第1章
◆ 1 ◇
どうせなら、最初から最後まで楽しい方がいいでしょ?
◆
「寒い」
私の頭の中はその一語で埋め尽くされていた。まだ十二月が始まったばかりだというのに、今朝の天気予報で見た予想最高気温は八度だった。今日の最高でそれなんだから、太陽が昇り始めたばかりの今なんて、きっと五度以下だ。
「ありえない……」
そんなちょっとした呟きで口から洩れた息でさえ真っ白だ。
今からこんなに寒かったら一月や二月はどうなってしまうのか。きっと氷河期がくるに違いない。そして人類は滅亡するのだ。そうなる前に冬眠でもして――。
「おっはよーっ」
パコン!
「ぐへっ」
いま最高に無防備で冬眠に入ろうとしていた私の脳細胞たちが、背後からの一撃によって瞬間的に覚醒し、それと同時に、大量に死滅した。
「こらこら。女子高生が『ぐへっ』とか言っちゃダメでしょ。そんなんじゃ、全然萌えないよー」
振り返ると、そこには明らかに失望しましたという顔で首を横に振っている栞がいた。
「……女子高生がいきなり背後から友人をしばくのもダメでしょ」
私は後頭部をさすりながら反論する。
「やー、美月が朝っぱらからリュウキュウニセスズメみたいに辛気臭い顔をしてたもんだからついねー」
「リュウ? スズメ? ……鳥?」
「魚よ。スズキ目、メギス科の、お・さ・か・な♪」
言いながら、栞は白ウサギのようにぴょこんと私のとなりに並んで歩きだした。
なぜただのウサギでなく白ウサギと思ったのか――。理由は簡単。栞は白いコートに白いマフラーに白い手袋、おまけに白い毛糸の帽子までかぶっている。ついでに肌もかなり色白だったりする。
今更ながら改めて思う。
なんだコイツは?
「雪景色の中に置いたら完全に同化しそう……」
「それなら、狙われなくて済むね」
「誰に?」
「さあ?」
栞は小首を傾げてとても不思議そうな顔をする。不思議なのはこっちだというのに――。
「あのさ……思いつきで何か言うのやめてくれない?」
「美月知ってる? 天才ってのは九十九パーセントの才能と一パーセントの閃きで出来てるんだよー」
「才能の割合多っ。てか、努力はどこいった? 努力は?」
「努力ぅ? それは赤道直下のダウンジャケットみたいなものだねー」
「必要ないってか!? 努力なんか不要ってことなのかっ!?」
私は涙ぐみながら栞に掴みかかって、ゆさゆさと前後に揺らす。
「そ、そんな泣かずとも……」
栞は困っているような、実はそうでもないような微妙な顔をする。
「この非凡人めっ」
吐き捨てるように言って、栞を放す。
栞は、にはは、と笑いながら私の所為で乱れたマフラーを直している。
――清澄栞。自称、万能少女。ふざけていると思うが、それが本当なんだから仕方がない。
まず、栞は異常なほどの記憶力を持っている。写真記憶とか映像記憶とか呼ばれる能力を生まれつき持っていて、見たものすべてを細部まで写真のように記憶できるらしい。しかも、一度記憶したものは絶対に忘れないとか……。だから栞は試験では常に満点を取っている。それだけでも凄すぎるというのに、他にも絶対音感とか天才的な絵の才能とかも持っている。その上、驚異的な運動神経まで持ち合わせているのだから、もはや手のつけようがない。
私も運動、特に短距離走には自信があって、中学のころ、陸上部内でトップクラスのタイムを持っていたくらいだ。その私に、栞は百メートル走で一秒近くもの差をつけてゴールした。もう私のプライドとかアイデンティティとかそこらへんのものがズタボロだった。おまけに、栞はルックスもかなり良い。美人系ではないが、可愛い系だ。身長は低くて細身だけど、それも可愛い顔と相まって、その小動物的な愛らしさを増幅している。こんな栞を好きになるような男はきっとロリコンに違いない。
などと考えながら、彼女の顔をしげしげ観察していると――。
「――んにゅ?」
首かしげて『んにゅ』とか言うしっ!!
そうだ、栞は時々こんな風に謎の言葉を発する。しかも、その一つ一つが、女の私ですら『キュン』となってしまうような、凄まじい破壊力を持っている。
「……栞……それ、狙ってやってるでしょ?」
私は若干めまいすら感じながら問う。
「んー、何がー?」
マフラーの先についている白いポンポンを指先でクリクリしながらしらばっくれる。
こんな仕草も憎らしいほど愛らしい。
――ハッ!? ダメだ。このままだと私、ロリコンになってしまう。
私は両手で頭を抱えて、ダメな方向に行こうとしていた脳を必死に正常に戻そうとする。
ダメだぞ私! がんばれ私!
