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クリアな色  作者: 椎名涼
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1.出会い

「うわー、急に降ってきやがった。さっきまで晴れていたのに。こりゃあ、まずいな」


 突然の雨が男を襲った。辺りを見渡すが、近くに雨をしのげそうな場所は見当たらない。


 男は傘を持っていなかった。天気予報の晴れを信じていたわけではない。それに、たとえ持っていたとしても使えない。男は傘を差すことができないのだ。


 男はなるべくゆっくり歩いた。水しぶきを上げないように、足元に注意を払いながら。小雨の今なら、この行動がベストだと考えたからだ。だが、それも長くは続かなかった。次第に雨は強くなっていった。


 全身が濡れていく。寒い。しかし、そんなことよりも優先すべきは、誰にも見つかってはいけないということだ。晴れていればそんな心配をする必要はないのだが、雨だとそういうわけにもいかない。雨脚が強くなるほどずぶ濡れとなり、全身が雨粒によって浮き出てきてしまう。一刻も早く、屋根がある場所へたどり着かなくては。


 男はふと足を止め、目先の地面に叩きつけられる雨粒を見た。跳ね返った水しぶきが数メートル先までアスファルトを覆い、白いもやになっている。これなら、たとえ全速力で走ったとしても、足元から上がる水しぶきは空から叩きつけられる雨粒と混ざり、男が通った後を隠してくれるかもしれない。

 男は走った。


 五分ほど経っただろうか。約百メートル先にガジュマルの木が見えた。生い茂った葉っぱが屋根をつくっている。


 助かった。あそこで雨宿りをしよう。



+++++


 男はガジュマルの木の下に駆け込んだ。大雨から解放され、ほっと胸をなでおろした。


 雨が降り出してからここまで来るのに誰にも会わなかった。人通りが少ない道を選んできたし、人に目撃されるようなことはなかったと思う。きっと大丈夫だ。

 自分にそう言い聞かせた。


 まさか、この俺が誰にも見つからないように姿を隠そうと必死になるなんて。自分が何者であるか知っているからこそ、今の状況におかしさが込み上げてくる。

 男は微かに笑った。


 それにしてもびしょ濡れだ。さっきまで晴れていたのに急にバケツをひっくり返したような大雨。ところが、不思議なことに遠くの空は晴れ渡っている。こんなことは今までにも何度かあったが、その度にいつも思う。本当に奇妙な世界だな、ここは。


 さて、これからどうしよう。そう考えていたとき、ふと視界に入るものがあった。それが何なのか理解した瞬間、男は驚愕した。声は出なかったが、心の中では短い悲鳴を上げていた。無意識に顔のあらゆるパーツが限界まで開いた。その表情を誰かに見られていたとしたら、さぞ、おかしく映ったことだろう。しかし、そんな心配は必要ない。顔を隠すなんて、意味のないことだ。


 道を挟んで向こう側に、傘を差した一人の少年が立っていた。明らかに目線が男に向けられている。少年は男と同じく、驚いた顔をしていた。不安がよぎる。


 まさか、見えているのか?


 少年がこちらに向かって歩いてきた。緊張が走る。体がこわばって動けない。


 そして、男の前に立った。


「もしかして……、透明人間?」


 ギクリとした。一瞬、心臓が止まったのがわかった。


 今、何て言った? 俺のことを透明人間だって?


「さっき、雨の中を走っていたでしょ? 何もない空間に人の形が浮かび上がっていたから、あそこに誰かいるってわかったんだ」


 男の髪の毛からは水滴がぽたぽたと落ちていた。顔や体にも水滴がついている。少年の目には、何もないはずの空間に水滴だけが浮かんでいて、それが人の形にかたどられて見えていた。


 もう、完全に気づかれている。俺が透明人間だってことが。


「ここで何をしているの?」


 答えてはいけない。黙っていれば、もしかしたらこの状況をやり過ごすことができるかもしれない。


 しばらく沈黙の時間が続いた。


「もしかして、しゃべれない? それか、言葉が通じないのかな」


 答えるな。


 男はそう自分に言い聞かせた。初めての危機。それに伴う恐怖。だが、それだけではなかった。同時に予想外の欲求が男の中に芽生えてきた。


 未知の世界への魅力。


「……雨宿り」


 男はそう答えた。誰かに聞かせるために声を発したのは、これが初めてだった。


「そっか、カタブイしていたもんね」


「……カタブイ?」


「カタブイは、空の片側だけ雨が降るっていう意味。方言でそう言うんだよ。ほら、僕らのいる場所は土砂降りなのに、少し離れた向こうの空は晴れているでしょ。沖縄の夏はこんな天気、結構多いよ」


 少年は空を指差しながら説明した。男は上を見上げ、納得した。こちら側は厚い雲に覆われているが、数メートル先には青空が広がっていた。その光景は少年にとっては当たり前なのかもしれないが、男にとっては神秘的に感じた。なぜだか、世界が変わる気がした。


「……俺のことが見えるのか?」


「見えないよ。でも声は聞こえるから、そこにいるんでしょ? 透明人間って本当にいるんだね」


「いや、待て。この状況を受け入れるの、早くないか? 普通なら、もっと驚いて怖がるだろ! てか、まず信じないだろ! 何で第一声から透明人間って単語が出てくるんだよ! こういうとき、大抵の人は幽霊の仕業だって思うんじゃないか? あいつらのほうが俺なんかより、ずっと知名度が高いんだから」


「透明人間ぐらい、本や映画で見て、みんな知っているよ」


「いいや、みんなではないな。毎年、夏のホラー番組をにぎわしているのは幽霊だ。廃墟に行く番組とかあるだろ。あいつらは特集されることが多い。怖がられても、結局、世間から愛されているんだよな。テレビで透明人間特集なんてやっていたことがあるか?」


「ごめん、記憶にはないかも」


「そうだろ! 透明人間は人気がないんだよ! 需要がないの! だから、すぐに透明人間なんて言葉が出てくるのはおかしいんだよ!」


 ここまでしゃべって一息ついた。そして、冷静になった男が一言付け加えた。


「こんな悲しいことを言わせるなよ……」


「自分で言ったんじゃないか」


 少年が呆れた顔をした。男はうなだれたが、今の会話で気づいたことがあった。

 自分は案外、饒舌なのかもしれない。

 男にとってそれは新たな発見だった。


「君が言うほどマイナーでもないと思うよ。でも、僕も君と似たような存在だから、あまり動じていないのかもしれない」


「はあ? お前は、しっかり姿が見えているぞ」


「うん、それはそうなんだけど」


 少年はここで言葉を切った。空を確認し、傘を閉じた。さっきまで降っていた雨が噓のように突然止んだ。まだ雨雲はあったが、隙間から太陽の光が漏れ、何だか清々しかった。


 二人の出会いは、新しい世界の始まりだった。


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