぎこちなくて、でも、自然と零れた笑顔を――。

「ああ、そうよ。私は馬鹿よ」

 彼女は胸を張って言った。

「でも、少なくとも今はあなより上手く笑える自信がある。本当にあなたが何でもできるって言うのなら、私よりも上手く笑えるようになってみせなさい。私よりも学校生活楽しんでみなさい」

「…………分かった。じゃあ、手始めに――」

 言いながら、白い少女は彼女の手を握った。

「――あなたを巻き込ませてもらうことにするから」


          ◆


 私は、自分でも気づかないうちに閉じていた目を、ゆっくりと開いた。

 すると、ちょうど朱莉がこっちに振り返った。

「――それで?」

「や、別に――。ただの暇つぶし的なお話。うーん……さすがに寒くなってきたし、そろそろ教室に戻ろうか」

 冷え切った自分の身体を両腕で抱きながら、朱莉の横を小走りに、校舎内を目指す。

「体育館――」

「へ?」

 朱莉の言葉に、私はピタリと足を止めた。

「体育館、行かなくていいの? みんなまだ練習してるかもよ」

「んー、私は他にも説得しないといけない人がいるからねー」

「そう。じゃあ、私は先に体育館行っているから――」

「え? え?」

 半ば諦めかけていたのだけど――。

「……勘違いしないでよ。私は単に、あの清澄栞とかいう女が鼻持ちならないだけ。天才だか万能だかだか知らないけど、ちょっと調子に乗り過ぎ。そろそろ誰かがあの鼻をへし折ってやらないとダメでしょ」

「――あ、ありがとう」

「べ、別に、お礼なんて言われる筋合いはないわ。私があの女をやっつけたいだけ。他意はないからっ」

 朱莉は私からあからさまに目をそらしながら早口で言うと、早足で校舎内に消えていった。

 私はそんな朱莉の背中を眺めながら、腕を組んで真剣に考えていた。

 ああいうののを『ツンデレ』と呼ぶのだろうか、と――。


          ◇


 眠りから覚めると、そこは教室の中だった。もっと言うなら、授業中らしかった。

 完全にぼやけている視界を両手でこする。……少し、視界がクリアになった。

 黒板の上の丸い掛け時計を見ると、短い針が一と二の間に、長い針がちょうど八の上にある。これは、えーと……一時四十分か。どうもデジタル時計に慣れ過ぎている所為か、アナログ時計で時間を読むのに少々思考時間が必要だ。脳がまだ半分眠っている所為だという可能性もあるけど――。

 ふと自分の机の上のノートに目を落として、うわ~、と思う。ノートの上の方の文字は普通の日本語だけど、真ん中あたりから徐々に古代の象形文字のように形が崩れていき、下の方では形が崩壊していて、もはや読み取ることが不可能だ。この、限界ギリギリまで頑張りました感から、なぜか切なさを感じる。

 それはそうと……どうも違和感がある。いつもと、何かが違う。変だ。何が――?

 授業の真っ只中に目が覚めたことも変だけど、もっと致命的に、革命的に何かが、変だ。

 うーん、と考えながら、何気なく両手で頬杖をつく。

 ――あれ? 感覚が、近い?

 昨日の夜も感覚が近くなっているような気はしたけど、それ以上に、確実に、自分の頬に触れている感覚が近くなっている。いつもなら、本気で意識を集中しないと感じなかった自分の手の温かさが、今は無意識でもなんとなく、本当になんとなくだけど、感じ取ることができる。

 私にとっての今までの当たり前がほんのちょっぴり当たり前でなくなって、みんなにとっての当たり前をほんのちょっぴりだけ手に入れた、そんな感じ――。それは私にとって嬉しいことのはずなのに、なぜだろう、感じるのは喜びではなくて、小さな胸騒ぎだった。


          ◆


 放課後。私たちはついに千恵ちゃんを射程圏内に収めた。物理的な意味で――。

 さて、後はどうやって千恵ちゃんを懐柔(かいじゅう)……もとい、説得するかだけど。

「ねえ、美月」

 うーむ、ここはやはりあの作戦で――。

「美月ってば!」

「しっ。あんまり大声出すと千恵ちゃんに気づかれるでしょうが」

 隣で場の空気も読まずに私を呼ぶミッチーを小声で(さと)す。

「ここは図書室なんだから、そもそも大声なんか出しちゃダメな場所でしょ」

「そうよ、ここは図書館よ。まぎれもなく学校の図書館の本棚と本棚の間の狭い通路よ。位置的にちょっと暗いわよ。で、どうしてこんなとこにわたしが駆り出されてるのかってことを聞きたいわけよ」