「あのさー、美月。お取り込み中悪いんだけど――」
「……何?」
「このままだと私たち、遅刻するよー」
「……………………」
私は自分の鞄からケータイを出して時間を見る。
「……………………」
――あと三分。
「なるほど。どおりで周りに私たち以外の学生がいないわけね」
「あはは。そーだねー」
「…………」
「…………」
「全力ダッシュ!」
「えぇー!? 走るのー?」
とか言いながら、ぴったり私の後についてきている。
「めんどーだよー。歩こうよー」
などとぬかしながら、余裕の顔で私の横を走っている。
――私はあまりの遣る瀬無さに、ちょっと泣きそうだった。
◆
校舎内に飛び込むと同時にホームルーム開始のチャイムが校内に鳴り響いた。
うちのクラスの担任は大抵このチャイムが鳴ったときには教室にいて、出席確認をする。それも一人ずつ名前を呼ぶなんていう生温い方法じゃなくて、ざっと教室を見渡し、空いている席の生徒を『欠席』にしてしまうという慈悲のカケラもない出席確認方法なのだ。
「……終わった」
これで出席簿の私の名前の欄には「欠」の一文字が書き込まれることだろう。
まあ、一限の授業の先生に言えば「遅」に変えてくれるからいいんだけど……いや、遅刻もよくはないか……。
「残念だったねー」
と、うなだれる私の顔を笑顔で覗き込んでくる栞。
「いいよねー、栞のクラスは由実先生だもんねー」
「んー、そうだねー。由実先生は寛容だからねー」
そう。栞と私はクラスが違う。去年は一緒のクラスだったけど、今年は栞が八組、私は二組だ。
八組の担任の野中由実先生はホームルームが終わるまでに教室に入れば遅刻ではないという素敵な思想をお持ちの先生だ。八組の生徒が羨ましくてならない。
「ま、そうは言っても、連絡事項とかがないと、さすがの由実先生もすぐに帰っちゃうから、あんまり悠長にはしてられないんだよー。私のクラスは四階の一番奥だし――。ってことで、じゃあまたねー」
そんなことを言いながらも、全然急ぐ素振りなんて見せずに、ぴょこぴょこと四階へ上って行った。……本当に白ウサギみたいなやつだ。
――さて、私のクラスは三階の階段から一番近い位置にある。というか、栞の背中を見送ったこの体勢から右向け右をすれば、正面に私のクラスのドアがあったりする。そんでもって、そのドアの向こうでは担任の森広先生が嬉々として私を欠席扱いにしているのだ。
「………………」
想像するとちょっと悲しくなる。でもまあ、自業自得なわけだし、こんなところで立ち止まっていても仕方ないから、何食わぬ顔で教室に侵入しよう。
と、ドアに手をかけようとしたところで、ドアの方が勝手に開いた。
「い、いつの間に自動ドアに――!?」
「そんなわけないだろ」
右手をドアの方に伸ばしたまま固まっている私の正面に呆れ顔の高浜君が立っていた。
――高浜祐樹。身長は私より頭半個分くらい高く、若干痩せ型の体型。バスケ部のレギュラーでポイントガードだ。一年のときから同じクラスで、なぜか私と彼はしょっちゅう席が近くになるから自ずとよく話をしている。
――で、そんな彼は明らかに「なにやってんだコイツは」と言わんばかりの目で私を見ている。
うん。困った。困ったよ。こんなときは、こんなときは……そうだ、まずは朝の挨拶だ。
「オーイェ! グッモーニンッ」
我ながら完璧な発音だった。ネイティブの発音すら凌駕してしまっていて、逆にネイティブには伝わらないくらいに完璧な発音だった。
「……なぜ英語だ」
だけど、彼は怪訝そうな顔で私を見てくる。
どうやら英語はお気に召さないようだ。
「じゃあ、ブオンジョルノー」
「なぜにイタリア語?」
「アンニョンハセヨ」
「だからといって韓国語にされても……」
「って、じゃあ何語なら満足なのさー!?」
「そんなむくれるなよ……。つーか、普通に日本語でいいだろ、日本語で」
「日本語!?」
「なぜ驚く?」
「えっと……日本語の朝の挨拶って、なんだっけ?」
「アホか! 『ボンジュール』に決まってるだろ!」
「あー、そうだったね。ボンジュール♪」
「おう。ボンジュール♪」
「……………………」
「……………………」
私と彼は笑顔で向き合ったまま数秒固まった後、シンと静まり返っている教室の中に向かって二人で同時に「誰かツッコんでよ!」と叫んだ。
「……………………」
「……………………」
しかし、世の中というのは無情なもので、待てど暮らせど反応は皆無だった。
完全に無視だった。
完璧に黙殺だった。
私は泣きそうだった。
「――世知辛い世の中になったものねー」
「まったくだ」
彼が腕を組んで深く頷きながら同意する。
「はぁ……。あんたらの夫婦漫才に横からツッコミを入れられるツワモノなんているわけないでしょ」
一番前の席で私たちのやり取りを今日の外気よりも冷たい目で見ていた相沢美智子、通称ミッチーが呆れた声で言ってくる。
「夫婦じゃない!」
と叫んだ私を完全に無視して高浜君に話かけるミッチー。
「そんなことより、高浜君、もっと大事な話があるでしょ」
さすがミッチー。見事なスルーっぷりだ。
むーっとむくれてみたけど、ミッチーはこっちを見ようともしない。
「もっと大事な……? ああ、ノルウェーとスウェーデンはどっちが西でどっちが東かよく分からなくなるという…………ああ! 痛い、止めて! プラスチック製の筆箱の角で脇腹をグリグリしないで! 地味に痛いから! ごめんなさい!」
なぜか微妙に説明口調で痛がりながら謝る高浜君。
私もミッチーのあの攻撃は何度か受けたことがあるけど、本当に地味に痛い。
「はぁはぁ……」
彼はわざとらしく息を乱しながらミッチーと距離を取る。
「それで、大事な話って何?」
さすがにこれ以上ミッチーに無益な殺生をさせるわけにもいかないから、私から話の軌道を修正する。いや、彼、生きてるけど……。
「それに、珍しく先生がまだ来てないみたいだけど……」
そう。時間にだけはうるさい森広先生がまだ教室内にいない。というか、先生がいる前で今までの一連のやり取りを行えるほど私たちは大物じゃない。それにもし先生がいたら、相当序盤――「アンニョンハセヨ」あたり――で先生のツッコミが入っているはずだ。
