プロローグ
◆ プロローグ ◇
私は素足になって川に入った。この場所はあまり深くないから、入ったところで、足首の少し上までが濡れる程度。それに川幅も数メートルしかないから、行こうと思えば簡単に向う岸まで行ける。まあ、行ったからといって、何があるわけでもないのだけれど――。
近くに人工的な光源はなく、水面に映った月が静かに揺れている。
ただなんとなく、本当になんの意味もなく、少しだけ前に進んだ。
私が足を動かしたことで、水面がざわめくように大きく波打ち、映る月明かりがぐらぐらと崩れた。
――さらさらと流れる水の感触を感じようと、私は目をつぶり意識を集中する。それまで、ほぼ無いに等しかった私の感覚が徐々に水の流れを感じ取れるようになっていく。それでも、非常に曖昧な感覚。頭から足まで大した距離はないのに、とても遠くで水に触れているような気がする。
もともと、私の感覚は遠すぎる。月と地球くらいの距離があるのを、これだけ集中して、ようやく雲と地面くらいの距離に縮められる。何かに触った感触も、何かにぶつかった痛みも、感じるまでに時間がかかるし、極僅かにしか感じることができない。だから、私の世界はいつも曖昧で、脆弱だ。
水に入ってから数分経って、やっと気づいた。いや、思い出した、と言うべきか。まあ、そんなことはどちらでもいいのだけれど――。とにかく、今は冬だ。どうしようもなく、冬だ。だから、つまり――。
「冷たい……」
それだけ口にした。
ただの独り言。
小さなつぶやき。
口からこぼれたその言葉は、誰に届くわけでもなく、白く染まった息と一緒に虚空に消える……はずだった。
「そりゃそうだ」
「え……!?」
まったく想定外の、背後からの突然の返答に驚いて、声がした方に振り返った。
さっき私が川に足を踏み入れたあたりに人が立っていた。暗くてよく見えないけど、声からして、たぶん、男の人だ。
「こんな冷たい水の中にずっといるから、感覚がないんじゃないかと不安になったり心配になったりアホなのかと思ったりしたぞ」
――大方あたっている。でも、口には出さずに、ただ彼の方をじっと見る。月明かりしかない暗がりのためか、彼の顔がよく見えない。少し目を細めてみる。……余計に見づらくなった。
彼はそんな私の視線も気にせずに、水際でしゃがむと、暗い色をしたコートのポケットに入れていた手を出して、川の水に指先で触れる。
「うおっ! やっぱムッチャ冷てぇ」
――コート。そういえば、私もさっきまでコートを着ていた。丈が長かった。膝よりも下、足首の近くまであった。サイズを間違えたのか、そういうデザインなのか――。
「おーい。いつまでもそんなとこにいると風邪ひくぞー」
そういえば、川に入る前に、靴と靴下を脱いで、そのコートも濡れそうだったから同じ場所に置いてきたんだった。その時点で、今が冬だということを認識できそうなものだけど、感覚が遠いと、どうもそういうことにも気づかないらしい。それとも、ただ単に、私の思考回路が愚鈍なだけか――。
「……あんにゃろ、聞いてないな」
まあ、どちらかと言えば、後者かな。そもそも、あのときの私は、自分が脱いだものがコートだという認識すらなかった。ただ、川に入ると濡れそうなものを着ているから脱ごう、くらいにしか考えていなかった。でも、コートを脱いだときに、寒いと感じることができれば、今が冬だということくらい気づいたはずだ。だとすると――。
「おいっ」
「――――!?」
いつの間にか、私の目の前にアップで顔があった。
驚いて、一歩後ずさる。
「あ――」
はじめ、何が起こったのかわからなかった。目の前にあったはずの彼の顔が急に消えて、私の視界は月が浮かぶ星空で埋め尽くされた。
――ああ、滑って後ろに倒れたのか、と気づいたときには滑ってから数秒が経っていた。
それなのに、私の背中は水で濡れてはいなかった。
少し顔を上げて見ると、彼が私の両手をつかんで支えていた。
彼は目を見開いて私の顔を見ている。驚いているのか、困っているのか――。私には、よくわからない。
「だ、大丈夫か……?」
私はその言葉の問うているところがよくわからなかったから、とりあえず小声で「さあ……」とだけ答えておいた。
果たして彼はなにが「大丈夫」であるのかを聞きたかったのか?