 私の耳元でどすの利いた小声でそんなことを聞いてくる。なぜだろう、小声になった方が怖いよミッチー……。あと、そのサイドポニーを首の動きで揺らしてペチペチ地味に私の顔を攻撃するのを止めてほしい。

「うん。まあ、単刀直入に言うと――」

 私は本棚の本と本の隙間から獲物を睨みながらその理由を告げる。

「私一人では千恵ちゃんを説得できる自信がないからだよミッチー」

「はあ……やっぱりそういう理由か……」

 なにやらミッチーが自分の顔を片手で覆いながら、深い溜息を吐いている。

「ここまで来てそんな分かり切ったことを聞くから悲しくなるのだよ、ミッチー」

「わたしだって聞きたくはなかったわよ。でもね……放課後になるなり、突然拉致られて、口ふさがれたままクラスメイトの尾行に付き合わされて、ここでようやく解放されたと思ったら、自分をここまで強制連行してきたヤツが無言で本の隙間からクラスメイトを凝視してたら、誰だって理由くらい聞きたくなるわよ」

「いいねー。それが若さってやつだね。セイシュンだね。セイシュンなんだね。青い血と書いてセイシュンなんだね」

「青い血って何よ、青い血って! 静脈血!? って、静脈血も別に青くはないしっ」

「うーん、それにしても千恵ちゃんは手ごわそうだなー」

「わたしのツッコミを無視するなっ」

 なにやら隣が騒々しいけど気にしないことにする。

「――というわけで、ミッチー」

「……なによ?」

「千恵ちゃんを、説得してきて」

 首を三十度ほど傾けて、ウインクしながら言ってみる。

「キモイ。そして断る」

 ミッチーは全力で引いていた。

「えー、なんでさー。私的には大サービスしたつもりなのにー」

「そんなサービスはいらん。っていうか、何でわたし一人で行かなきゃいけないのよ。二人で行けばいいじゃない」

「ええー、二対一は卑怯だよー。ほら、空閑さんも言ってたよー。『ぐふっ! ふ、二人がかりとは卑怯アルヨー』って」

「空閑さんに何があったの!? っていうか、空閑さん、『アルヨ』とか言わないし!」

「ちっ。バレたか……」

「バレるっつーの」

「分かったアルヨ。じゃあ二人で説得に行くアルネ」

「美月、頼むからそのキャラで説得しないでよ……」

「あいあい。そんじゃ、行きますか……って、あれ……?」

「ん……? あ…………」

 その時、私たち二人は深刻な事態に気づいた。それは――。

「千恵ちゃん、いなくなってるしっ」

「しまったー。無駄話しすぎたー。ミッチーの所為だぞー」

「八割方あんたの所為だと思うんだけど、気のせい?」

「断固気のせい! 俄然気のせい! それより早く千恵ちゃん探さないと」

「あっ、美月、あそこに!」

「ホントだっ」

 ミッチーが指差す先、図書室の出入り口のドアから千恵ちゃんがこっそり出ていくのが見えた。あれは追わなければ。是が非でも追わなければ。と私とミッチーは、良い子は絶対に真似してはいけない行為――図書室の中を全力疾走――をして、廊下に飛び出した。

「千恵ちゃん、待って!」

 タッタッタッと小走りに逃げる千恵ちゃんの背中を二人で追いかける。と――。

「はうっ!?」

 ステン!

「あ……」

 千恵ちゃんが何もない廊下の真ん中で、見えないロープに足を引っかけたかのようにコケた。それはそれは見事なコケっぷりだった。

 それを見て、私は眉間(みけん)を抑えながら呟いた。

「あー。ツンデレの次は、ドジっ子娘か……」


          ◇


 その夜も私は暇だった。

 それがいけなかったのだ。いや、美月が自分の日記を机の上に出しっぱなしで、しかも、開いた状態で置いたまま寝てしまっているのも原因の一つだと思う。私から「見たい」という好奇心を引き出すには十分すぎるシチュエーションだ。それに、普通に開かれている大学ノートが美月の机の上に乗っていたとして、それが美月のノートということは分かっても、誰がそれを美月の日記だと読む前から分かるだろうか。