「そのことなんだけど……」
と、高浜君が私の方に向き直って言う。
「おまえが来る五分前くらいに校内放送で森広先生から呼び出しがあってね」
「呼び出し?」
「うん。『二年二組の佐々岡美月は十分以内に家庭科室に来るように。以上』だ、そうだ」
「……………………」
「……………………」
「私がここ来てから何分くらい経った?」
私のその問いに、彼は少し逡巡した後、とても言いづらそうに。
「……まあ、かれこれ、五分くらいじゃない?」
「……高浜君、五分+五分=?」
彼は私からおもいっきり目をそらして小声で答える。
「……十分です」
「……………………」
「……………………」
「高浜君のブァカー!!」
私は涙ぐみながら家庭科室へ向かって走り出した。
「ええっ!? お、俺の所為?」
「まあ、半分はねー」
必死に走る私の後方で、高浜君とミッチーのそんな会話が聞こえた。
◆
「す、すみません! 遅くなりました」
全力で走り、息も絶え絶えになりながら、家庭科室に到着した。
「三分の遅刻ですね」
と、私のクラスの担任であり数学教師の森広誠治先生は、シャープな黒フレームの眼鏡を右手の中指でスッと直しながら言う。これは先生の癖みたいなもので、別に眼鏡がずれていなくてもよくこの行動を取っている。
相変わらず眼鏡の似合う好青年といった顔立ちの人だけど、実際は今年で三十歳だから、もはや「青年」ではない。そんな外見のためか、一部の女子生徒からは絶大な人気があったりする。私も一年の初めのころは良い先生だなーとか思ってたんだけど……性格が、なんというか性格がアレなのだ。別に性格が悪いというわけではない。でも、性格が、変だ。なんというか、こう……変、なんだ。
「遅刻したのでペナルティです。今日の数学の授業であなたに三回当てます」
「あぅ……」
数学は苦手なのに……。
「チョークを」
「チョークを!?」
「ははは、冗談ですよ」
笑顔が、笑顔が爽やかすぎる……。
「そんなことより、これを見てください。僕の渾身の作品です」
そう言って、私に見せてきたのは、家庭科室内で一番大きな先生用の机からもはみ出すほどの大きさの紙に書かれた、巨大な――。
「――あみだくじ……ですか?」
「そうです。これで今週末にある球技大会の参加種目を決めるんです」
言われてよく見ると、縦線はうちのクラスの人数分あって、その先には今週の金曜に予定されている球技大会の種目が書かれている。
「……先生、いろいろ聞きたいことがあるんですけど」
「なんですか? 教室にみんなを待たせているんですから手短に」
「はい。ええと、まず、なんでこんなに大きいんですか?」
たかが三十人分のあみだくじを作るなら、ここまで大きな紙でなくても余裕でできる。これでは紙が大きすぎて、極太のマジックで線を書いているにもかかわらず、線と線の間に相当な幅がある。
「これはですね、教室の黒板と同じサイズにしてみたんですよ」
「なぜ!?」
「その方が……迫力があるでしょう?」
「そ、それはそうですけど……」
「これの長さを測るのに家庭科室のあの一メートル物差しは重宝しました。恐らく、ぴったり黒板サイズのはずです」
そんな理由で家庭科室にいたのか、この数学教師は……。
「え、えーと……あと一つ聞かせてください」
「はい、なんでしょう?」
「どうしてあみだなんですか? みんなの希望を聞いて、それぞれが出たい種目に出た方がいいんじゃないですか?」
「ふむ……それではつまらないじゃないですか」
「え? それはどういう――」
「例えば、サッカー部の人ばかりが、この球技大会のサッカーに出たとしましょう。うちのクラスも、別のクラスも、です。そうなれば当然レベルの高い試合になるでしょう。でも、それではただのサッカー部の紅白試合じゃないですか。それでは面白くない。そんなものは部活でやればいいんです。これは球技大会。もちろん、勝ち負けに拘るなとは言いません。でも、普段部活ではやっていない種目や苦手な種目に出るのもまた一興――。そうは思いませんか?」
「た、確かに……」
先生の妙に説得力のある言葉に、私は完全に納得させられた。
「わかっていただけましたか。それでは、よろしくお願いします」
「……え? 『よろしく』って……何をですか?」
「このあみだの紙を教室まで運ぶのを手伝ってください。そのためにあなたを呼び出したんですから」
「ああ、なるほど……」
私は学級委員長だから、こういう雑用に駆り出されるのは日常茶飯事なのだ。まあ、実はその学級委員長もあみだくじ――そのときの紙は普通のA4サイズだったけど――で決められたものだったりする。あのときは本当に運が悪かった。
でもまあ、今回は特別苦手な球技があるわけじゃないから、私はどの種目になっても構わないけど……。
――ああ、よく考えると一つだけ苦手、というか、あまりいい思い出のない種目がある。ドッジボールだ。小学生のころ、よく昼休みにクラスのみんなでドッジボールをしていた。私はボールを取るのが苦手で、コート内を逃げ回っていた。すると味方が全員当てられて、残った私一人が集中砲火を浴びせられた。でも、避けるのだけは無駄に得意だったから、全然当たらないのだ。そして、昼休み中ずっとコート内を曲芸じみた動きで逃げ回るハメになって、正直しんどくて仕方なかった。そんな、どちらかというと嫌な思い出が――。
そんな回想に耽りながら、先生と一緒に教室へ戻り、クラス全員であみだをやった。
私は、ドッジボールだった…………。
◆
うちの高校なぜかはこんな寒い時期に球技大会がある。開催日は四日後。寒いときこそ運動して身体を温めよう、という趣旨らしいけど、寒さにすこぶる弱い私はその考えにあまり賛同できなかった……去年は――。そう、『去年は』だ。去年の私は、そんなことするより暖房をガンガンきかせた教室でぬくぬくしてるほうがよっぽど温かいじゃんか、とか思っていた。だがしかし――!!