背中が濡れなかったかどうか? それは私と同じくらい彼もわかっていることだろう。
怪我をしなかったかどうか? 私は倒れてないし、どこにもぶつかっていないのに、どうして怪我をするというのか。
……生存確認? まさか、そんな致命的なことにはなっていない。
「あ、あのさ……」
彼が控えめな口調で言う。
「そろそろ、起きてくれないかな」
「……? 私、寝てない――」
――考え事はしてたけど。
「そうじゃなくて、いつまでもそんな体勢でいないで、早く起き上がってほしいと言ってるんだが……」
なるほど。彼の言葉を意訳すると「その体勢からなら自力で起き上がれるはずだから、さっさとそうしろ」ということになる。それに対して、私は単刀直入に事実を伝える。
「無理」
「なんでだよ!?」
――そんな大声を出されても無理なものは無理だ。自慢じゃないが、私はこんな体勢になるのは生まれて初めてだし、その上、ときどき自分が立っているのか寝ているのかすら分からなくなるくらい平衡感覚がない。おまけに運動神経も最悪。だから、私がこの体勢から自力で立とうとするのは至極危険なことで――。
などと考えていると、彼はこの世のすべてに諦観したような溜息を吐くと、無言で私の両手を引っぱって起こしてくれた。
「……ありがとう」
私がお礼を言うと、彼は眉をひそめて私の顔を覗き込んできた。
「ホントに大丈夫か?」
そう言うなり、私の額にぺちっと手を当てた。
「熱は……なさそうだな。っていうか、逆にスゲー冷たいぞ。おまえは変温動物か」
……………………。
「……………………」
……………………。
「……せめてもの慈悲で軽いツッコミの一つでも入れてくれないか」
「……?」
「ああっ! もういいから、さっさとここから出るぞ。いつまでもこんなとこにいたら、二人して風邪ひくだろうが!」
言いながら、私の手を引き、川から出ようと歩きだした。
「あっ――!!」
――怖い。
すごく、すごく怖い。
他人のペースで歩かされることが。
腕に感じるのは、どこか遠くの私が引っ張られているような、曖昧な感覚。
足に感じるのは、柔らかい綿の上を歩いているような、不安定な感覚。
それなのに、視界の両脇の景色はどんどん後ろに流されていき、川岸がどんどん近くなって――。
噛み合わない感覚と感覚。
私と現実世界の溝がさらに広がっていく。
それを意識すればするほど、恐怖が増して、視界が狭まって、鼓動が速くなった。
――そして、無事に川から出た瞬間、自分でも気づかないうちに前のめりに倒れそうになって…………………………
彼に抱きとめられていた。
それに気づくまでに、私の顔が彼の胸のあたりにうずもれているということに気づくまでに、数秒を要していたと思う。
「――大丈夫か?」
「あ、うん……大丈夫……」
聞かれて、咄嗟にそう答えた。でも、実際、自分でもなんて言ったのか、よく分かっていなかった。
――さっきまでとは違う、妙な感覚に包まれていた。
生まれて初めて感じる感覚。身体の内側から温かくなってくるような、そんな――。
生まれて初めて感じる感情。心の中に白く揺らめく火が灯ったような、そんな――。
ずっと感じていたいと思った。
決して感じてはいけないと思った。
わけが、わからなかった。
でも、どこか心地よかった。
――彼が、引き剥がすように、私の身体から離れた。
同時に、それまで感じていたものがスッと霧散した。
「さ、さーて。さっさと帰ろうか」
なぜか、目が泳いでいる。
と、私に背を向け、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、足を拭きながら言う。
「お、おまえも早く足拭いて、そこのコート着ろよ」
なぜか、さっきまでより少し声が高い。あと、早口だ。
でも、まあ、そのことはあまり気に掛けずに、私も言われたとおり自分のハンカチで足を拭くことにする。前屈みになって、ゆっくりと、丁寧に足についている水を拭き取る。感覚が遠いと、どこに水滴がついているかよくわからないから、こんな作業でも結構苦労する。
なんとなく全体的に拭き終わると、私はその場にゆっくりと腰を下ろした。
「……なんで座ってんだ?」
とっくに靴まで履き終わっていたらしい彼が尋ねてきた。だから、私は至極当然の答えを返す。
「こうしないと、靴下履けない」
「……マジか」
「ん――」
私は頷きだけ返して、自分の身支度に集中する。これもたっぷりと時間をかけて、紺のハイソックスと黒の運動靴を履く。途中、彼が「見えてるぞ」と言ってきたが、なにがか分からなかったから、とりあえず「そう」とだけ返しておいた。
私は慎重に立ち上がって、自分のコートを羽織った。
「――じゃあ、俺は帰るわ」
彼は鞄を肩に掛けてそう言うと、私に背を向けて歩き出した。
「うん……」
私はとても遠くに自分のコートの温かさを感じながら、彼に抱きとめられたときの感じを思い出そうとした。でも、一度離れて散り散りになってしまったそれは、輪郭すら思い出すことができなかった。コートを少し深く着て、首を襟で覆ってみても、感じるのはいつもの曖昧な感覚だけ――。
はーっと吐いた息が、少しだけ白く染まって、すぐに消えてなくなった。
闇の中へ少しずつ消えていこうとする彼の背中を見て、私はなんとなくその名前を口にした。
「高浜、祐樹――」
聞こえるはずないくらいに小さな声だったのに、彼は立ち止まって、振り向いた。
「んー、呼んだかー?」
「…………」
私が無言で首を横に振ると、彼はまた顔を向かっていた方に戻して、片手を振りながら言う。
「おまえもいつまでもこんなとこにいないで、とっとと帰れよー」
遠ざかる彼の背中を見送りながら、今度こそ絶対に聞こえないように、かすかな声でつぶやいた。
「――私がここにいるの、たぶん、半分くらいはあなたの所為なんだけどなぁ」
言い終わって、なんの前触れもなく思い当たった。
ああ、そういえば、今日はスカートだった。




