レディ・ジェーン・グレイ
彼女の部屋はルーム38にあった。
純白のドレスから見える肌は、そのサテンよりも艶やかだった。引き結ばれた形の良い唇、その頬は紅潮しているのか青ざめているのか——
ポール・ドラローシュが描いた【レディ・ジェーン・グレイの処刑】は、ロンドンナショナルギャラリーの二階。ルーム38の壁に大きく飾られていた。
目隠しをされ宙を彷徨う手を、介添人の手がそっと断頭台に誘う。
僅か九日間の在位で処刑された女王。この十六歳の女王を、英国人はクイーン・ジェーン・グレイとは呼ばない。
レディ・ジェーン・グレイ——御令嬢と呼んだ。
絵画から滲み出るその高潔さと、直後の悲劇。僕は心奪われ、動けずにいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ロンドン塔の牢獄。兵士に背中を押されて数歩よろめいた。その私の後ろで、鉄格子が閉まる。冷たく錆びた音が聞こえた。
九日前、私は同じこのロンドン塔で女王に即位した。華やかな祝福と、邪な思惑、そして私の困惑。説得されて王位を継いだ私はとても憂鬱だった。
六週間前に結婚した夫のギルフォード。
政略結婚の相手でしかないと思っていた彼は、とても聡明で優しく、私の心は急速に惹かれていった。でも私が女王となってからのギルフォードは、国王となること望むようになった。
「ジェーン、なぜ私を公爵の地位に留める?私は君の夫だ。女王の夫ならば国王であるべきだろう」
「お願い、分かってギルフォード。全ての貴族が即位に納得してる訳ではないわ。それに、国民の支持も得なくてはいけないの」
もう三日も同じ口論を繰り返していた。
「私を王配の地位に置くのは、君が私を支配したいからではないのか?」
「ギルフォード、私は誰のことも支配しようなど思っていません。私は、好きな本を好きな人と——ギルフォード、貴方と共に読んで過ごす日々をおくりたかった。女王になんてなりたくなかった!」
生まれて初めて、喚くように怒鳴っていた。
「どうしていつも私は私の人生を選ぶことが出来ないの!?でも、あてがわれる人生の中で、私は貴方を選んだわ。初めて私は人生を選んだのよ」
「ジェーン、何を言っているんだ?僕らの結婚は——」
「私、命を絶つつもりでしたのよ。婚礼の後の夜の前に」
「なっ」目を見開いたギルフォードに、明らかな狼狽の色が見えた。
「ギルフォード、貴方覚えていますか?初めて出会った日に私に言ったこと」
「ええと......なんだったかな」
ギルフォードの頬が淡い紅色に染まった。
「ふふ。思い出した時に教えてください。私はその言葉で貴方を好きになったのですから」
ギルフォードは何度か口の中で言葉を噛むようにして飲み込むと、悪戯を見つかった子供のような表情を浮かべて部屋を出て行った。
その日から彼は、王位について何も口にすることはなかった。
これでギルフォードを政争から遠ざけることが出来た。そう安堵のため息を漏らしたのも束の間——サフォークで二位の王位継承権を持つメアリーが即位を宣言した。
この宣言は継承権四位だった私の即位宣言を無効にするに十分だった。
正当性を失った私は九日間で玉座から降ろされ、湿った石畳の牢獄に幽閉された。そして間もなく、私にあてがわれた世話人からギルフォードも投獄されたと教えられた。
私はその後すぐに看守長の邸宅に移されて、多少の自由を許されていた。それはメアリー女王の配慮だと、看守長から聞かされていた。
「レディ・ジェーン、女王陛下はご夫妻の処刑は考えておりません。このまま恭順の意を示しておられれば、いつかは恩赦も受けられましょう」
「ありがとう、パートリッジ看守長。私も貴方にご迷惑が掛かるようなことは考えておりませんわ」
こうして中庭の散策も許されているのが、彼の言葉に嘘が無い裏付けだろう。
世話人の娘たちも、出自の良い者が選ばれていた。
いつかはまた、ギルフォードと共に暮らせる。
——年が明けて間もなく、そんな淡い希望は露と消えてしまった。
父がプロテスタントと共に挙兵してしまった。
「お父様が?」
パートリッジ看守長の沈痛な表情に、冷たく重たいものが身体の奥底へ沈んでいくのを感じた。
メアリー女王がスペインのフェリペ皇太子との婚約を発表したことへの反発。
この国をカトリックの王国にすることへの反乱だった。
反乱はすぐに鎮圧されたが、私とギルフォードの存在が危険視されるようになった。私たち夫婦は、生きているだけでプロテスタントの求心力になると。
私は再びロンドン塔の牢獄へ戻されて、本を読む以外の自由は失われた。
もうどれだけの日々を、ギルフォードと離れて暮らしただろう。
彼は私の顔を覚えてくれているだろうか。私に掛けた最初の言葉を覚えているだろうか。
底冷えの厳しい二月の朝だった。