「今年の私はやる気に満ち満ちてるわよー!!」
「貴重な昼休みにクラスの女子全員をこんなとこに集めた上に、いきなり意味のわからない絶叫をありがとう」
「やー、どういたしまして」
「今のは思いっきり嫌みなんだけど……」
ミッチーは呆れた顔をして溜息を吐いている。
見渡すと、集めたクラスメイト全員がミッチーと同じような顔をしている。
「どうしたミッチーとその他大勢。今からそんなことではヤツらには勝てないぞヤツらには!」
「ヤツらって……誰よ?」
「八組の連中に決まってるでしょ」
意味もなく胸を張って答える。
「八組って……もしかして球技大会のアレ?」
「そう! クラス対抗バスケットボール大会!!」
私は声高々に宣言した。
――クラス対抗バスケットボール大会。球技大会の日の午後に行われる目玉種目。その名の通りクラス対抗でやるバスケの試合で、トーナメント形式だ。ちなみに男女別で、男子の部が先に、女子の部が後に行われることになっている。
この試合のルールが多少特殊で、誰も覚えられないからか、『クラス対抗バスケットボール大会公式ルールブック』なるものが存在していて、そのページ数は二十を超えている。確実にそのすべてを覚えているであろう白い人物が一瞬頭をよぎったけど、それは考えないことにする。――で、なぜかこのルールブック、改定に改定が繰り返され、現在第七版だそうだが、それもまあ細末なので置いておこう。ともかく、そのルールブックによると大まかなルールはこうだ。
●試合時間は前半十分、後半十分、ハーフタイムは三分
●人数は五人対五人
●選手交代の回数は自由
ただし、
・コートに入った選手は三分間は交代できない(怪我をした場合などを除く)
・コートから出た選手は三分間は交代できない(ハーフタイムの三分は含まれない)
・同じ選手が十分間以上交代しないでコートにいることはできない
・クラス全員が一度はコートに出ないといけない(怪我人や病人などを除く)
――で、この選手交代のルールが厄介なのだ。このルールの所為でバスケの上手い人がずっと試合に出ていることはできない。その反対に、どんなに下手な人でも最低三分は試合に出ないといけないわけだ。
うちのクラスの女子は十四人。つまり、五分ごとに五人が交代すれば、十五分で全員コートに出ることになる。でも、上手い人は最初から十分出て、ハーフタイムで交代して、後半開始後三分経ったらまたすぐに交代して――。
「――なんて作戦を私は三日三晩夜しか寝ずに考えたわけよ!」
「夜、寝てるじゃん」
「で、ついに私はたったひとつの冴えた作戦を思いついたわけよ!」
「……わたしのツッコミはスルーなわけね。なんなの? 今朝の意趣返しなの? ねえ?」
隣でミッチーが何やらごちゃごちゃ言ってるけど、気にしない。
「そして、その作戦というのは――――」
ここで私はとても大きなタメ――「それでは、この七百五十万円には戻れません」と言って小切手を破った後の司会者のようなやつ――を作り、両手を大きく広げて一言。
「みんなが上手くなって、みんなで戦って、みんなで勝てばいいのよ!!」
キマッた。
場を静寂が支配する。
そして、すぐに大喝采…………とはならなかった。
ほぼ全員が、ぽか~んとした顔をしている。
ただ一人、私から少し離れたところにいた岡島涼香――本名の読み方は「すずか」なのに、なぜか「リョウ」とか「リョウちゃん」とか呼ばれている――が目を輝かせながら駆け寄ってくる。そして、そのまま私に怒涛の勢いで抱きついてきた。
「美月ぃーっ!!」
「うわっ!?」
「それよ! 私が待ってたのはその言葉なのよ!」
「痛い。痛いから離れて!」
私より頭一つ分くらい背の高いリョウちゃんに強く抱きしめられて足が少し宙に浮いている。
「美月ー!!」
「耳元で人の名前を叫ぶなーっ」
とにかく、早く離れてほしい。
「ビューティフルムーン!!」
「人の名前を勝手に英語にするなっ!」
そんな呼ばれ方は初めてだ。
「愛してるぅー!!」
「愛すなっ!!」
私にそんな趣味はないっ!