 ――などなど、彼女の日記の一部をまた読んでしまったことに対する罪悪感の中和を試みたけど、7対3くらいで、いや8対2くらいで私が負けていた……。大敗だ。大敗なんだけど……、ああ、ダメ、さっき途中までしか読まなかったから続きが気になって、どうしてももう一度見たくなってしまう。

 数分間の葛藤の末、自分の好奇心にも大敗して、結局続きを読むことにした。暗がりの中、小さな卓上スタンドの弱いオレンジの灯りだけで、彼女の今日の日記を途中から読み進める。

 

 ――ちなみに白だった。

 私とミッチーは駆け寄って、千恵ちゃんを助け起こしてあげた。

 私が「八組に勝ちたいから、千恵ちゃんにも協力してほしい」と言うと、彼女は悲しそうな、すまなそうな顔で「私、凄い運動音痴なので――」とだけ言って、トボトボと歩いて行ってしまった。私もミッチーも、彼女を引き留めることは簡単にできた。でも、しなかった。や、できなかった。彼女にかける言葉が見つからなかったからだ。説得する方法に見当がつかなかった。例えば、私たちが彼女に「楽しいから――」とか「千恵ちゃんの力が必要だから――」とか言っても全く説得力なんてないだろう。

 でも、彼女の協力は絶対に必要だ。彼女だからこそできることがある。練習すれば、彼女は大きな戦力になる。球技大会までに練習できるのは明日と明後日だけ。だから、なんとしてでも明日こそは彼女を説得しないと。


 見開き一ページに文字だけがびっしり書かれた今日の日記はそこで終わっていた。

 よくこんなに長い文章が書けるものだと感心する。

 しかし……この千恵ちゃんという娘、何もないところで転ぶなんて、まるで私みたいだ。いやいや、そんな比較は彼女に対して失礼だ。運動能力は私の方が圧倒的に下だろう。運動音痴で私に勝てる人などほとんどいないはずだ。私は普通に歩くときですら、意識の大半を両足に集中させないと、簡単に転んでしまう。

 そう。だからあの日の夜、裸足で川の中に入っていったのは、冷静に考えれば、相当危険な行為だったのだ。でも、あのときに高浜君に会えて――。ん? そういえば、あれはいつのことだったっけ?

 昨日? 一昨日? 一昨昨日? それよりもっと前?

 ……思い出せない。どうやら私は運動能力だけじゃなくて、記憶能力も破綻しているようだ。なんかもう色々と絶望的だ。

 美月の日記を眺めながら思う。

 私も、日記でも…………書く気にはならない、な。

 美月とは全然違う、何も起こらない私の単調な毎日を文章にしたところで――。いや、文章にすらならない気がする。数分悩んだ末に一言書いて終わり、といったところだろう。

 ……虚しい。

 考えていて、この上なく虚しくなった。

 世界から遠ざけられている私。

 世界を遠ざけている私。

 誰からも干渉されず、誰にも干渉しない。

 いや、「誰も干渉できず、誰にも干渉できない」と言った方が正しいか。

 まあ、どちらにしても、これまでにたった一人例外がいたわけだけど。だから、あれは私にとって色んな意味で衝撃的な出来事だったのに、それがいつのことだったかすら思い出せないとは、なんという記憶力だ……。

 ふう、と溜息を吐いて、唐突に思い立った。

 ちょっと外に出てみようかな、と――。


          ◇


 適当な私服に着替えた私は静かに家の外に出た。時刻は二十三時を少し過ぎたところで、親も寝静まっているようだったから、状況的には楽だったのだけれど、身体能力的には大変だった。主に靴を履くという作業が――。

 下駄箱から取り出したのは、いわゆる普通の白いスニーカーだったのだけど、右足の紐がほどけかかっていることに気づいて、歩いている途中でほどけたら危ないと思い、結び目を固くすることにした。……したのはいいのだけれど、私は何を勘違いしたのか、蝶結びの輪になっている部分ではなく、二本がそれぞれ単独で伸びている方を思いっきり引っ張ってしまったのだ。もちろん、紐は綺麗にほどけた。それから小一時間、とまではいかないけれど、手の指先の感覚も遠い私は十五分くらい靴紐と格闘していた。私にとってはちょっとした知恵の輪だった。