フェッケンハムと名乗る聖職者が、白い息と聖書を携えて牢獄を訪れた。
「レディ・ジェーン。メアリー女王は苦境に立たされています。貴女とギルフォード公の処刑をスペインから求められているのです」
「そうでしょうね。プロテスタントの反乱が再び起きては、婿入りされる皇太子の安全が脅かされるでしょうから。貴方がここを訪れた理由は、私の改宗かしら?」
「噂通り、聡いご令嬢ですね」
フェッケンハムの頬が緩んだ。
「カトリックの司祭様が訪れる理由なんて、他には思いつかないですもの」
私がそう言うと、司祭は厳しい顔を作って私に話した。
「女王陛下は貴女を救う唯一の手段を講じたのです」そう言うと、大きく十字を切って目を伏せた。そして私の耳元に口を寄せると「嘘でもいいのです」と誰にも——そう、神様にも聞こえないように囁いた。
フェッケンハムは何度拒否をしても、毎日この牢を訪れてくれた。私は足音が石の壁と床に響き渡る度に、心をざわめかせて彼を待った。
「パンは神なのです。イエス・キリストが分け与えたパンは神の肉で、ワインは血なのです」
「いいえ、司祭様。パンはパンでしかありません。イエス・キリストが『これは私の体である』と言ったのならば、それは思い浮かべる為の象徴にすぎません。パン職人が焼き上げたパンが、どうして神様になれるのでしょうか。それを神と呼ぶのは、まさに偶像への崇拝ではありませんか?」
フェッケンハムとの神学論は心が踊った。彼もまた、私との論争を楽しみにしているように見えた。
彼との数日が過ぎた。
いつものように聖書の言葉の解釈を巡る論争を終えると、彼は息を吐いた。
「私たちが会うのは明日が最後になります。ですが、まだこの限りではありません」フェッケンハムは聖書を閉じると、真っ直ぐに私の目を見詰めた。
「私の肉体の死はすぐそこに来ていますが、魂の救済を裏切ってまで生き延びるつもりはありません」私がそう答えると彼の瞳が揺れた。
「それに、司祭様。これは私が自分で決められた人生でただ二つ目の選択なのです」きっと上手に笑えたと思う。フェッケンハム司祭の頬が、僅かに緩むのが見えたから。
翌日の朝日は、僅かに格子窓の影を壁に落とした。少しづつ春は近付いているようだ。そこに私たちが居なくとも。
足音が響いた。
ふたつ。
そしてもう既に懐かしいものとなった声が耳に届いた。
「ジェーン、私が瞼に描く女性は今までもこれからも君ひとりだ」
幽閉されて以来、私たちは一度も会うことを許されなかった。これは看守長の最後の計らいだろうか。
『ジェーン、私が瞼に描く女性はこれからは君ひとりだ』初めてあった日の、あの気障なセリフ。頬を染めて言ったギルフォードに、私は心惹かれた。
そう思った瞬間、激しい後悔が私を苛んだ。魂の救済を私だけが裏切れば、ギルフォードを救えたのかもしれないと。声が出せなかった。ギルフォードの名を呼び、私も同じ気持ちだと伝えたかった。でも私の口は、はぁはぁと荒く息を吸い込むだけだった。
間もなくして軋んだ鉄の音と、錆の臭いが私を牢の外に出した。
中庭の見える通路を歩いた時、窓の下を荷馬車が通った。荷台の上のボロ布が風にはためいた。
「おい、しっかり覆っておけ」
その言葉に振り向いた私の目に、私の頬に触れ、頭を撫で、抱きしめてくれた彼の手が——血の気を失い不自然に白い手が映った。
「ギルフォード!ああ、ギルフォード、ギルフォード!」立ち止まる私の背を看守が強く押した。よろけた私の姿を見て、パートリッジが看守をたしなめた。
「ごめんなさい。私が取り乱したせいで」私はそう言って看守に頭を下げた。
かび臭い通路を抜けると、久しぶりの太陽を浴びた。冷たいけれど清浄な空気を、私は胸いっぱいに吸い込んだ。
斧を携えた処刑人の前を通ると、小さな断頭台があった。乾きかけた血がそこに見えた。
(ギルフォード)
そう思った刹那、目に布が当てられて視界が消えた。
(待って、ギルフォードのギルフォードの)
私の手がまだそこに残るギルフォードの温もりを求め彷徨ったときだった。
私の腕に手が触れた。「案内します」
獄中にあって尚、親身に居てくれた男爵の声だ。彼は私の手を誘うと、新郎に娘を託す父のように彼の痕跡に置いた。
「これでお別れです。天国で再会しましょう」フェッケンハム司祭の声が静かに聞こえた直後、風を切るような鋭い音が聞こえた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ホテルのバーでカクテルを頼んだ。
ブラッディマリー。
メアリー女王の名を冠した、血のように赤いカクテル。
その一滴にジェーンとギルフォードもあった。
パニックを起こしたジェーンの腕を、介添人が取ったと言われるドラローシュの絵画。
信仰を貫いた彼女は、本当に取り乱したのだろうか?
グラスを飲み干すと、僕は席を立った。