そこでようやくリョウちゃんは私を解放してくれた。
見ると、クラスメイト達がさっきよりも呆れた顔で私とリョウちゃんの方を見ている。
リョウちゃんもそれを見て、少しばつが悪くなったのか、こほん、と小さく咳ばらいをして、取り繕うように言う。
「わ、私も美月の意見に賛成。八組にだけは……いや、まどろっこしい言い方は止め! 八組の清澄栞だけには負けられない。でも、私一人の力じゃ栞には勝てない。だから、みんなも協力して。お願い! このとおりっ!」
リョウちゃんは顔の前で両手を拝むように合わせる。彼女も私と同じくらい、いや、たぶん私以上に、栞に打ちのめされた経験があるんだろう。
もちろんリョウちゃん以外にも、スポーツや勉強で栞に勝負を挑んで、完膚なきまでにやっつけられた人は何人も、いや、何十人もいることだろう。
――栞は高校入学直後から『万能少女』として有名だった。彼女の才能はスポーツや普通の勉強にとどまらず、料理や裁縫、美術や音楽、チェス、将棋、麻雀、テトリス、モノポリー……どれをやらせても常人を遥かに超えた実力を発揮する。そんな噂を聞きつけて学校中から様々な分野の猛者たちが栞に挑戦して、そして例外なく敗れていった。
なぜそんな噂が入学直後に流れたのか――。
そんなのは簡単だ。栞自身が言ったのだ。入学式の後、教室での自己紹介のときに胸を張って、私は万能だ、と。そのとき同じクラスにいた私は、今でも彼女の衝撃の自己紹介のセリフを一言一句覚えている。
「清澄栞です。血液型はA型。身長は144センチ。別に誰も興味はないだろうけど、上から68・51・70。……それと、ここからが大事なんだけど、私は、万能です。勉強でも、運動でも、ゲームでも、その他なんであっても、私に勝てる人はほとんどいないと思います。まあ、そんな感じなんで、よろしく♪」
身長を言うくらいならわからなくもないんだけど、なぜいきなりスリーサイズを公開したのか。スリーサイズを公開しておきながら、なぜちゃっかり体重だけは公開しなかったのか。いや、そんなことより、なぜ自分が万能だと公言したのか。しかも、それにとどまらず、『私に勝てる人はほとんどいない』などと挑発じみたことを言った上で、『よろしく♪』と最高の笑顔で言っていた。本当にあの白いヤツの考えていることはわからない。
その後、栞はいろんな人の挑戦を受けては、ことごとく打ち負かしていったわけだ。でも、彼女は、その真っ直ぐな性格と、どこか憎めないキャラのお陰で嫌われたりすることはなく、むしろ、かなりの人気者になった。
とはいえ、彼女に挑戦するような人たちは基本的に皆負けず嫌いなわけで――。
「栞か……」
「確かに、あの娘に勝ついいチャンスかもしれない」
「差しでの勝負じゃないってのがちょっと不服だけど……」
「でも、一度くらいは何かで勝ってみたい……よね」
――ほら、もう何人かの闘志に火がつき始めた。
「よし、いっちょやりますかっ!」
「うん。私も協力する」
「私もっ!」
「そうこなくっちゃ!」
数人がやる気を出したのを見て、リョウちゃんがパチンと右手の指を鳴らす。
だけど、もちろん全員がやる気になってくれたわけではなく……。
「えー、面倒ー」
「私、バスケ苦手だからパス」
「私も抜けさせてもらうわ。あー、もちろん本番は出るけどねー」
「わ、わたしも……」
などと口々に言って、約半数の人たちは私の横を通り抜けて体育館の出口に向かって歩いて行く。
「あ、ちょ――」
と、私が彼女たちを引きとめようと振り返った瞬間。
「ちょっと待ったあぁーーっ!!」
彼女たちが出ていこうとしていた体育館後方の出入り口で、クラスメイトの女子で唯一この場にいなかった空閑晴河が仁王立ちして、叫んでいた。
「教室に行ってもだーれもいねぇから、みんなしてどこ行ったのかと思えば、こんなとこで何だか面白そうな話してんじゃねぇか」
空閑さんはその場で靴を無造作に脱ぎ捨てると、ズカズカと私たちの方に歩いてくる。
「なんだなんだ、八組をバスケでやっつけようって話か?」
いま来たわりには意外と話の流れを掴んでいる。
「今度の球技大会のアレだろ?」
というか、ほとんど話を把握している。
……この人は一体いつから聞いていたんだろうか?
「そんな面白い話にアタシを参加させないっつーのはどういうことよ? なあ、ミツキンよ」
そんなことを言いながら、恨めしそうな顔で私を見てくる空閑さん。
ちなみに私のことを「ミツキン」なんて呼ぶのは彼女だけだ。私は構わないのだけど、微妙なあだ名だとは思う。……まあ、それはさて置き。
「や、別に参加させなかったか、そういうわけじゃなくて――」
「いや、みなまで言うな。わかっている、わかっているとも、ミツキン。つまり、アタシが遅刻して、昼休み入ってから登校したのが悪かったわけだろ?」
「その通りだ、このドアホウ!」
私の後にいたリョウちゃんがそう言いながら、スタスタと空閑さんに迫り、グリグリと彼女の頬をグーで撫でる。
「痛ひ――。いきなり何をする、リョウ」
「あんたねー、出席日数ヤバいのわかってる? このままだとホントに留年よ」
と、リョウちゃんが両手を腰に当てて空閑さんを咎める。
「わかってるよ、そんなこと……。でも、うちの担任さあ、ちょっとでも遅刻すると欠席扱いにするじゃんか? だから、ちょっと朝寝坊して『あー、微妙に間に合わねぇ』って思うと、つい二度寝しちまうんだよなー」
「担任の所為にしない!」
「ハイハイ。善処しますよー」
空閑さんは茶色に染めた少し癖のあるショートヘアを弄りながら適当にリョウちゃんをあしらう。リョウちゃんはリョウちゃんで「――ったく、あんたはー」などと言いながら半ば諦め気味だ。なんだかんだでこの二人は仲がいい。二人ともバスケ部だし――。
「さて、そろそろ本題に戻ろうかっ!」