 まあ、そんなこんなで見事に出鼻を(くじ)かれた。でも、むしろそれによって「思う存分この夜道を歩き回ってやる」という気分になった。

 外に出ると、街は完全に眠りについていて、人っ子一人いなかった。所々にある街灯が無言で自己主張しているだけ。「閑静な住宅街」という言葉がとてもよく似合っている。

 そんな中をたった一人でぽつぽつ歩く。

 ――ああ、なんというか、とても新鮮な気分だ。夜とか闇とかは私にとって慣れた日常だけれど、この夜の街、外の空気、一人で歩くという行為、そういったものが私の心をフワフワさせる。アスファルトを踏みしめている感覚も凄く遠いし、時折サーッと吹き抜ける風の冷たさも、私の感覚ではあまり感じられないけど、それでも、部屋の中でただ天井と睨めっこしているだけよりは数百倍楽しい。スキップでもしたくなるくらいだ。まあ、そんなことをしたら確実に転ぶだろうけど。いや、むしろスキップなんて高度な技、できる気がしない……。

 それでも、歩き始めたときよりは、気持ち早足になっているようだった。

 ――大した距離ではなかったと思う。適当に歩き廻っていたら、見覚えのある川原に着いていた。

 いつかのあの日と変わらず、さらさらと流れる水の音。私以外誰もいないその場所では、その川の流れる音だけが――。

 タッタッタッタッ。

 ――お、や?

 誰かが軽快に地面を蹴って走る音が聞こえる。こんな夜中にジョギングだろうか? 奇特な人もいたものである。いや、こんな夜中に散歩してる私がそれを言うのは、自分のことを棚に上げているようで、何か違う気がする。

 どうやら、その走る音は私の方に向かってきているようなので、視線をそちらに移すことにする。

「――あ」

「――お?」

 ばったり、という表現が正しいのだろうか。まあ、「まったり」でなければ、「もっさり」でもないことは確かだろう。

「こんな夜中に何してんだ?」

 ジャージ姿の高浜君は見事に自分のことを棚に上げて、シレっとそんなことを言う。でも、よくよく考えてみれば、私が何をしているかなんてことに、さして興味があるわけでもないのだろう。挨拶みたいなもの……というか、会話の糸口、切っ掛けのための一言。例えば私が「ただの散歩よ。そういうあなたは?」とか言えば、話はつながるわけだ。そうか。しかも、単に「何してんだ?」と聞くのではなく、「こんな夜中に」という一言をつけることで、私に「それを言うならあなたこそ何を――?」と聞き返させようとしているのだろう。なるほど、これが(ちまた)で噂のコミュニケーション能力というやつなのかもしれない。深い。実に奥深く、そして興味深い……。

 だけど、ここは()えて――。

「――ただの散歩」

 聞き返さないでみる。

「あ、ああ……そうか……」

 思った通り、彼は言葉に詰まる。私が聞き返すことを想定していたからに違いない。

 私は内心ほくそ笑む。

「むぅ……」

 彼は頭を掻きながら、困っているような表情をしている。これはこれで、まあ面白いのだけれど、このまま会話が進まないのもどうかと思い、続きを口にする。

「それで、あなたは?」

「え…………ん、ああ、ちょっと寝付けなくて、ジョギングを、ね……」

 回答までに少し間があったのは、「なぜこのタイミングで?」とか思ったからだろうか。

「ほら、今朝は朝練なかったからいつもより起きるの遅かったし、午後の授業中に昼寝したりしたから、どうにもこうにも眠くないんだよ」

 私の口数が少ないからか、彼の方からどんどん話てくる。「ほら」とか言われても、私は彼の朝練事情もお昼寝事情も知らな……ああ、朝練がなかったことは美月の日記に書いてあったっけ。それで一緒に登校して、何やら美月が彼にからかわれていたらしかった。つい先ほど読んだばかりなのに、既に色々曖昧になっている……。やっぱり私の記憶はところてんだ。もしくは鶏だ。

「んーと……それで、もしかしておまえも寝付けなくてこんなとこに――?」

「……まあ、そんなところね」

 なんとなく、川の方を見ながら答える。

「ふーん。って、まさか、また川に入ろうとか思ってるんじゃないだろうな?」

 ……なるほど、そう取られたか。でも、流石にあんな危険なことをまたやろうとは思っていない。あれは何と言うか、そう――。

「あれは、一時の気の迷いよ」

「だよなー。こんなに寒いのに川の中に入ろうだなんて正気の沙汰(さた)じゃないよな」

「…………」

 随分と酷い言われようだった。

 でも、もし誰かがそんなことをしてるのを見たら、私だって同じことを思うだろうから、何も言い返せなかったりする。

「さて、俺はもう結構走ったから、そろそろ帰るけど、おまえは?」

「えーと……」

 どうしたものか。そもそも「なんとなく」で出てきたわけだから、もちろん何かしらの目的があるわけでもない。それに、この夜の散歩にはそこそこ満足している。私としてはは十分な距離を歩いたし、それよりなにより、会えるとは夢にも思っていなかった人と、こうして偶然出会えたわけだし。