空閑さんは圧倒的に自分に不利な空気を振り払うように言うと、彼女の登場で出て行くに出て行けなくなり、立ち止まって彼女とリョウちゃんのやり取りを傍観していた数名のクラスメイトの方に向き直る。
「なんだね、キミたちはー? こんな面白そうなイベントが目の前に転がっているというのに、参加しないとでも言うのか? もしかしたら、ここで頑張るとフラグが立つかもしれんよ、フラグが」
「フラグ?」
「そう。例えば、シュートしたボールがたまたま通りかかったイケメンに当たって、『ああ! ごめんなさい!』『いやいや、大丈夫だよ。それより、シュートなら俺が教えてあげようか?』『は、はい。お願いします』となって、そこから二人の恋が始まったり――」
「ねーよ!」
リョウちゃんが間髪入れずにパコンとツッコミを入れる。
「じゃあ、走っていて足を滑らせて転びそうになったところを、たまたま通りかかったイケメンに助けてもら――」
「だからねーよ! そもそも、こんなとこを『たまたま通りかかるイケメン』なんていないだろ」
「ったく、リョウは本当に夢がないなー。そんなんだからいつまで経っても彼氏ができないんだぞ」
「いや、私、彼氏いるから」
「なにーっ!? 聞いてないぞ、そんなこと!! いつ、どこで、誰から寝取った!?」
「人聞きの悪いことを言うなっ!」
「あのー、お二人さん……」
私は、完全に脱線して、柵を突き破って、そのまま民家の庭を縦横無尽に荒らしまくっているような二人の会話に割り込む。
「あなた方が白熱してる間に、あの皆さんがそーっと逃げようとしてるんですけど……」
「なぬっ!?」
「いつの間に!?」
二人して焦る。というか、もっと早く気づこうよ……。
すると、いきなり空閑さんが両手をあげて大声で言う。
「よーし分かった! キミたちがそこまで言うなら――」
や、彼女たちは何も言ってないんだけど……。単に、こっそり逃げようとしてるだけで。
「バスケ大会で八組に勝ったら、アタシが全員に駅前のあの店のチョコパフェを奢ってやろうじゃないか!」
物で釣る作戦だった。
確かにあの店のチョコパフェは絶品だけど、そんなんで釣られ――。
「よし、その話、乗った!」
一人釣られたー!!
「その話、マジで言ってるのよね? だったら私も――」
「あ、まあ、昼食前の軽い運動程度だったら付き合ってあげても、いいかな」
「わ、私も――」
さらに三人が食いついてきた。
甘い物の威力は絶大だった。恐るべきスイーツパワー。
正直、私も食べたい。
あ、さっき空閑さん『全員に』って言ってたから、私も奢ってもらえる!
ヤッホー!!
……って、私がテンション上げてどうする。
さてさて、これであと二人が乗ってきてくれれば、全員が練習に参加してくれることになるわけだけど――。
「ゴメン。私、そういうの興味ないから――」
と、鈴村朱莉が本当に興味なさげな顔で言い、ひらひらと手を振りながら出口へ向かう。
「あの……すみません……私も……」
先ほどからずっとうつむいていた園山千恵はさらに深く頭を下げて謝ると、駆け足で朱莉を追い越して体育館から出て行ってしまった。
「やっぱりと言うか、何と言うか……」
私は二人の背中を見ながら独り言ちる。
朱莉はほとんどの物事に興味を示さないし、何事に対しても全くやる気を見せない。
千恵ちゃんはというと、学力はかなり高いんだけど、運動の方はからっきしダメで、体育の授業のときは大抵隅の方で小さくなっている。
そんな二人だから、そう簡単には参加してもらえるとは思ってなかったけど――。
「リョウちゃん、空閑さん!」
私よりも出口に近い位置で朱莉と千恵ちゃんが出て行くのを見ていた二人に声を掛けて振り向かせる。
「ん?」
「なんだ?」
私は、リョウちゃん、空閑さんの順に目配せをしてから切り出す。
「じゃあ、私は――」
「ああ、そうか。行ってこい、ミツキン。そういうのは発案者の仕事だからな」
と、不敵な笑みを浮かべる空閑さん。
「あー、なるほどねー。ま、ここは私たちが仕切っとくからさ」
と、両手を腰に当てて、空閑さんと同じような顔をするリョウちゃん。
「ん、後は任せた!」
話の早い二人に感謝しつつ、私は逃げた二人を拿捕すべく、全力で駆け出す。
――体育館を出て、まず初めに目についたのは、ゆっくりと歩く朱莉の後ろ姿だった。
「あっかりちゃーーんっ!」
私は最高の親愛と敬意と情熱を込めて名前を叫びながら、速攻で朱莉に迫る。
「…………」
彼女はどこに焦点を合わせているのかわからない目でこちらを一瞥する。
そして、私の伸ばした手が彼女の肩に触れようとした瞬間、彼女はそれを紙一重で躱して、そのまま一気に逃亡をはかる。
「ちっ、逃がさん!」
走り出した彼女を全速力で追う。
「ふふふ……。本気を出した私から逃げ切れると思うなよー!!」
◆
「えぐえぐ……。逃げ切られたよー……」
昼休みも後半に差しかかった頃、私は教室の自分の席で突っ伏して泣き濡れていた。
我ながら最高に無様だった。
「おーい、どうしたんだ?」
悲哀に満ちているであろう私の後頭部をポンポン叩きながら、高浜君が尋ねてくる。
「……逃げ切られたんだよー」
「誰に?」
「…………朱莉」
「あー、なんだ、昼休みに女子全員でいなくなって何してるのかと思ったら、鬼ごっこでもしてたのか? それともドロケイとか?」
「や、そうじゃなくて――」
なんだか唐突に平常心を取り戻した私は、顔を上げて、これまでの経緯をとても端的に語ることにした。
「みんなでバスケの練習。朱莉と千恵ちゃんが逃亡。とりあえず朱莉を猛追。そんで……逃げ切られた」
「……………………」
「……………………」
「…………なるほど」
少し間があったのは、高浜君が私の素晴らしい説明能力に驚嘆していたからだ。……たぶん。恐らく。きっと。
「鈴村さんに、ね……」
彼の表情が少し曇ったように見えた。
……なぜに?
「――っていうか、彼女、なんであんなに速いのさ、駿足なのさ、快足なのさ!?」
私は糾問するような勢いで彼の両肩をがしっと掴む。
「帰宅部の中では私が二番目、栞の次に足速いと思ってたのに! なんでさ! 彼女、いっつもやる気なさそうだし、体育のときも、体育祭のときだって大した活躍なんてしてなかったのに、なんであんなに足速いのさ!」
「んー、それなんだけどさー」
とても興奮する私とは対照的に、彼は頗る冷静に答える。
「鈴村さんも、ある意味、万能なんだよ。あの清澄さんみたいに――」
「え――――?」
思いもよらない彼のその言葉に、私は凍りついた。
◆
「――それで、その授業中に森広先生がね…………って、美月ぃー、聞いてるぅー?」
「……………………」
「美月ーっ!!」
「うわっ!! ビックリしたー」
栞がいきなり大声を出しながら私の顔を覗き込んできたもんだから、驚いて飛び上がりそうになった。
――正直、心臓に悪い。
「なんだよー。ビックリしたのは私の方だよ。さっきからずっとボーっとしてて私の話全然聞いてないしさ」
プンプンという擬態語が最高に似合う顔で私を睨みつけてくる。
「ゴメン、ゴメン。ちょっと考え事しててさ――」
学校が終わり、栞はいつもように私のところへやって来て、帰宅部の私たちはいつものように最寄の駅に向かって二人で歩いていた。
いつもは、その日あった面白いことの話とか、最近読んだマンガの話とか、そういう取留めのない会話をしながら帰るのだけど――。
「珍しいね。さっきから黙りこくって。……何か悩みでもあるの?」
心配そうな眼差しで私を見つめる栞。
「やー、悩みというか、なんというか……」
私が言い淀んでいると、栞は急ウイットに富んだイタズラを思いついた子供のような顔になる。
「んー? もしかしてアレかなー? 恋の悩みかなー? そんなんだったら、この栞おねーさんがいくらでも相談に乗ってあげちゃうよー」
そんな戯言を言いながら、コートを着てるともはや真っ平らにしか見えない胸をポンと叩く。
「はははははっ。誰がどこからどう見ても私の方が年上にしか見えないでしょ」
笑いながら、私よりも顔一個分は低い栞の頭をワシワシと撫でる。
「むーーーーっ」
くしゃくしゃになった長い黒髪を手櫛で直しながらむくれる栞。
「私だって一応気にしてるんだよー。身長は全然伸びないし、胸だってさ、最近はなんか妹の方が――――」
あー、なんかブツブツ言いながらイジケ始めてしまった。いくら万能とはいえ、流石に自分の体型までどうにかできるものではない。というか――。
「栞は十分可愛いんだから、それでいいじゃんか」
「やなんだよー。私はもっと背が高くて、ボンキュボンみたいな感じがいいんだよー」
言われて、私はそんな体型の栞を想像してみる。
「……………………ぷっ」
吹いた。
「なんで笑うのさー!!」
「や、想像したら……つい、ね……」
「むうぅぅぅーーーーっ」
あ、さっき以上にむくれてしまった。
知らない人が見たら、誰もこんな彼女を万能娘だとは思わないだろう。ただの色白の可愛い少女だ。
「――万能。万能ねぇ……」
私は柄にもなく感慨深く呟いた。
栞は天性の特殊な能力や才能によって、望んだわけでもなく万能になった。
「なーに? 私が羨ましいのー?」
いつの間にか機嫌を直していた栞が飄々と尋ねてくる。まあ、そもそも初めから機嫌を損ねていたわけではない気もするけど。
「や、別にそういうわけじゃ……」
「でもねー、万能だって楽じゃないのさ。これでも色々苦労してるんだよー」
全くもって苦労しているようには聞こえない軽い口調で言う。
――と、ちょうどそこで駅に着いた。
栞が先に定期を使って改札を通る。タッチアンドゴーだ。
私も彼女の後に続く。
二人で一緒に帰れるのはここまでだ。私と彼女は乗る電車の線が違うから、ホームも別。だから、いつもここで別れるのだけど――。
まだ、別れる前に聞いておきたいことがある。
「――じゃあ、そんな能力いらなかったの? そんな風になりたくなかったの?」
「いんや。そんなわけないじゃん」
即答だった。
私は、まあそうだろうなぁ、と思いつつ彼女の後ろ姿に問いかける。
「なんで?」
「そりゃ確かに色々苦労はあるけどさ。でも――」
そこで振り返った彼女は、最高の笑顔を浮かべて、言った。
「今が、とぉーーーーっても楽しいからねー♪」
◆
――うん、まあ、普通驚くわな。鈴村さんは中学一年のときから、いや、正確には小六くらいからかな……。まあ、それくらいからずっと今みたいなキャラやってるから、この学校で彼女が万能だってことを知ってるのは、きっと俺くらいだろうから。
ああ、言ってなかったっけか。俺は小学校のときからずっと鈴村さんと同じ学校だったんだよ。そういえば……結構同じクラスになることも多かったかな。
――ん? どうかしたか?