「うん。私も帰ろうかな」

「じゃあ、家まで送るよ」

 何の躊躇もなくそう言われて、私は目をしばたたかせる。

 私が言葉を発し終えてから、彼の台詞までの間がほぼゼロだった。まるで、答えを用意していたかのように――。いや、実際、用意していたのだろう。あの問いに対する私の答えはせいぜい三つ程度。「帰る」、「まだここにいる」、「もう少し散歩を続ける」の三つに対する答えを私が悩んでいる間に考えておくくらいはできる。これも会話慣れしているからこそなせる業だろう。少なくとも、私には絶対に無理なことだ。

 ――と、私が無言でいた所為か、彼が不安そうな顔をし出した気がする。

「ほ、ほら、夜も遅いし、ここら辺も何かと物騒……かもしれないし……」

 自信はないようだった。でも、私の身を案じてくれているのだと思うと、悪い気はしない。むしろ、率直に言って、嬉しい。

「うん。送ってもらうことにする」

 私がそう言うと、彼は少し笑顔になって頷いた。


          ◇


「――でも、園山さん、興味はあるんだと思うけど」

 家に帰る途中、高浜君に、どうやら美月が千恵ちゃんの説得に苦労しているらしいことについて、さりげなく、それも全身全霊を込めたさりげなさでもって相談してみると、意外な答えが返ってきた。

「だって今日の放課後、バスケ部の練習見てたみたいだったから」

「そう、なの?」

「ああ。俺も練習に集中してたから、どれくらいの時間見てたかまでは分からないけどな。それに、体育館の入口からこっちを見てる彼女に俺が気づいて、目が合った瞬間、怯える小動物のように逃げてったし」

 なるほど。それならバスケに興味があるとも考えられる。でも、それ以外の可能性がもう一つ――。

「バスケ部に好きな人がいるから見てた、という可能性もあるんじゃない?」

「おお、その線があったか」

 思いつかなかった、と感心している。

「でも、それならそれでいい説得材料になるんじゃないか?」

「うん?」

 説得材料?

 私が不思議そうな顔をしているのを見て彼は話を続ける。

「園山さんがバスケ部の誰かを好きなら、その人を聞き出して、『その人にバスケ教えてもらえるよ』とか言うか、もしくは、その人自身に園山さんにアプローチしてもらうか」

 確かに、それはいい手かもしれない。でも、それには大きな壁が二つほどある。

 まず一つ目。

「もし、バスケ部に千恵ちゃんの好きな人がいるとして、どうやってそれを聞き出すの?」

「あー、それは、なんかこう……気合いで?」

 二つ目。

「もし、バスケ部に千恵ちゃんの好きな人がいることが分かったとして、その人が千恵ちゃんのこと好きじゃなかったら?」

「あー、それは、なんかこう……強引に?」

「…………」

 無責任極まりなかった。

「でも、このタイミングでバスケ部の練習見てたってのは、好きな人がいるというよりは、彼女もみんなと一緒にバスケやってみたいんじゃないかな。今まで彼女がバスケ部のこと気にしてたことなんてなかったと思うしさ。ただ、何か理由があって、どうしても踏み出せないとか――そんな感じなんじゃないかと」

「……どうして、そう思うの?」

「んーと……勘?」

 適当極まりなかった。

「踏み出せない理由……ね」

 私程ではないにせよ、極端に運動神経が悪い千恵ちゃん。

 もし、もしもの話だ。もし私が千恵ちゃんの立場だったとしたら、どう思うだろうか。クラスメイトと一緒にバスケをやる。一緒に練習して、球技大会で優勝を目指す。それは、まあ、楽しそうなことではある。あるのだけれど――。

「――ん? ああ、なるほど、そういう――」

「ん? 何か分かったのか?」

「うん。まあ……」

「そっか。それなら、安心だな」

「…………」

 安心、か。

 実際のところ、全然そんなことはないのだけれど。

 問題は山積みだ。

 このことを美月にどうやって伝えるか。いや、伝えるべきかどうかさえ――。

 悩みながら、澄んだ夜空に瞬く星を見上げて思った。

 美月は今、どんな夢を見ているんだろう。

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