……そうか? ならいいんだけどさ。
そうそう。で、鈴村さんの家って、物凄いって程でもないけど、そこそこのお金持ちらしくてさ、小学校に入る前からずっと英才教育みたいな感じで、色んな習い事とかさせられてたみたいなんだよ。
うん。でも、彼女は清澄さんみたいに凄い才能とかがあったわけじゃないし、どっちかっつーと呑み込みは悪い方だったんだ。……それでも彼女は頑張ってた。それは親の期待に応えるためとかじゃなくてさ、なんつーか、彼女自身が楽しかったからみたいだったな。彼女は努力家。それも、楽しんで努力できるタイプみたいだった。それで彼女は努力して、努力して、色んな知識や技術、能力を身につけていった。
そうだな。だから、万能と言っても、清澄さんとは全く違うタイプの万能なのかもしれない。
――え? うーん……今の彼女が正直どうなのかはよく分からないけど……でも、あんだけ俊足のおまえから逃げ切れたってことは、少なくとも運動能力の面では清澄さんと張れるかもしれないな。
ああ……。それは……いつからかはよく覚えてないんだけどさ、小学校で鈴村さん、少しずつ浮き始めってったんだ。そりゃそうだよな。一応、私立の小学校だったから頭のいいやつはそこそこ多かったけど、その中でも鈴村さんは突出した能力を身につけていったんだから――。
いや、別にイジメられるようになったとかじゃないんだけどさ、なんていうか、こう、クラスの輪に入れなくなってったんだ。皆が鈴村さんのことを、一歩も二歩も引いて見るようになって、彼女との接し方にもどこか隔たりがあるような感じになって――。それと同時に、鈴村さんの方からも皆から離れるようになっていって――。それで、いつの間にか、彼女は今みたいに、何事に対しても無気力になっていた……。
……ああ、そうだな。まさに鈴村さんの三大口癖。「興味ない」「面倒」「つまらない」だな。
うーん……。どうなんだろう? 正直、自分でもよく分かんないだよな。
ああ、そりゃそうだ。鈴村さんが楽しそうにしてるとこなんて、もう何年も見てないからな。
――前例? なんのこっちゃ?
ははっ。おまえがそう言うと、なんかホントに何とかなりそうだから凄いな。
◆
私は電車に揺られながら、窓の外を流れる住宅街をぼんやりと眺めていた。
努力なんてしないで万能になった栞。
努力に努力を重ねて万能になった朱莉。
二人が辿った道は全然違っていて。
そうして二人が辿りついたところは似ているようで、やっぱり違っていて。
でも、二人はどこか似ていた。
ふと、いつかの、暗い寂寥感を瞳に浮かべた栞の顔を思い出した。
直後、さっきの、明るい充足感を顔一杯に浮かべた栞を思い出した。
「――今が楽しいから……か」
私はとても小さな声で独り言ちた。
◇
――いつからだろうか。
この酷く曖昧な世界で、闇に溶け込みそうになりながら、過ごしているのは。
それは、とても遠いようで、とても近いようで――。
わからない。
思い出せない。
何も――。
私は誰なのか。
私はなぜここにいるのか。
――記憶が、濛昧。
手を伸ばせば届きそうで、でも、全然届かなくて。
私自身が、巨大な霧の世界の中心にいるように、不確かで、不安定で。
そこから抜け出したくて、歩こうとして、走ろうとして、もがこうとして。
でも、身体は思うように動かない。まるで、自分の身体ではないかのように――。
「はぁ……」
苦渋と諦観が混じった吐息をつきながら、ゆっくりと目を開いた。
いつものベッドの上。
遠い感覚。
沈み込んでいくようで、浮き上がっていくよう。
暗く、静謐な部屋の中で、孤独に包まれ、夜をたゆたう。
「――――」
なんとなく、天井に向かって、右手を伸ばした。
何があるわけでもない。何が掴めるわけでもない。
でも、そのまま右手をギュッと握りしめて、感じた。昨日よりも、ほんの少しだけ、感覚が近くなっているような気がする、と――。
だけれど、「気がする」だけで、それはやっぱり気のせいなんだろう。もし、気のせいじゃないとしても、単なる偶然か何かだ。人間、誰だって体調がいい日があれば悪い日もある。まあ、私の場合、いつもが悪すぎるのだけれど――。
私はゆっくり身体を起こして、机の上に置いてある小さな球体のデジタル時計を見る。暗闇の中、ぼうっと青白い光が今の時刻を告げている。
――午前、一時十二分。
深夜だ。とても深夜だ。
でも、朝までは、まだ長い。まだまだ長い。長すぎる。
眠るでもなく、何をするでもなく、ただ暗澹と過ごすには――。
「退屈……」
つぶやいて、厚い布団の中で両膝を抱え込む。
今日も、外は寒いのだろうか。
今日も、あの川の水は冷たいのだろうか。
――思い出す。
どこか別の世界の出来事のように、北風を遠くに感じたこと。水の流れを遠くに感じたこと。
そして、彼、高浜君と会ったこと。
倒れそうになって、支えられたこと。抱きとめられたこと。
少しだけ、言葉を交わしたこと。
きっと……美月が大好きな、彼と――。




